まやの午睡

日常の記録です。

チャリティコンサートの準備

2011-05-27 13:13:31 | 日記
コンサートの準備に追われて、メールのやり取り以外の時間がまったくとれない。

東日本大震災被災者支援の今回のコンサートがいろいろあった末にコンコルド広場の海軍サロンで開催されることになったため、普通のコンサートとはまったく違う様相を呈してきた。セキュリティのために事前に氏名出生地年月日、ID番号を出席者すべて届けてもらわなくてはならず、心理的ハードルもある。

また、そういう特別な機会になったので、なんだか、関わっている人の性格が浮き彫りになってくる。

場所も一般公開のない仰々しいところなのだが、海軍大将参謀総長の肝いりで全招待制ということで、ここで「権威」とか「肩書き」に対する人々の反応の差がくっきりしてきたのだ。

分かったことの一つは、私たちアーティストは権威や肩書とまったく別の世界を生きているということだ。

海軍関係者のエスプリはまた真逆のところにある。
当然だが、上からの命令に盲従という原則の世界だから、彼らにとって海軍大将は王にも等しい。

私たちのトリオはバロック・ダンサー2人とカウンターテナーとの共演。バロック・ダンサーは私のダンス仲間で、カウンターテナーは、甥の空手友達。彼の歌ったのをはじめて聞いたのは2008年のトロカデロでのチベット民族支援のコンサート、その後が2009年のパリ市庁舎での釈迦真骨展示会記念スペクタクルだった。

去年はじめの私たちのコンサートに来てくれた後で、共演を企画したが、なかなか時間が合わなかった。今回のチャリテイに声をかけたら二つ返事だった。ダンサーもしかり。彼らのように忙しい人たちが、何が何でも練習に集まってくれるのは、感動的だ。もちろん完全ボランティアである。

今回のオーガナイズで雑務の他に不愉快な行き違いはいろいろあってストレスはたまるのだが、アーティストたちと「美しいもの」創りをしていると、すべての苦労を忘れる。

アーティストの中にも、生育環境などによってたまにそこはかとない社会的コンプレックスを抱えている人もいて、「権威」に対してイデオロギー的反権力的態度が出てくる場合もないではないので、それはまた微妙な問題だ。

思えば、よくこんなに感受性の強い神経のぴりぴりした人間が集まっているところで何十年も綱渡りしてきたものだ。

うちの夫、もちろん当日は休みを取らせて運転手兼雑用係。
役所の同僚に日本人と結婚している人がいて、息子が東京にいるということで、その人たちも来る。

プレッシャーが強い時期には本当に信頼できる人が誰なのかがくっきり分かってくる。


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プレゼント旅行をこなしてきた

2011-05-03 18:07:20 | 日記
レマン湖畔のエヴィアンのヒルトン・スパの滞在をこなしてきた。

行きのTGVがすごく遅れてTGL超鈍行列車になっていた。家族連れなどかわいそう。

こういう時、小さい孫のいない老夫婦だったら子供たちの存在が迷惑だと思うだけで同情の念は湧かないかもしれないが、私たちは、孫クンをどこかへ連れていく時はやはり近いところに限る、と決意を新たにする。

普段私がどこかへ出かける時は、すべて自分で事前に調べて決めるので、こういうお仕着せの旅は本当に居心地が悪い。

私も両親に何度も旅をプレゼントしたが、「一緒に行く」という時間の共有が喜ばれたし、両親にとって「娘から招待された」ということ、さらにそれを他人に語ることが重要ポイントだった。両親は私たちよりずっと可処分所得があって、どこでも好きなところに自分たちで行けたのだが、それでも「娘からプレゼントされてね」と言えることそのものが、「そういう余裕のある娘を育てたこと=人生の成功」という世代だったのだと思う。

それに、自分たちもずいぶん贅沢をしていたけれど、「戦争を経験した世代」であるから、やはり「贅沢ができる=平和」というありがたみをその都度かみしめていたのだろう。

それに比べると私も夫も、戦争はもちろんこれという不自由や我慢をしたことのない世代で、特に私は日本人だから、けっこうバブリーなこともやっている。

まあ「すれている」わけで、半端なものには「感激」はできない。ホテルのプールで気にいったのは日本なら洞爺湖のウィンザーホテルとか、石垣島のリゾートの海水プールとか、もちろん日本の豪華温泉宿とか、ヒルトンならハワイのワイコロアだとか、いずれも母もいっしょだった思いで深い場所が少なくない。

でも、親がいっしょでない時は、滞在の贅沢よりもあちこち珍しいところを訪ねたいというのが私の第一希望だから、今も、行きたいところがたくさんあるのに、何で好き好んでレマン湖のスパなのかという不満と、娘に素直に「感謝感激」できないことへの罪悪感までも加わる。

私も「昭和」日本人ではあるから、「娘からプレゼントされた老親の温泉旅行」と言えば、急行の座席にちょんと正座したおばあちゃんが、みかんを食べたりゆで卵にゴマ塩をつけて食べたりして「極楽極楽・・・」と言ってるようなシーンが思い浮かぶ。(実際の母は新幹線のグリーン車とか寝台車のスィートや食堂車で「リッチ感」を楽しんでいたのだけれど。)

でもフランスの私と夫は、帰りのTGVの中でもずっと仕事をしていて、夫などは列車の中で書きとめたものを帰宅後にパソコンに入力して徹夜する始末。

夫に関しては、これまた「娘からプレゼントされた」ということの付加価値がまったく分からない。人生における成功感とか達成感とかも無縁。他人の視線とか評価などに至っては、気にしないというよりキャッチさえしない。

私は、母の感じ方には敏感だったので、母に応えることはしてきたが、自分では、こういう夫と何十年も暮らし、何も達成することがなくてもあれこれ忙しく生きているので「優雅な自分」を思い描く暇もない。

でも、戦後の小市民的な「大名旅行」チックな「家族旅行」は、両親と一緒に小さな頃から繰り返してきてもちろんそれなりに楽しんできた。

6年前に長男がエーゲ海クルージング家族旅行をプレゼントしてくれたことがある。でも長男は日本に住んでいるから、金だけ出して私がすべてを計画して取り仕切ったのだ。

ホテルでも船でも、私と夫がひと部屋。子供たちは当然3人でつるみたがったからひと部屋。ツインのベッドに妹たちが寝て、スポンサーである長男はいつも簡易のエキストラ・ベッド。しかも妹たちが洗面台やシャワーを独占するので、私たちの部屋で浴室を借りる始末。

あれは楽しい思い出だった。

詳細は私が計画したプランでもあるし、みんな大人だったので、オプションの旅行や自由時間はみなばらばらにしたのだ。

私についてくるのは夫だけだった。

レマン湖の畔には両親と私たちの7人で何週間か滞在したことがある。あの時は子供たちもみなまだ未成年だった。

それは私がプランを立てたのでアネシィのフランソワ・ド・サルやジャンヌ・ド・シャンタルの史跡をいろいろめぐった。まだ若かった両親に子供たちを見てもらって私は夫に運転してあちこち行ったのだ。

時代も変わって、世代も変わった。

親の時代の旅行よりも豊かになったのかあわただしくなったのか分からない。

このところ日本の震災の映像が焼き付いているので、レマン湖を見ても、これが海辺だったら怖いとか、三陸に観光中で津波に遭った人のことなど考えてしまうし、スパのサウナで、手桶で炭に水をかけてジューッというと、原発にヘリで水をかけてもこんな感じだろうなあ、などと思ってしまう。

小市民的な「小さな満足」を積み重ねることができることに大きな価値を見出すことのできていた母の時代にはもう戻れない。

この世界での連帯と過去と未来をつなぐ何かの中で「よりよいもの」に向かう流れをつかみたい。

その「よりよいもの」が何かは、今、さすがに分かってきた。


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