まやの午睡

日常の記録です。

Gratuité と Amour (無償性と愛)

2020-10-26 23:54:41 | 日記
万聖節のバカンスの第一週目、久しぶりに長女の子供たち3人をまる一週間以上うちであずかっていた。
中学生の孫クン、小学生の妹ちゃんと末っ子ちゃんの組み合わせはもう楽で、コロナ禍の第二派もあってレストランでは食べないと決めているので、テイクアウトなどを含めて三食とおやつを食べさせるというのが第一使命。
彼らのおかげで、7カ月ぶりに映画館にも行った。
後は図書館や、庭仕事、全員に手袋とゴミ袋を配って落ち葉拾いをさせる。ピアノのレッスンもした。
3人もあずかって大変だねという人もいるけれど、うちの子供たちと同じ構成と年の離れ具合なので別にそう困らない。
次女のKちゃん、Pくんはパパくんのおとうさんの別荘でパパくんのお姉さんの3人の子供と過ごした。今週は次女がKちゃんを連れてレンヌの長女のところに行っている。

うちにいる間3人は仲よく遊んでいたけれど、たまに、上の2人が、「これは僕の、私の、」と言って言い争いをしていた。チョコレート菓子についているおまけの類の小さなおもちゃがたくさん入っている箱がある。これまでに何人もが置いていったもので、うちの子の時代のものさえ混ざっているかもしれない。
でも、箱を開けると、2人で、「あ、これは僕のもの」「いや、それは私のよ」という具合に喧嘩し始めたのだ。

そこで私が仲裁。

「あんたたちはそういうけど、そこにあるものはみんな、もらったものでしょう。もらったということは、gratuitということ、gratuit ということはgrâceと同じ。そしてgrâceと共に与えられたということはamourと共に与えられたということ、その時点でそれは単なる「モノ」ではなくてamourと共にある存在で、それは私有できない、分かち合う、さらにだれかにあげる、しかないものよ。
あんたたちの命だって同じ。Amourと共に与えられたものだからあなたたちの私有物ではないし、好き勝手に扱えるものではない。」

と論を展開すると、2人ともすんなり納得した。
すごい。

そこにあるおもちゃのすべては確かに自分たちがカネという対価を払って得たモノではないことは認めざるを得ないからだ。

こういう話をするときに、フランス語でよかったなあと思う。
gratuité は 日本語では無償性だけれど、子供と話す口語では「無料」とか「ただ」ということばになる。
gratuitéはgrâceと同根で、「恵み」ということにつながるのだけれど、これも日本語なら即、神さまやお代官様からの「お恵み」か、物乞いが「お恵みください」とすがるのを連想するように、「上下関係」を想定することが多い。
フランス語の恵みgrâceは、一方的に与えられるもので、美学にも通じるし、そこには、「願い求めるよりも先に与えられている」というキリスト教神学的含意がある。
で、そのすべての原動力がamour「愛」というわけだ。

上位にある者からおしいただく恵みや情けではなく、与える側がひたすら「愛」に促され、そのためにはイエス・キリストのように自分を犠牲にしてまで与えることもいとわない。

でも、日本語では子供との会話で「愛」という漢語は使わないし、
amour désintéressé (見返りを期待しない愛)などという言葉も子供と話すのには不自然だ。
フランス語ではそれらすべての言葉が日常語として使えるので、すごく自然で、便利だ。

私の子供の時に、多分、一番身近だった「愛」の教えは、食事の前に「おとうさん、おかあさん、ありがとうございます、お百姓さん、ありがとうございます」と手を合わせることだった。(今なら、百姓という言葉さえ、差別用語じゃないよな、と確認しなければならない感じだけど)

「ありがとう」は日本語における「愛」のキーワードだと思うけれど、その「ありがとう」すら、日本の家庭や店などで頻繁に使われていないような気がする。フランス語のメルシーは大人同士でも子供同士でも世代間でも毎日連発されているけれど、私は大人になってから、母に「ありがとう」というより「サンキュー」と言っていたことを思い出す。他の人にも「ありがとうございます」はあらたまった場合で、普通は、「あ、どうも」とか「どうも」だったような。
メルシーの語源自体は、「対価」に関係した言葉だけれど、キリスト教の分脈の中ではgrâceにも関連付けられるようになった。

日本語を語るフランス人が、日本語では母親が幼児にポエムで話す、と書いた記事を読んだことがある。
オノマトペも駆使した幼児語が豊かだということだ。フランス語でもdormir(眠る)から来たdodoやlait(ミルク)から来たloloなどのような幼児語はあるけれど、話し言葉と書き言葉の乖離は少ないし漢語と大和言葉の乖離みたいなのはない。「ポエム」は主として脚韻からくる。

でもフランス語のおかげで、子供たちにも適切な言葉を選んで話せるのはうれしい。
ふだんでもamourを口に出して伝えられている関係だからこそ、私の「仲裁」が功を奏したのだ。

こういうタイプの言葉だから、カテキズム(公教要理)なども日常の分脈で子供たちに伝わるし、各種の「祈り」も理解しやすい。日本の仏教典礼で耳にする漢語経由の仏教の祈りなどは大人でもよく分からないのは思えばもったいないことだ。

子供たちに語ったことで、私も、私自身や私に属すると思われるもののほぼすべては「与えられたもの」で、愛を通して他の人やこの世界と共有しているのだとあらためて思うことができた。

メルシー。