まやの午睡

日常の記録です。

wish  と command の関係

2015-08-19 00:10:40 | 日記
前に書いた記事の補足をしておく。スコットランド人の友人の所に遊びに行って庭でお茶をしている時に、彼らがゲイのカップルで最近いろいろ浮き沈みがあったので、例の「あなたの命令は私の欲するところ」と言うフレーズを披露した。

すると彼は、それは普通は「Your wish is my command」という決まり文句だと言った。

つまりお店などで客の注文に対して「お客様のお望みになることは私にとっては命令でございます」のようなニュアンスだ。「お客様は神様です」みたいな感じである。

で、私が「いや、そうじゃなくてその逆の Your command is my wish なのよ」、と言うと「それはいい」と笑っていたが、帰って検索してみたら、なんと、Phoebe Campbellというアメリカ人の作家が書いた連作エロティック小説に「Your command is my wish」というのがあったので驚いた。

つまりこの小説も、普通の言い回しを逆にして、「あなたの命令は私の望むものよ」という倒錯的な表現になっているわけだ。

前の記事でも、「そうともとれる」とは書いたが、実際にこのタイトルの本があったとは。

フランス語にも訳されている。

映画の中では男が婚約者に「ははっ」という感じでユーモラスに答えていたので、はたしてこの小説の含意があったのかどうかは知らないが、そして友人のスコットランド人もそんな本のことは知らなかったはずだが、なんだかけっこうリスキーな言葉だったかも、と思った。

だからよい子は真似をしないように。
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孫クン語録がまた増える

2015-08-08 18:56:09 | 日記
孫クンと妹ちゃんの2人を連れてトゥールの近くのバカンス村に一週間ほど行っていた。

孫クンはパリでも水泳教室に行っていたので、ゴーグルをつけて素潜りするのが大好きでかなり自由な感じで泳げる。妹ちゃんも孫クンを見ているから、両腕に着ける浮き輪(日本語でなんというのか知らない)をつけると足が立たないところでも一応泳ぎらしいものをする。

私も夫も監視ばかりでほとんど泳げないのは毎年同じ。

自分が小さい時はよく海水浴に行ったけれど、何も怖いものはなかった。うちの母親は泳げないのできっといつもはらはらしていたと思う。父は横泳ぎがうまくて何キロでも泳げると言っていた。

私は子供たちを見張るためにコンタクトレンズをしたままなので、目に水が入るのが嫌で及び腰だけれど、いざとなったらプールの範囲内だったらなんとでも泳げると思うから怖くはない。でも、この季節、子供のプールでの事故などのニュースを耳にすることがあるのでやはり緊張する。

さて、例のごとく二人はたびたび喧嘩をする。たいていは妹ちゃんの大げさな泣き声で私か夫が仲裁に入るというパターンだ。

例によって孫クンの方を諌める。

「ぼくは正しい」と抗議する孫クンに、

「正しいか正しくないかなんて問題にしていない。大きくて強いうえに知的に優位にある方が、平和をもたらすために工夫をしなさい」

「正しい、というのは一種の力でもあるのだからその力を報復以外に使いなさい」

「妹ちゃんを泣かせるのはあまりにも簡単なことで頭を使う必要がない、笑わせる方がずっと高度な能力の発揮だ、だからこの状況で妹ちゃんを笑わせてみなさい」

などと言うと、孫クンはいろいろ工夫するようになった。

それから世界情勢の話になり、軍事的に優勢なアメリカが、正義をかざして小国を「征伐」に行くような例での戦いの連鎖の話とか、攻撃の遺伝子などについても話した。

私は自分がまったく攻撃性がないので、もし私のような人ばかりならこの世に争いはないだろうけれど、人間が環境を支配したい欲望によって作り出した数々の利器も登場しないし、それらの恩恵にあずかれない私はとても生きていけないだろう、と言った。

力の行使や征服欲そのものが「悪」なのではなくそれをどうオリエンテーションするのかが必要なのだと。

そのために一番必要なのはやはり教育だと思う。ここで孫クンが不当な攻撃を受けたら報復するというやり方ではなくその連鎖から抜け出すやり方を妹ちゃんに見せることが必要なのだ、と私は言った。

すると孫クンは、演劇のクラスにダウン症の子供がいること、その子には攻撃性がないこと、その子がいかに快適に暮らせるかのために、他の子は力を使わなければならないんだね、と言った。

その後で、いつのまにか宇宙の始まりと終わりの話になって、ビッグバンの前とかダークマターについて、夫も加わって、いろいろ話が広がった。

地球や宇宙が終わったらどうなるのかというのは今生きている者が死んだらどうなるのかということに通じると孫クンは言う。

そして蜻蛉は一日しか生きられず、その一日でメスを探して次の世代を残すのだというエピソードを披露し、自分はそれがただの命のつなぎだけだとは思えない、つなげていくだけではなくてなにか加算され積み重ねられていくものがあると思う、それは命をつなげるという意志みたいなもので、人間の場合はなにか大きな意識のようなものだ、と言う。

だから自分は今知っている誰かが死んでいなくなっても消えたとは思わない、自分の中に積み重なり、養われていくものがあるのだ。

と、これは孫クンの話。

で、私も大いに啓発されて、普段考えていることを本気で話し始めた。

相手が7歳の子どもだというのは完全に忘れている。

夫も同様に、これまで物理学者たちや天文学者たちが考えてきた問題についていろいろ意見を述べ始めた。

で、ここに残しておきたかった孫クン語録というのは別に、上記の哲学的な話の内容ではない(長女も孫クンと哲学的な話をよくすると言っていた)。

私が驚いたのはその後の言葉だ。

1時間ほどこうやって本気で議論していたので、さすがに、

「さあ、そろそろ歯を磨いて寝る時間(妹ちゃんは一人遊びをしていた)よ、」

と私が言ったら、孫クンがこう答えたのだ。

「分かったよ、あ、でも、このディスカッションの続きは絶対にまた明日しようね。すごく興味深い内容だったし、こんな話は誰とでもできるわけではないから」

こんなことを言われるなんて思っていなかった。

驚いたのでここに記録しておく。



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