まやの午睡

日常の記録です。

新幹線殺傷事件でかんがえたこと

2018-07-02 00:05:47 | 日記
日本に帰った時は必ず新幹線に乗る。

飛行機が嫌いなので、鹿児島、沖縄、北海道に行った時以外は新幹線の乗り継ぎが基本だ。

だから、先月の新幹線内の殺害事件にショックを受けた。

男を取り押さえようとした梅田さんという男性が悲惨な殺され方をしたこともショックだった。

長男と同世代の男性だ。
長男も出張で東海道新幹線をよく使う。

凶器を持った相手を素手で取り押さえるテクニックという建前の護身格闘技クラヴマガに何年も通ってレベルも上がっているはずだから、長男なら何とか身を守れるのだろうかと希望的観測もしてみる。

で、この梅田さんは最初は殺人者を抑え込み、その間に襲われた女性も車内の他の人たちも別の号車に避難したので被害が少なくなったけれど、新幹線が揺れてバランスを崩し転倒したという。
男はさらに別の女性たちを追いかけ、梅田さんはそれを後ろからまた捕まえようとして、怒り狂った男からめった刺しにされた、という話だった。

この話を、ついこの春に一緒に新幹線に乗ったばかりの夫にしたら、第一声が「どうして他の乗客が誰も男性に手を貸さなかったのか」だった。

確かに、その時間帯の新幹線、出張帰りの人もいたと思う。男性が最初に犯人を取り押さえた時にすぐに複数の人が加勢していたら、何とかなったかもしれない。

気になってもう少し調べたら、横浜で大きなコンサートが終わったところで、興奮した女性の観客たちが大勢乗り込んで来たのだという。

うーん、私ももちろん逃げられるなら逃げるだろう。

でも、いくら大勢の女性が乗ったと言っても、加害者も男性も乗っていたのだから、他に男性が皆無だったとは思えない。ビールでも飲んで居眠りしていたということはあり得るけれど。

でも、夫の即座の反応を聞いたら、確かに、これがフランスなら少なくとも何人かは助太刀に入っただろうとなんとなく思う。

夫や長男ならもちろん、女性だって、私のよく知っている何人かの友人なら、絶対に行動を起こしている。

長女や次女だって、協力して反撃することは大いにあり得る。

怪我をすることは避けられないにしても、男は銃を持っていたわけではないのだから大勢で取り押さえれば死者を出すことはなかったかもしれない。

思えば、クリント・イーストウッドが映画化したことでも有名なアムステルダムからパリ行きの単独テロ事件では、刃物どころでない重装備のテロリストを複数の乗客が取り押さえた。

休暇中のアメリカの兵士3人が居合わせたという僥倖もあるが、他の「普通の人」たちもテロリストを取り押さえようとして負傷している。

パニックだけではなくて、「相手は一人だ。なんとかしなくては」という気持ちが瞬時に共有されたからこそ、「なんとか」なったのだ。

長男のやっているクラヴマガもイスラエルの兵士の訓練に取り入れられている護身格闘技だし、兵役のある国の男の方がいざという時に立ち向かえる、兵役のない日本人の男はやめた方が無難だ、という意見もネットで読んだ。

私の子供の頃は、確か公立中学校では男子の体育の時間に柔道と剣道が必修だったけれど、今はもうないのだろうか。

事故の多い組体操なんか無理にやらせるよりも事故や事件に遭遇した時のため心身のサバイバル訓練になるような気がするけれど。

フランスでは「危機的状態にある人を救おうとしないこと」そのものが建前上は法律に触れることになる。

もちろん「期待可能性」というものはあるから、たとえば私という「高齢女性」が暴漢の乗り合わせた新幹線で、梅田さんを助けずに逃げたからと言って「違法性」を問われることはないだろうし、パニックに陥ったほとんどの人は自己防衛本能の方が先に立つだろう。

それでも、それでも、

「高齢者」である私の夫は真っ先に暴漢を押さえつけようとするだろうし、夫の父(生きていたとしたら)も、今や高齢化している兄弟姉妹たちも、うちの長男や婿クンやパパくんも迷わずに向かっていくだろう。

DNAを共有していたり、同じ価値観の家庭で育ったりしているのだからそれ自体は不思議ではない。

前にもこれによく似たテーマを書いた。

この記事。


私はじっくり戦略を練ることには向いているかもしれないけれど、「とっさの場合」に実力で動けるかどうかなどまったく自信はない。

その意味で私は私の母よりダメだと思う。母は、感情的なので、じっくり作戦を練って合理的に行動するという「戦争」ではあてにならないけれど、自分の子供が襲われるというようなシーンがもしあれば、それこそ、子連れの猛獣のように怖いものなしで敵に突進するだろうことは、明らかだった。私はそれを知っていた。

梅田さんについて、彼のとった行動を意外だったという知人は誰もいない。
彼なら十分にあり得る、とみなが証言している。そういう人は、「存在する」のだ。

子供たちが小さかった時、夫の帰りが遅いと私はいつも、事件に巻き込まれたかと心配した。
誰かがどこかで暴力を受けているのを見たら必ず弱い方を守りに入るのが明らかだからだ。

それは「夫」の存在の仕方に組み込まれているので、もしそうやって逆に怪我させられたり殺されたりしたとしても私はそれを運命として受け止めるしかないと思っていた。

今は、自分も高齢者なのだから気をつけなくてはいけないよと夫に言い聞かせているのだけれど、寝たきりにでもならない限り、そういう相対的な判断など完全に無視することは自明だ。「勝ち目がある」かどうかを考えない脊髄反射だ。

ともかく、子供たちやその連れ合いもそうだけれど、夫の兄弟姉妹も、甥たちも、もしその新幹線に乗り合わせていたら、一瞬の迷いもなく、怪我をしても男を取り押さえようとしたと思う。

うーん、もし私が夫と長男と一緒に新幹線に乗っていて、前の席で暴漢が誰かを襲ったら彼らはいっしょに取り押さえに行ったと思うし、そしたら、私も連鎖的にリュックとかスーツケースを振り回して応援した可能性はある。とっさに「勝ち目」を計算すると思うからだ。

私たちは70年以上も戦争のない国で暮らしている。
幸い、大事故や大災害にも遭遇しなかった。

今さら、ドラマティックな状況に陥りたくない。

とりあえずの平和と身の安全がこれからも与えられるなら、「暴漢への反撃」へという形ではなくとも、暴漢を生むような社会の問題点と、そこから何をどのようにしたら犠牲者(テロリストや暴漢も含めて)を減らして多様な人が共存できるようになるかについて真剣に考えていきたい。

「勝ち目」がなくとも、絶対にあきらめない。