マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

移轍(いてつ)とは何か

2012年09月20日 | ア行
 関口存男(つぎお)さんが初めて定式化したと思われる文法現象に移轍という現象があります。しかし、氏はこれについては雑誌『基礎ドイツ語』(三修社)の1952年4月号に詳しい論文を発表しただけでした。その後この論文が何かの本に収録される事はありませんでした。

 真鍋良一さんの編集で出ました雑誌『ドイツ語研究』(三修社)の第1号(1979年12月刊)にはその論文がそのまま再録されましたが、その雑誌は売れませんでしたし、雑誌自身が2号かそこらで終わってしまったはずです。そのためほとんど知られていません。

 その現象自体は難しいものではありません。読んで字の如く、Aという轍(わだち)を走っていた列車がBという別の轍に移ってしまうことです。文にも同じようなことがあるというのです。しかも、たまにあるという程度ではなく、沢山あるというのです。関口さんはこれを詳細に検討し、許されるものと許されないものなどに分類して論じています。氏らしい徹底性です。

 詳しくは近刊予定の拙著『関口ドイツ文法』に譲るとしまして、概略の概略の概略でもご紹介しておこうかと考えた次第です。

 関口さんが説明のために取り上げた実例は次の通りです。

 問い・Hast du noch Geschwister, Kleine ? (お嬢ちゃん、兄弟はいるの?)
 答え・Nein, ich bin alle Kinder, die wir haben.(家の子は私だけです)

 この「答え」の言い方が「移轍」なのです。なぜ、どういう風に移轍なのかを説明します。「子どもは私1人です」という意味の事を表現するのに、ドイツ語では差し当たっては2つの言い方があります。

A: Ich bin das einzige Kind des Hauses.
B: Das sind alle Kinder, die wir haben.

 子ども自身の立場で言うならばAと言うべきですが、親が言うならばBになります。Bは直訳するならば「子どもはこの子1人です」です。

 これを確認すれば、この子の答えがAで始まったのに、途中からBに移ってしまったことがお分かりでしょう。つまり移轍なのです。

 一般化しますと、同じ事を言う言い方として2つ(以上)の言い方がある場合(大抵そうです)、或る言い方で言い始めたのに、途中からもう一つの言い方に移ってしまう事です。

 この現象には国語学者の三上章さんも気づいていました。氏はこれに「途中乗り換え」という名前を付けました。名前まで実に良く似ています。氏の説明は次の通りです。

 A: 彼女があの夜のことをどれだけ苦しんだか知らない。
B: 彼女があの夜のことを苦しんだかどうか知らない
C: 彼女があの夜のことをどれだけ苦しんだかどうか知らない。

 AからBへの「途中乗り換え」でCの文が生まれる。

 日本語での最も一般的な移轍の例は「何々しない前に」という言い方だと思います。「何々しない内に」から「何々する前に」へと移轍したのだと思います。

 芥川の『杜子春(とししゅん)』の最後に次の文があります。

 ──その声に気がついて見ると、杜子春はやはり夕日を浴びて、洛陽の西の門の下に、ぼんやり佇んでいるのでした。霞んだ空、白い三日月、絶え間ない人や車の波、──すべてがまだ蛾眉山(がびさん)へ、行かない前と同じことです。──

 この「行かない前」とは「出発していなかったかつての時」という意味なのでしょうか。そうだとすると整合的とも言えると思いますが、普通は「行く前」の意味だと思います。つまり、「行かない内」から「行く前」に移轍したと取れると思います。

 さて私の気になっている例を1つ出してみます。赤川次郎さんが朝日紙にコラムを書いていたのですが、或る時、次の文に出会いました。「そして今年、3年ぶりの舞台がイプセンの『人形の家』とあっては、どうしても見逃せないものだった」。

 「どうしても見逃せない」と言う言い方があるのでしょうか。「どうしても」という副詞と「見逃せない」という否定のつながりが気になるのです。『明鏡』を引きますと、「どうしても思い出せない」と「どうしても見たい」とが載っています。後者も「どうしても見えない」と言えば、あるでしょう。

 つまり、「どうしても」が否定に続く場合は「出来ない」という場合だけらしいのです。しかもその場合は、「どうしても」とは「どんな事をしても」という意味でもその「しても」は時制としては現在完了的だと思います。

 それに対して、意思の場合は「どうしても何々しなければならない」「何々したい」と肯定形しかないのだと思います。又、同じ「どんな事をしても」でも時制としては未来か未来完了だと思います。

 つまり、先の赤川氏の文は「どうしても見なければならない」という言い方から、「絶対に見逃せない」に移轍したのだと思います、本来的には。

 しかし、これはあくまでも「本来的には」の話で、今ではこのように「絶対に」という強調の意味で「どうしても」を使う事も増えて来ているので、こういう表現もおかしいとは感ぜられなくなっているのだと思います。

 自信がある訳ではありませんが、問題提起とします。

付記

 目次を調べていたら、既に赤川さんの文については論じていましたが、今回の考えを書いたので、このままにします。

      関連項目

赤川次郎