マキペディア(発行人・牧野紀之)

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いじめ問題の本

2012年09月23日 | ア行
           伊藤茂樹(駒澤大学教授)

 いじめがまたも問題化している。1980年代初めに社会問題となったいじめは、その後90年代中頃、2006年とそれぞれ自殺を機に問題化し、やがて沈静化することを繰り返してきた。しかレこの間、いじめの解明が進まなかったわけではない。30年の経緯を含めていじめ問題を概観するために、加野芳正『なぜ、人は平気で「いじめ」をするのか?』(日本と書センター)を薦めたい。

 人は昔からいじめたりいじめられたりしてきたが、いじめという言葉(名詞)はなかった。この言葉が使われ始めたのは80年頃で、昔からあっても特に関心を引かなかった現象を新たに問題と見なすようになったため、それを表す名詞が必要になったのだ。以後、いじめに関わる個々の子どものパーソナリティより、学校など、いじめが発生する「場」の問題と見る方向での探求が進んできた。

 学校の意味変化

 ここでは、森田洋司らによる「いじめの四層構造」が定説になった(『いじめとは何か』中公新書)。これは、被害者を中心に加害者、観衆(はやし立てる)、傍観者(見て見ぬふりをする)が同心円状に取り囲み、それぞれがいじめに関与していると見る。

 いじめの発生を社会学的にモデル化するアプローチを精緻に展開したのが内藤朝雄だ。『いじめの構造』(講談社現代新書)では、加害者の「全能感」を現実化する「群生秩序」(群れの勢いによる秩序)がいじめの発生と加速を促すことが説明される。

 昔からあったいじめがここ30年の間に社会問題となったのは、昔よりいじめが悪質化したからでも、自殺が起こり始めたからでもない。80年以前の壮絶ないじめの体験談はいくらでもあるし、それを苦にした自殺もあった。80年代以降の背景としては、いじめの主な発生場所である学校の意味の変化がある。情報化、消費社会化など社会の変化によって、かつて学校にあった輝かしさやありがたみは薄れた。なのに学校は変わらず、今も子どもに全人格的な帰属を強いるため、子どもが感じる閉塞感は増大し、学校内での問題行動が深刻化した。こうした文化的背景について、80年代前半に書かれた小浜逸郎『学校の現象学のために』(大和書房・品切れ)は今なお説得力がある。

 学校内外で子どもが生きる世界、特に人間関係のあり方も重要であり、土井隆義の論考が示唆に富む。互いに気を使い、察し合って「空気を読む」「優しい」関係と、自己への過剰なまでの関心が絡み合ったひとつの帰結としていじめがある。『友だち地獄』(ちくま新書)はこれを読み解いている。

 先行世代の責任

 こうした人間関係も含めて、子どもの間でのいじめの蔓延は、子どもに先行する世代と、彼らが作ってきた社会に由来する。先行世代が善意に基づいて子どもに送る多くのメッセージのうち、これを自覚していないものは自己満足に過ぎない。

 では、いじめにどう向き合えばよいのか。ひとつのヒントは国際比較にある。上述の森田らの国際比較によると、やはりいじめが深刻なイギリスやオランダでは、中学生になると傍観者は減って仲裁者(止めに入る)が増えるのに対して、日本では逆に傍観者が増えるという。空気を読み、大勢に順応するのが「大人」の振る舞いだという日本的な規範をしっかり身につけていく子どもがいじめを加速している。これを反転させることこそ先行世代の役目ではないか。

 いとう・しげき 63年生まれ。編著に『いじめ・不登校(リーディングス日本の教育と社会第8巻)』。

 (朝日、2012年09月09日。書評欄)