まやの午睡

日常の記録です。

「長女にほめられた」の後日談

2014-01-25 19:44:42 | 日記
少し前に、長女の頼みで抗癌剤の実験データについて説明してやったらめずらしくほめられた、と自慢した記事をアップした。

そしたら、今日、長女からのメールで、彼女の素早い対応と説明の的確さが、彼女のセクションの国際的に有名なボスに感心されて、3月上旬に日本で開かれる日仏学会に同行するよう誘われたと知らせてきた。ファーストクラスの往復も滞在の豪華ホテル、すべて製薬会社から提供されるそうだ。

へーっ。わ、私も通訳としてぜひ…

日仏間のファーストクラスなんて乗ったこともないし…

第一、あれを翻訳したのは私で長女ではないのだから、普通なら、過大評価を恐れてあせると思うのだが(日本に行けば日本語があまりできないのがばれるとか…)、長女は超ご機嫌である。

まあ学生時代にお茶の水のJ医大の腎臓内科で3ヶ月研修して、日本語は小さい時からおばあちゃまに言っていた「リカちゃん(人形)、買って―」などしか自由に話せなかったのに、その医大のジャズクラブで飛び入りでシャンソンを歌ったり、日本語でしか話さない親友ができてその実家に遊びに行ったりなど、すごく度胸があった。その時も、医学の基本語彙の日仏対訳単語ノートを私が用意してやった。その頃は今のように携帯でネット翻訳を参照できるような時代ではなかった。まあほとんどは英語でOKだったようだが(J医大に行ったのも、NYだかボストンだかで知り合ったそこの先生の紹介だったのだ)。

なんというか、ずうずうしくて押しが強いと、運が開けるんだなあー、と感心する。

私はといえば、急に長女が1週間近く留守にして子供の面倒を全面的に見るはめになる婿クンが気の毒で、長女がいない週末は孫ズをあずかってやって婿クンにも少し羽をのばさせてやりたいと思っている。

長女、ファーストクラスで豪華ホテルの接待、

(功労者の)私は、孫のお守り、という後日談、でした
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長女にほめられた

2014-01-20 23:38:46 | 日記
さっき長女にほめられた。というよりちょっと尊敬された。あのいつも人を切って捨てる長女に褒められるなんてめったにないことなので、嬉しくてここに書いてしまう。

それはある抗癌剤を腹膜に投与する時における各種薬剤との配合変化試験のことだ。もちろんそれ以上は詳しく書かないけれど、長女の癌研の外科医から、日本から送られてきたその「配合試験成績」のレポートの読み方について質問されたのだ。で、私はその中の何が本質的なものかをちゃんと理解して明快に説明したというわけだ。

ものすごく専門的なことなので、私もはじめは日本語だって分かるだろうか、と心配したのだけど、「健康ブログ」の関係で癌治療についてのブログも読んでいることもあって、問題なかったし、それをフランス語に訳すのも問題がなかった。で、長女はさすがに、「私がちゃんと理解した」ことをすぐに理解したので、「ママンってすごいねー」と感心してくれたのだ。もちろん私はメールに添付された資料を読んですぐに答えを出せたのだ。

こどもたちから日本語のことでSOSが出たら、私はたいてい脊髄反射的に答えてやるので、もちろんそこに自慢しようなんて意図はない。

でも、こうやって、今まで、次女には日本のゲームソフトの国際ロイヤリティの複雑な問題に関するやりとりも説明したし、長男には高級ブランドのプレス用のコメント、ビジネス誌からのインタビューの答えの用意も作成した。

日本で働いていた甥のためにコンサルティングや税制についての訳もしたし、フランスの新聞社で働いていた別の甥のために日本人デザイナーの新作のコンセプトも訳したことがある。(その子のためには明治の廃仏毀釈における真言宗の対応に関するフランス語論文も手伝ってやったことがある。まあ、それは私の守備範囲のうちなので楽だったが)。

もちろん、今では、インターネットでいろいろ検索するという奥の手もあるからできることだけれど、それでも、必要な資料を選んで理解しなければならない。

こういう時、「全方位」的なリテラシーがあるのは便利だなあと自分でも思う。世の中にはたとえば「スポーツ万能」な人もいるし、「デジタル機器万能」の人もいて、いつもうらやましいと思っていたが、自分に「全方位日本語リテラシー」がたまたまあることで身近な人の役に立てるのは嬉しい。

子供たちや甥たちは、ひょっとして私が「日本人だから」聞けば分かると思っているかもしれないが、ゲームソフトのロイヤリティから抗癌剤までたちまちフランス語で説明できる人なんて、限りなく少ないと思う。

と、思わず自画自賛してしまった。まあ、ただの「便利な人」だと思われているふしもあるけれど。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「湯神くんには友達がいない」

2014-01-12 12:12:57 | 日記
「湯神くんには友達がいない」

クリスマスに長男が貸してくれた少年サンデーのコミックだ。

「これ、すごくリセにいた頃の僕そのもの」だというから、読んでみた。

第1巻を読んで少し驚き、

「ええ、あんた、この子に似ているなんて、これってアスペルガーかコミュニケーション障害の子の話じゃない。あんた、こういう子だったの」

と、36歳になった息子に思わず言ってしまった。

というか、確かに息子は「他の人と同じ」というのは嫌いで群れるのも嫌いなのは分かっていたけれど、幼稚園の頃からリセやグランゼコールまでそれなりに友だちもいたし、その頃の友だちと今もつきあっているくらいだ。オンラインゲームにはまっていたのも事実だけど、オフ会をして知り合った人とリア友になってアウトドアの趣味をいっしょにしたり、SNSのグループのオフ会にも行っていたし、趣味の水墨画でも年上の友人たちにつきあったりしている。
家族にも気配りするし、うちの両親にはとても親切だったし、会社でも、社員とも顧客ともうまく付き合っている。だから「友達がいない」とかコミュ障害とかはとても思えないんだけれど。

大丈夫か、この子・・・・

でもコミックはおもしろかったので続けて第2巻と第3巻も読んだ。

すると、読み続けているうちに、なんと、この湯神くんって私に似てるなあ、と思った。

私はむしろ社交的な方だと思われてきたし、小さい頃からクラス替えをしてもすぐ友だちはできたし、トイレに行くのもお弁当を食べるのもいつもいっしょにつるんでいる友だちがいた。場の空気を自然に読むこともできた。

でも、究極的には「友だちがいなくても平気」、「付き合いが悪いと思われても平気」と思っていたし、一人の時間や一人の空間がないと息がつまりそうだった。

湯神くんのように完全主義でもないし、周囲からいつも助けられ甘やかされてゆるく生きてきたけれど、そして今も基本的にそうだけれど、それでも「孤」の核をつかんでいないと生きている実感がないのは分かっていた。

このコミックにはいろいろなタイプの若者が出てきて、人間関係もよく描けているので、広く人気を博しているようだけれど、世の中には「隠れ湯神くん」が一定数いて、その人たちは自分は湯神くんだと認識するのだと思う。作者もきっと「湯神くん」なのだろう。そうでなければここまでの心理の綾のディティールは描けない。

すると、長男が「この子は僕と全く同じ」と言ったことも分かってくる。
そして私にそう言って、このコミックを貸してくれたのも、私もまた湯神くんで長男と同じグループに属しているのだと彼が認識しているからかもしれない。

うちは夫もまた、「他人の見る目を気にしない」という意味においては私や長男よりもはるかに徹底した湯神くんである。私や長男はいたずらに他人を刺激したり「違う」という目で見られたりしたくない、という事なかれ主義または処世術が自然にある「インナー湯神くん」なのだけれど、夫は天然湯神くんだ。

人当たりもいいし夫を慕う人も多いのだが、実は彼は誰も必要としない、孤独を引き受ける気は満々だから、絶対に甘言にのることはないというのは少しつきあえば分かるから、彼を「利用しよう」と思う人は去っていく。

夫が私や長男と違うところは「家族」に対する盲目的信仰というか、幻想というかが、選択的に身についてしまっているところだ。だから家族からは簡単に「利用」されるし、騙されもする。でももともと見返りを期待しているわけではないからダメージは少ない。

うちでは違うタイプの湯神くんふたりが暮らしている。そこに長男というもう一人の湯神くんがやってくると、みながみなをリスペクトし合う上品で円滑な大人の関係ができあがる。

他者とのアクティヴな関係の頻度が大事な長女や他者との関係の濃度が大切な次女が入ってくると掻きまわされるのだけれど。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする