マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

歌人と哲学者

2013年10月25日 | カ行
 俵万智の『ちいさな言葉』(岩波書店、2010年)を読みました。この本の「あとがき」にこう書いてあります。「これは、子どもとの暮らしのなかで、はっとしたり、へえっと思ったり、えっと驚いたり、ふふっと笑ったりしたことを、近況報告のような感じで綴ってきたものです。特に、赤ん坊だった息子が言葉を獲得してゆく過程は、ほんとうにおもしろく、言葉好きな母としては、まことに観察のしがいがありました」。

 私の関心もここにありました。しかし、同じ「関心」と言っても、歌人と認識論の研究者とでは関心の対象が違うだろうから、そこから学ぶ事もあるだろうと思ったのです。又、同じ現象に関心を持ったとしても、それにどういう切り口から関わるかは、多分、違うだろうから、それも面白いだろうと予想しました。

 この予想は当たりました。先ず、私には無い観点を2つ引きます。

 第1は「連濁」という言葉です。私は、こういう国語学の用語及び現象(66頁)を知りませんでした。新明解国語辞典によりますと、その意味はこう書いてあります。「ある条件下の二つの語が連接して複合語を作る時に、下に来る語の第一音節の清音が、濁音になること。例、『あさ+きり→あさぎり』」。

 その文は「くつした」と題されています。つまり「連濁」を教わった子どもがなぜ「くつじた」と言わずに「くつした」と言うのか、と聞いてきて、答えに窮したという話です。俵万智は最後まで答えが分からずに読者に教えを請うています。

 私にも分かりません。そもそも辞書を引いてみますと、「連濁」に反した読み方は結構あるようです。又、「下」には「じた」と濁る読み方はあるのでしょうか。思い付きませんでした。「下々(しもじも)」ならありますが、これは「下」の読み方ではあっても、「じた」ではありません。

 先の新明解の説明では、冒頭に「ある条件下の」という句があります。これは何を意味しているのでしょうか。明鏡国語辞典にはこういう「条件」に当たる句はありませんでした。ですから、新明解の語釈を引いたのです。つまり、この規則は決して絶対的なものではなくて、こうならない複合語もあるということなのでしょう。そうすると、例外になる場合の条件は何かが問題になります。国語学ではこの「例外の条件」が解明されているのでしょうか。少なくとも俵万智はそれを知らないのでしょう。私がここで引かれているような状況になったら、「言葉の法則にはほとんどの場合、例外がある」という事を話すでしょう。

 第2は歌人石川一成です。短歌にも俳句にも川柳にも疎い私が知らないのは当然です。それはこう出てきます。

 ──〔息子が〕年下のいとこに「雪」を説明してやるとき、「おそらからふってくる、まあ、おしおみたいなもん」。なんとこれは、石川一成の名歌「風を従へ坂東太郎に真向へば塩のごとくに降りくる雪か」に使われていた比喩ではないか。親バカ丸出しではあるが、「まいりました」と思ってしまった。(58頁)

 次に同じテーマないし対象について俵万智と私とでは違った観点から捉えている事に移ります。

 その1つは、子どもに説明することの「難しさ」です。こう書いてあります。

──ある日、息子が言った。「べつばらって、なあに?」。知らない言葉に出会うと、必ず知りたがる。最近は、けっこう説明がむずかしいような言葉も多く(子どもにわかる語彙で、かみくだいて意味を伝えるというのは、大人に説明するよりも大変だ)、この「べつばら」も、なかなか苦労した。(65頁)

 実はこの文は先に引いた「くつした」の書き出しです。それはともかく、「子どもに説明するのは大人に説明するより難しい」と一般的に言えるのでしょうか。私はこの問題を『哲学夜話』に収めた文章「人間の相互理解」で考えました。

 そこでは、先ず第一に、「相手に何かを分からせるためには、その事柄をそれ自体として説明するのではなく、相手の知っている事柄と結びつけるようにして説明しなければならない」という事を確認しました。次いで、「母親が五歳の子供に何かを説明して分からせるのと、大学の教師が大学生に何かを説明して分からせるのと、どっちが易しいか、あるいは難しいか」という問題を「読者」に出して、「学生に教える方が易しいんじゃないですか。なぜって、学生の方が五歳の子供より多くのことを知っていますから、新しいことを相手のこれまでの知識と結びつけて説明するにも、結びつける材料が沢山あるということになるわけですから」という答えを引き出しました。俵万智が「大人に説明するよりも大変だ」と安易に考えているのも、その根拠はここにあるだろうと推測します。

 こういう考えに対して、私は「たしかにそういう面はある」と認めた上で、「しかし、ここにもうひとつの条件として、教える側が相手の意味の世界を知っているか否かという条件がある」と主張しました。それは例えば、「母親の場合には、子供が生れてからこれまでにどんな経験をしてきて、どれくらいの知識をもっているかを、母親はよく知っていますから、今説明しようと思っていることと関係があって、しかも子供も知っている事柄を的確に引合いに出すことができる」と言いました。ですから、「世の母親はみなそうしてます。子供に何か聞かれると、たいていは、その事柄と関係のあることで、しかも子供の知っている事を思い出させるように、『ほら、○○ちゃん、この間あそこで……というのがあったでしょ?」と話すのです(同書、159頁)。実際、俵万智の場合でも、この通りの方法で、「べつばら」を大体、的確に説明したと言えるでしょう。

 拙稿「時枝意味論の論理的再構成」(雑誌『国文学、解釈と鑑賞』1995年1月号に所収)で披露した我が姉妹の会話を再録します。

──これも私の長女(みち、という)の小さかった頃(小学校に入るか入らないかという頃)のことである。長女と次女(まみ、という)とが一緒に庭の小さな池の金魚を見ていた。大きい金魚の横で小さい金魚が餌を食べる様子でも見ていたのだろう。長女が「大きい金魚が譲ってるんだね」と言った。次女は「譲る」という単語を知らなかったのだろう。「『譲る』って?」と聞いた。長女は直ぐに「ほら、朝、顔を洗う時、みっちゃんがまみちゃんに先にやらせてあげるでしょ? ああいうのを『譲る』って言うの」。「ふーん」。少し離れた所でこの会話を聞いていて、この長女の説明の鮮やかさに感服した私は、付ける薬も無いほどの親馬鹿だろうか。(引用終わり)

 2つ目は「最初に出会った個別は普遍として理解される」という認識過程の法則に関係しています。俵万智はヘーゲルの認識論を知りませんから(哲学教授でも知っている人はほとんどいません)、次のような形で理解しました。

──子どもが言葉を操っているように見えても、実はその意味が対応していないことも多い。最初にその言葉と出会った状況を、わしづかみにして、子どもは理解している(7頁)

──欧米人らしき人を見ると「あ、英語の人だ」と言う(9-10頁)

──背中でだっこ(13頁)

 拙著をお読みくださっている方々ならば、ほとんどの人が知っているでしょうが、まとまった説明は拙稿「昭和元禄と哲学」〔『生活のなかの哲学』に所収)にあります。ここでも今し方引きました論文に出した実例を再録します。

──長女が小さかった頃、こういう事があった。まず、或る日、ヘリコプターが飛んできた。例によって、「これ、なあに」と聞かれた。「ヘリコブター」と答えた。それから何日か経って、今度は飛行機が飛んできた。長女は、今度は自分の知っているものが来たので喜んで、「ヘリコプター、ヘリコプター!」と叫んだ。それを聞いて空を仰いだ妻が「なんだ、飛行機じゃない」と言った。長女はキョトンとした。

 長女が最初「これ、なあに」と聞いた時、その「これ」で考えていたことは「空を飛ぶ機械一般」のことだったのである。従って、その名前を「ヘリコプター」と聞いて知った時、次に飛行機が飛んできたら、それももちろん「空を飛ぶ機械一般」だから、「ヘリコプター、ヘリコプター!」と叫ぶのは当然だったのである。(引用終わり)

 我が家では長女も次女も、初め、私の読んでいる本の事を「お父さんの絵本」と言う段階がありました。この時、「絵本」とは「本一般」という意味だったのです。なぜなら、生まれてから最初に出会った本が「絵本」だったのですし、「絵本」以外の本を知らないのですから。

 3つ目は次のような事です。俵万智はこう書いています。

──まもなく3歳になる息子、なんだか最近、とみに理屈っぽくなってきた。「こうしたら、こうなる」「これこれは、こういうわけだ」というような、モノゴトの筋道のようなものが、わかりかけてきたのだろう。(17頁)

 普通、3歳前後に第1反抗期が来る、と言われていると思います。私の孫も今年の4月に来てくれた時、3歳2ヶ月でした。「複合文が言えるようになったな」と思いました。「何々だからこれこれ」「何のためにこれこれする」という文が言えるようになっていたからです。拙稿「恋人の会話」(『生活のなかの哲学』に所収)に、3歳前後には、「なぜ?」「どうして?」という問いを発するようになると書きましたが、こういう文法学者的観点はありませんでした。これは俵万智との違いではなく、自己反省です。

 最後の4つ目は次の大問題です。

──子どもが、まず覚えるのはモノの名前、すなわち名詞だ。それから「ちょうだい」とか「おいしい」とか、だんだん動詞、形容詞が加わる。(56頁)

 後半は今は問題にしません。「先ず覚えるのは名詞である」という事実が何を意味するかです。俵万智はあまり深くは考えなかったようですが、私は近著『関口ドイツ文法』の82頁以下で詳しく考えました。核心的な点だけ繰り返しておきますと、名詞こそ言語の中心であるが、他の品詞はみな「事」であるのに反して、名詞だけは「モノ(物、者)」であるということです。だから、言語によって人生の何かを「完全に」表現したり、伝えたりすることは「原理的に」不可能なのである。しかし、それが不可能と知りながら、それを追求せざるを得ないのが文章家の定めなのである、といった事です。

 最後に総括的な感想を書きます。

 その1つは、俵万智は子どもと好く遊んでいるなあ、というものです。だから、これだけ沢山の材料を持っているのだと思いました。残念ながら、私にはそういう能力がありませんでした。家で仕事をする時間が長かっただけです。

 もう1つは「卒業の季節」という題の文を読んだ感想です。

──私が最後の春休みを味わったのは、もう20年近く前になる。高校で教員をしていたあの頃は、三月といえば卒業の匂いがした。

  三月のさんさんさびしき陽をあつめ卒業してゆく生徒の背中
  去ってゆく生徒の声のさくら貝さざめきやまぬ正門の前
  はなむけの言葉を生徒に求められ「出会い」と書けり別れてぞゆく

 当時作った短歌を読みかえしてみると、自分の心のアルバムを開くような気持ちになる。勤めていた高校の門、そこに吸い込まれ、そして出てゆく生徒の背中。それを2階の職員室から見守っていたときの、切ないような、ほっとしたような気分が、鮮やかに蘇る。(略)いかにも頼りない新米教師だった自分が、どんな思いで、生徒たちを見送っていたか。短歌にしていなかったら、たぶん記憶はおぼろになり、年々薄れていったことだろう。短歌には、そのときの思いを、真空パックで保存してくれる一面がある。(145-6頁)

 「時々の思いを真空パックのように保存するもの」は、何も必ずしも短歌でなくても、俳句でも川柳でも、あるいは写真でもスケッチでも作曲でも好いと思います。とにかく持ってさえいれば幸せです。「私にはそういう才能が1つもないなあ」というのが正直な感想です。(2013年10月25日)