マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

小大学の思想

2012年03月15日 | タ行
 むかし中世のヨーロッパ人たちは、大宇宙と小宇宙という考えを持っていました。それはどういう考えかと言いますと、大宇宙とは我々の言葉でいわゆる宇宙のことであり、小宇宙とは人間のことであります。つまり、宇宙と人間とをパラレルなものとして、あるいは規模は違うがその構造は同じようなものとして捉えていた、ということです。そして、むかしの人は、宇宙のことは知らなかったけれども、人間のことは、自分が人間ですから、知っているつもりでしたから、人間を宇宙大の規模に拡大して、宇宙というものを考えていたのです。ちょうど人間に頭があって全ての行動を支配しているように、宇宙にも頭にあたる部分があって、そこに神がいて、宇宙全体をつかさどっている、とまあこんな風に考えていたようです。

 むかしは、この大宇宙と小宇宙という考えをはじめとして、大小関係で物事を捉えることがよくありました。このほかにも大切なものとしては、大主観と小主観という考えがあります。しかし、最近はなぜかこういう考え方は好まれなくなっているようです。私などは、大宇宙と小宇宙という考えも、大主観と小主観という考えも、なかなか捨てがたい味を持っていると思うのですが、ともかく最近はこういうものは流行りません。

 しかし、いま私がこういう考えを持ち出したのは、実は大学の授業というものを考えるために、こういう表現法を復活させようと考えたからなのです。つまり、私は大学教育全体を大大学として、個々の授業は小大学と捉えてみたらどうだろうかと思うわけです。これを詳しく説明しましょう。

 1、小大学とは何か

 まず、現在の大学を見ますと、それは全人教育を標榜しています。これを円で表しましょう。しかるに、個々の授業は非常に細分化されています。つまり、教師の方は高度な分業体制になっているわけです。そして、その中の1つがあるいはドイツ語であり、経済学であり、……となっているわけです。したがって、各授業が自分の持ち分を目一杯にやれば、全体とし円になるというわけです。

 まあ、誰かがこう言ったというのではありません。大学教育が全人教育を標榜しているのは事実ですし、各授業が細分化されているのも事実ですから、それらの事実から私がこう推定したのです。そして、この考えから現状を見ますと、個々の授業は互いに遠慮しあっているのか、ともかく自分の持ち分を目一杯にやらないので、すき間風が吹いている、とまあこんな所ではないでしょうか。

 しかし、それでは、もし各教師が目一杯にやれば、それらの集合で本当の全人教育が成立つのでしょうか。これが問題です。

 私が小大学ということを言い出したのは、実はこういう考えを根本から疑ったからなのです。そもそもこの考えには大きな矛盾があると考えられます。というのは、この考えですと、学生に対しては全人性を要求しながら、教師の方は自分の専門の事だけをやればいい、つまり教師には全人性を要求していない、ということになるからです。もし学生に対して全人性を要求するならば、教師も何らかの形で全人的に責任を負わなければならないのではないでしょうか。

 実に、このような考えに基づいて打ち出したのが、この小大学という考えなのです。つまり、個々の授業は大学教育全体を縮小したようなもの、大学教育全体の縮図でなければならないということです。

 たしかに現在のように学問の分化が進みますと、全てについて専門家になるというのは不可能ですから、ある程度の分業は仕方がないでしょう。しかし、それを理由にして、個々の教帥が自分の狭い専門の知識を授けるだけというのでは、全人教育の名が泣くというものです。

 したがって、この小大学という考えでいきますと、1人の教師がいろいろのことを教えることになります。そして、自分の援業の看板の範囲を越えて他の授業の領域にも踏み込むことになります。そして、互いにそういう事をし合うことによって、互いに重なり合うことになります。今の大学ではこういう重なり合いをことさら避けようとしているようですが、学問の真の発展のためには、重なった方がいいと思います。

 しかし、この小大学という考えが現在の授業と本当に違っていることはここではなく、授業の目的に関してであります。なぜなら、現在、大多数の教師たちは、どれくらいそれを意識しているかに関係なく、ともかく学科を教えようとしているようですし、生徒に学力をつけさせることを目的としているようです。ですから、他の教師の話を聞いても、学生が出来るかどうかということを考えているようです。

 しかるに、この小大学の思想によりますと、大学の授業は何よりもまず、大学の立場、学問の精神を教えることを目的としなければならず、個々の学科はそのための手段にしなけれはならないということになるからです。私の授業は変っているとかで知れわたっているそうですが、その変り方というのはここにあるのです。つまり、私の授業にはドイツ語という看板がかかっていますが、ドイツ語を教えることを目的にして授業をやっていないのです。そして、それで正しいと思っているのです。

 要するに、この小大学という考えは昔の私塾を現代に復活させようという考えです。たしかに昔のように生徒に中々教えないで掃除や子守ばかりさせているのは正しくないでしょう(昔の私塾も必ずしもこうではなかったということは、その後知った)。しかし、だからと言って、現在の大学のように、個々の知識や学問を、その学問を担っている人間から切り離して教えるのが正しいということにはなりません。昔のやり方には、それを当時の人がどれくらい意識していたかはともかくとして、学問はそれを担っている個人から切り離せないという正しい考えがありました。これは、少し難しく言いますと、「学問の主体的性格」ということになります。つまり私は昔の私塾のいい所を受け継ごうと考えたのです。

 2、学生の態度

 さて、それでは、学生諸君は大学の授業に対しでどういう態度を取ったらよいのかと言いますと、まず第1に、自分は大学のの授業に何を求めているのかを自分自身にはっきりさせてほしいと思います。なぜかというと、それはこういうことがあるからです。

 君たちは、大学の授業はどうあるべきかというようなことを書かせると、たいてい、それは知識の切り売りであってはいけないというようなことを書きます4,5年前に大学紛争というものがありましたが、君たちの中には高校でそれを経験した人がいるかもしれませんが、その中で出された不満の最大公約数とも言えるものが、やはりこの知識の切りでは困るということだったと思います。しかし、この知識の切り売りではいかんというのは否定命題です。私が君たちに求めているのは、それを否定命題の形でではなく、肯定的な形で、それではどういう授業を求めているのかをはっきりさせてほしいということです。

 なぜかと言いますと、私の授業に対する一番多い批判がこれに関係しているからなのです。私の授業はお陰様でかなりの支持を得ているようですが、約1割の人が、賛成できないとか、嫌いだといったことを、言ったり態度に出したりします。そして、その理由はというと、大体、ドイツ語の授業はドイツ語を教えればよいのだということらしいのです。この意見は、要するに、知識を与えろということであり、すなわち知識の切り売りをしろということです。したがって、結局、君たちの中の何人かの人は、一方において大学教育は知識の切り売りではいかんと言いながら、知識の切り売りでない授業をすると、今度は知識の切り売りをしろと言い出すのです。

 私は、私の授業でいいと言う人しか自分の生徒と認めませんから、反対の人は辞めてもらうだけですが、ともかく、君たちにとって嫌いな授業に出るのは不幸ですから、この点をよく考えて、自分の気持ちをはっきりさせ、自分の求めている授業を探し出して、その授業に出るようにして下さい。

 第2に、これと関連しますが、大学の授業というのは、ドイツ語の授業とか経済学の授業とか考えるのではなく、誰々先生の授業という風に考えた方が正しいし、君たちにとって便利だろうと思います。なぜなら、君たちは自分の求めている先生を探し、その先生の所に行って勉強すればよいということになるからです。僕がどういう授業をするかはこれからお話しますが、その前に、大学の授業というものはどういうものなのかをお話した次第です。

 3、私の授業

 それでは、私がどういう授業をするのか、それをお話しましょう。

 まず第1に、先程申しましたように、大学の立場、学問の精神について考えることをします。これは大学教育の立場から見て当然のことですが、それと同時に、学生諸君の現状を考えると、一層こういう事が必要と思われます。なぜなら、学生諸君の書いたものを読んだり、会って話をしたりするとよく感ずる事なのですが、君たちはどうも大学という所がどういう所なのか分っていないらしいのです。そして、そのために学生生活をつまらないものにしたり、あるいは不満をもったりするらしいのです。

 もちろん現在の大学には悪い所も多々あるでしょう。しかし、だからといって、「大学が悪いんだ」とか「先生が悪いんだ」と言ってみても、それによって君たちの学生生活が少しでも良くなる訳ではないのです。また、大学を良くすると考える時にも、大学という所はどういう所なのかという事がはっきりしていなければ、どういう方向に改善して行ったらよいのかも分らないでしょう。まあ、そういった大きな事はともかくとしても、君たちが少しでもよりよい学生生活を送れるように、大学の立場、学問の精神について考えてみようと思います。

 第2に、言語の諸問題について少し考えてみようと思います。大学が学問の府だというなら、ドイツ語をただ技術的に教えるだけでなく、それを学問的に深めてみることもあってよいのではないでしょうか。

 第3に、日本語の問題について少し考えてみようかと思います。ゲーテの言葉に、外国語を知らない人は母国語を知らない人だという言葉があるそうですが、僕も、外国語学習の真の最後の目的は、母国語を正しく理解し、母国語の能力を高め、母国語をよくしていくことだと思います。君たちはすでに英語を少し知っているのですから、外国語を全然知らないわけではありませんが、ドイツ語を学んで又日本語を反省してみることは、意義あることたと思われます。したがって、私のドイッ語の授業の中には日本語の時間というのが設けられます。

 ここで君たちに注意を喚起したいことは、日本の大学には日本語を良くするための授業がないということです。高校までには国語の時間というのがありますが、大学にはありません。国文学の講義はありますが、国文学イコール国語ではありません。君たちは、日本人として、日本の大学が日本語を教えていないということをどう考えるのでしょうか。これは、善意に取れは、特に日本語の時間は作らないが、どの授業も日本語でやっているのだから、各授業でそれぞれやってくれと取れます。悪く取れば、日本語なんかどうでもいいと取れます。後者の方が事実でしょうが、あえて前者の意味に取って、僕は目分のドイツ語の授業の中で日本語について考えてみようと思うのです。

 そして、第4に、ドイツ語を勉強することになります。

 したがって、私のドイツ語の授業の中には主として以上の4つの内容がありますが、学問について考えることと言語論と日本語論とをまとめて「日本語の時間」と呼ぶことにします。したがって、私の時間はドイツ語の時間と日本語の時間との二本立になるわけです。

 4、ドイツ語教育法

 最後にしかし、そのドイツ語の教え方自身も、私のはほかの教師たちのやり方と大分違いますので、少しくわしく説明しておきましょう。

 私のやり方を理騨してもらうためには、これまでの日本の外国語教育法について反省してみる必要があります。

 明治以来の外国語教育の特徴は次の2点にまとめることができます。第1は文献主義で、外国語で書かれた文献が読めるようになればよいという考えです。これは、逆の面から言うと、会話軽視ということです。第2は文学偏重で、外国語教育のテキストの80%以上が文学作品で占められています。これは人文科学・社会科学軽視と言うことができます。第3は文法主義で、文法をひと通り教え、それを応用して辞書を引きながら文献を読んでいくということです。これは音読軽視ということができます。さて、これら3点について、評価を混じえながら立ち入って考えてみましょう。

 第1の会話軽視ということは、近年国際化社会と言われるような時代になってきて、会話の重要性が高まるにつれ、日本の外国語教育の一大欠点として批判されています。たしかにそういう一面もあります。しかし、物事はもう少し落ちついて多面的に見なければなりません。日本の大学生と例えば東南アジアの大学生とを比較すると、英会話は彼らの方が上手いそうです。しかし、ヨーロッパの文化や歴史については、日本の大学生の理解の方が広く深いと言われています。言うまでもなく、これは文献主義と会話主義の違いによるものです。

 たしかに、文献も読め会話もできるというのが理想でしょう。そんな事は誰でも認めます。しかし、我々は与えられた少ない時間でやらなければならないのです。外国語だけやっているのではありません。この条件を前提して考えますと、問題は文献か会話かという形で、二者択一に立てられているのです。そして、この問題に対して明治以来の外国語教肯は事実として「文献が読めればいいんだ」と、答えてきたのです。僕はこれで正しかったと考えています。

 日本の学問が今日曲りなりにも世界一流の地位を保っているのは、この問題に関しては、文献主義のお陰です。「会話だ、会話だ」と騒いでいる人たちは、一体日本の学問が世界一流の地位からすべり落ちてもいいのか、深く考えてみるべきです。たしかに現在の日本の学問には問題も多いし、私も批判を持っています。しかし、それは文献主義を止めて会話をやれば解決されるというものではありません。

 しかも、文献を読む能力というのは、会話能力よりも、それを養成するのに時間のかかる仕事なのです。会話は、いざとなれば、外国へ行けばすぐ出来るようになります。しかし、文献を克明に読む能力はそんな簡単には出来ません。そして、この文献を読む能力を養成する所は大学のほかにないのです。会話なら大学以外の所でもいくらでもやっています。ですから、大学は、何よりもまず大学でしか出来ない事、大学こそがしなければならない事をするべきであって、それが外国語教育においては文献を読む能力の養成となるのです。君たちがこれらの事情をよく理解して、会話だ会話だという風潮に惑わされないように希望します。

 第2の文学偏重は完全に間違っています。外国語を学ぶ目的が又学だという人は全学生の中の少数です。これは多言を要しないでしょう。それではなぜこういう偏向があるのかと言いますと、語学教育と文学教育を混同していることが直接の原因です。日本では国語教師の大多数は国文科出身です。ドイツ語教師はたいてい独文科出身です。ここにもその混同がよく出ています。

 語学を教えるにはその語学に通じていなければなりませんが、初級や中級のドイツ語を教えるのに必要な事は、ドイツ語がよくできるということではありません。むしろドイツ語の教え方を知っている、教え方が上手いということの方がずっと大切です。しかし、日本の大学ではこういう考え方は認められていません。大学の教師採用の時に問題になることは、ドイツ語ができることを証明するに足る業績があるかないかだけなのです。病根は深いと言わなければなりません。

 これを改革するには、まず、ある事を知っていることとそれの教え方を知っていることとは別だという大真理をはっきりさせ、更に、語学教育と文学教育とは別であることを明確にしなければなりません。たしかに文科系の学科を出た人たちの就職のこともあります。

 したがって、私は、現実的な改革案としてこんな事を考えています。つまり語学だけの教師をなくすのです。そして、それぞれ自分の専門を持っている教師が交代で語学も教えるようにしたらよいと思います。先に言いましたように、初級や中級の語学を教えるくらいなら、大学の教師たる者、誰でもできます。いや、出来なくては困ります。そして、専門を持った教師が専門のやさしい本でもテキストにして語学を教えれば、内容に関する興味もあって、大学で一番つまらないと言われている語学の時間も、少しは面白くなるのではないでしょうか。

 それに、このやり方で行きますと、今は語学だけを教えている教師たちも、語学も教え自分の専門の事も教えるということになるわけですから、全時間数と全教員数とを現在のままにして実行可能な改革案だと思います。文学系の学生が多すぎるなら、これを実行しながら徐々にその人数を減らしていけばよいと思います。哲学はドイヅ哲学科、フランス哲学科、 ……と別れていないのに、文学はドイツ文学科、フランス文学科、 ……と分れているのは少しおかしいと、前から思っていましたが、文学系は文学部の中でも大きな比重を占めていますので、そういった大きな問題はこれと並行して考えていけばよいと思います。ともかく、語学教育と文学教育が混同されている限り、文学教育自身も本当には確立されないだろうと思われます。私は、中級の授業でマルクスをテキストにしましたが、それは、自分からまず始めようということです。

 最後に文法主義について言いますと、これも間違いです。私がやっているのは音読主義であり、まず、何らかの意味のある文を繰り返し声に出して読むことによって、ドイツ語に自然に親しんでいく方法です。実は、一般的に言って、黙読ではなく音読によるのが、言語能力を高めるための唯一の絶対的な方法であることは、言語の本性から証明できることでして、いずれお話するつもりですが(『生活のなかの哲学』所収の「美しい論理的な日本語のために」に書きました)、それはともかく、この音読主義は幸い、学生諸君の支持を得ているようです。

 では、この方法はなぜ支持されているかと言いますと、それは大学が根本的に変ったということと関連しています。つまり、昔は文法主義でもよかったのですが、今ではもうダメなのです。この事に現象的に気づいている教師たちの間で、外国語の必修を1つにしろという意見が出ているようですが、2つを1つにすれば学生が勉強するようになるとか、つまらない授業が 面白くなると考えたら、大まちがいです。なぜ学生が語学に苦しむのか、この真因を考えなけ
ればなりません。

 5、大学の変質

 私の言う大学の根本的変化は大学進学率の向上によって起きました。戦前の大学進学率は大体5%でした。今ではそれが25%を越し、更に伸びようとしています。これが大学をどう変えたのか。これを知るためには、人間の3種類についての牧野理論というものを合せて考えてみなければなりません。

 自分の経験から得た結論によりますと、人間には3種類あります。Aクラスの人というのは、言わば他人の指導や励ましがなくても自分でどんどん進んでいけるだけの能力と意志力を持っている人です。これが大体全人口の5%を占めています。次にBクラスの人というのは、自分では出来ないけれども正しい指導を受ければ順調に進んで行ける人で、これが大体90%くらいでしょう。残りの5%は言わずと知れたどうしようもない人たちで、これがCクラスです。

 ある友人に言わせると、これは楽観的に過ぎるそうで、Cクラスの人はもっと多いと言っていましたが、私はまあこんな所ではないかと思っています。誤解を避けるために付言しておき
ますが、私は、事実としてこういう3種類の人間がいると言っているのでありまして、生まれつきABCにランク付けされていると言うのではありません。素質もあれば後天的なものもあるでしょう。ともかく結果としてこうなっていると思うのです。

 さて、この理論を前提して先の大学進学率の変化を考えますと、その意味はいっペんに判ります。戦前大学に来る人が全人口の5%だったということは、大学に来る人はほとんどAクラスの人ばかりで、あとは金持ちの子供などが来たということです。しかし、今や25%もの人たちが大学に来るということは、Aクラスの人たちのほかにBクラスの人たちも大挙して大学に押し寄せてきているということなのです。ですから、昔は学生とか書生さんと言えばインテリでしたが、今では違います。インテリが25%もいては頭でっかちで困ります。

 したがって、大学数育ということを考える時には、この大学の性格が根本的に変ったということをしっかりと認識し、それに応じて教育方法を変えていかなければならないのです。Aクラスの人たちだけが来ていた時には文法主義でもよかったのです。文法をひと通り教えてから、「さあ、予習して来いよ」と言って、学生が出来なければ、「お前はダメじゃないか!」と叱っていればよかったのです。学生は自分でやっていく力を持っていたからです。

 しかし今は変りました。Bクラスの人たちが沢山来ているのです。この人たちには文法主義では通用しないのです。なぜなら、この人たちには指導方法が正しいかどうかということが決定的な意味を持っているからです。そこで学生は無用な苦痛を強いられ、教師は学生にやる気
がないと言って嘆くことになるのです。

 この状態を変えるには、大学が変ったことを率直に認め、この変化は学問の発展にとって好い条件であることを認めて、そのために努力する以外にありません。国民の25%もの人が高い教育なり学問なりを求めて大学に来ることは善いことなのです。喜ばしいことなのです。学問の大衆化は学問の理想であり、そのための絶好の条件が今出来つつあるのです。この事態を学問の低俗化と受け取る人々は、大衆から遊離してお高くとまり、自己満足しているニセの学者です。国民の多数が学問を求めて来ているのですから、今度は学者の側が応える番です。ということは、学者はその学問を高めると同時に、それを大衆的な形で普及できるように努力しなければならないということです。

 私は、高い内容と平易で美しい表現との結合こそ真の啓蒙であり、大衆と共に歩む学問の理想だと考えています。これは一般的に言ってのことですが、外国語教育について言うならば、この平易な教え方というものは、音読中心の身体で親しませる方法だと思います。私の授業は、音読を中心にして、自分の専門分野または学生の専攻学科に関係したテキストを選び、それを克明に読めるように指導していくということになります。また、文法の知識も、学生諸君が辞書を手にして文献を読む時に役立つような、生きた知識、辞書と文献を結びつける知識に変形して与え、それを練習してマスターしてもらうようにしています。


 大分長々と話しましたが、君たちは私の授業がどういうものかをよく理解し、自分の考えを自分にはっきりさせ、その上で出るのか出ないのかを決めて下さい。(これは1973年頃から数年間、最初の授業で話した事です)


   後書1・「小大学の思想」再考

 これも根本的には今もこれで正しいと思っていますが、内容的には少し変わりました。まず、ドイツ語ならドイツ語、哲学なら哲学というその授業の主たるテーマについてレベルの高い授業をするということです。学生の中の下の方を基準にしないで、上の方を基準にして授業をするということです。

 又、1つの授業を大学教育全体の縮図にする方法なり手段を沢山開発しました。特に、授業中の休憩と教科通信は生徒からとても喜ばれました。
 それを論じた文章を載せます。(この後書1は書いた年月日を記載するのを忘れました)

 「休憩」と教科通信(「鶏鳴」第159号)


   後書2・「小大学の思想」再々考

 その後更に考えた事。

 第1に、この考えは「教科担任制」の始まる中学校以降に全て当てはまるのではないか、という事です。

 第2に、もし全ての先生がこういう考えを持ち、実行したとしますと、授業のあり方としては必ずしも不可能ではないし、適当だと思いますが、全ての授業で毎週教科通信を出すとなると、あまりにも大変で、先生の負担も生徒の負担も限度を越してしまうのではないか、という事です。

 この2つの問題に対する現在の考えは、本来学校全体を見て指導するのは校長の仕事だから、校長がブログで「週間活動報告」を発表すること、そして全員(教職員及び生徒全員)に対して月に1回以上のアンケートを取ってそれに基づいて「月刊校長通信」を発行する、というものです。

 毎回、全員にアンケートを取るのは難しいとするならば、1回当たり半分の人とか、3分の1の人とかにアンケートを取ると好いでしょう。

 個々の先生は月に1回の教科通信を原則とします。しかし、同時にこういう大きな視野を持ってもらう必要がありますから、半年ずつの交代制とかにして、自分の当番の時は毎週出すようにし、全教職員及び全生徒に配るようにすると好いでしょう。(2012年03月14日)