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ハーバードにおけるマッカーシイズム

2011年10月18日 | ハ行
ハーバードにおけるマッカーシイズム(『思想』2005年4月号)
            ロバート・N・ベラ一
            廣部 泉(訳)

 編集者へ、

 1977年に『ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス』誌上においてマタジョージ・バンディと私との間で交わされた往復書簡の中で初めて公にされた、ハーバード大学とマッカーシイズムの問題について、新たな見解を示すためにこれを書いています。この件は好古趣味的関心しかひきおこさないように見えるかも知れません。しかし、マッカーシーの時代と全く似ていないわけではない国家的不安の時期、つまり、市民的自由が再びある種の危機にさらされている時にあって、50年前に圧力の下にあった米国の主要大学のふるまいは、現在と関連をもっていないわけではないかもしれないのです。

 1977年4月28日付の『ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス』誌において、シグムンド・ダイアモンドは、セイモア・M・リブセットの『ハーバードにおける教育と政治』(マグロウヒル、1975年)を書評し、自分自身の例を挙げて、1950年代初頭においてハーバードがどの程度までマッカーシイズムに協力していたかをリブセットは示していないと批判しました。〔その後、同誌にはその書評に対するマタジョージ・バンディの批評が編集者宛書簡として掲載されました。〕

 私は、ダイアモンドに対するマタジョージ・バンディの応答の語調と内容に衝撃を受けました。そこでバンディは、マッカーシー時代のハーバード大学文理学部長としての自らの記録を擁護すると共に、ダイアモンドを痛烈に批判していました。私は、ダイアモンドをたった1人で矢面に立たせておくわけにはいかないと決意し、バンディやハーバードとの自分自身の似た経験を事細かに書いた書簡を送りました。出版される前にその写しを、当時フォード財団理事長だったパンディにも送付し、反論の機会を与えました。

 共通の友人を通して、その手紙を取り下げるようにパンディは私に促し、さらに彼は2度電話してきました。その通話のなかで、彼は「ボブ、我々は今や同じ側にいるんだ」と言いました。この発言には驚愕のあまり私は言葉を失いました。愛国心に関する限り、我々は常に同じ側にいたと思っていましたが、それ以外のほとんどの問題については、同じ側にいたことは決してなかったのです。彼の要請を受けて、私は書簡から2つの名前を削除し、ぞの役職名のみ記すことに同意しました。しかし、それ以外は、書簡をそのまま公表したいと伝えました。編集者はバンディの書簡と私の書簡を一緒に、1977年7月14日付同誌に掲載することを決めました。バンディは、私に言わせれば事実と異なる発言をしましたが、私はこの件は捨て置くことにして、応えませんでした。

 しかしながら、私はハーバード大学文理学部長に問い合わせを行いました。1954年から1957年の間に実際に起こったことについての記録を調べることで、バンディと自分の説明における相違の真相を知るためにです。当該の出来事から50年間は管理部門の記録は公開しないのがハーバードの方針であると告げられました。これは私が27年間、すなわち、この件に関するバンディとの最初の出会いの50周年にあたる2004年の夏まで待たねはならないということを意味しました。この間に、バンディも、当時の学長であったネイサン・ビュージーも故人となりましたし、想像するに、当時の理事会メンバーのほとんどが他界したと思われます。ある行為に責任のあった人のほとんどが存命せず、それゆえ説明責任を果たしようもないだろうということが、おそらくこの50年ルールの理由の1つなのでしょう。バンディはここにはおらず、自己弁護することはできませんが、あの時期に私の採用を彼が支持していたという当時争点となった彼の主張は、1977年には私は真実ではないと疑っていたのですが、現在受け取った資料によって正しかったことが確認されているということは言わせて下さい。

 今年始めに私は、現在のハーバード大学文理学部長であるウィリアム・カービーに今や50年前のものとなった例の記録について問い合わせました。彼は、ハーバード大学図書館の館長であり、文書保管の責任者であるシドニー・ヴァーバ教授に調査させました。ヴァーバ教授とは、好意的なやりとりをし、彼は50年ルールを少しだけ曲げて、カービー学部長を通して、1954年から1958年にわたる私に関する記録を送ってくれました。私はこの件に関する彼らの協力にとても感謝しています。その記録は、読者が興味深く感じるかも知れない幾つかの新しい情報を明らかにしています。しかし、まず私のケースの概略を簡単にお話しする必要があるでしょう。

 私は、1947年から1949年にかけてハーバード大学の学部学生として共産党の一員でした。私の主な活動は、大学公認の、マルクス主義に関する議論がその活動内容である、ジョン・リード・クラブでの指導者の1人としてのものでした。1949年にアメリカ共産党が最初の危機を迎えつつあった時、党の内情があまりにもひどく、私は党をやめました。それで、1950年から1955年にかけて、社会学と極東言語を専攻するハーバードの大学院生だったときには、私は党とは何の関係もなくなっていました。1954年の秋、私はバンディの部屋に呼ばれました(当時バンディは文理学部長でした)。そして、彼は私が共産党の党員だったことを知っており、連邦捜査局や他の正式な組織に十分協力し、いかなる質問にも答えるのが私の義務であると告げました。発言と所属のみからなる自分自身の活動については証言するだろうけれども、非米活動委員会に呼ばれたことだけをもって人々の生活や職業が乱され破壊されているようなときに、他の人々の名前を挙げるつもりはなく、完全に協力することは拒否すると私は答えました。

 バンディは、そうはいかないだろうと言いました。彼は、私と妻と幼い娘の唯一の収入源である奨学金が危うくなると告げました。このバンディとの面談の一週間後、私は通りで連邦捜査局の2人の捜査官に呼び止められ、他のメンバーの名前を言うように厳しい圧力をかけられました。しかし、私はそれを拒否しました。私の奨学金の出所であるハーハード・イエンチン研究所(基金そのものは大学の支配下にはありませんでした)の所長は、私の奨学金は危うくなってはいないと保障してくれましたが、研究所の有力な別のメンバーは、奨学金はおそらく更新されないだろうから、1954-55年の間に博士論文を仕上げるように警告しました。非常に限られた時間のなかで、1955年6月の博士学位取得に間に合うように、私は博士論文「徳川時代の宗教」(現在でも最初の出版社であるフリープレスから出版されています)を完成させました。

 事態は、1955年春に社会関係学科が私を教員候補者として推薦することを決定したため、新たな局面を迎えました。私は、当時の学科長であり指導教官でもあったタルコット・パーソンズに、前年のバンディとのいきさつと、それ故、私の採用が無理ではないかとの懸念を告げました。パーソンズはそのまま押し通すことを望みました。バンディは更に私と面談し、名前を挙げるように再度促すと共に、ハーバードの診療所長を訪ねるように言いました。私は学部の1年生の時、そこでカウンセリングを受け、精神を検査してもらったことがあったのです(理事会の中に、元党員は「頭がおかしい」に違いないと考える者がいたので、そんなことはないと改めて確信させたかったのだと、のちにバンディは私に語りました)。

 結局、私は採用のオファーを受けましたが、それには、もし私が当時いくつかあった非米活動委員会のどれかに呼ばれて、どの質問であれ回答を拒否したなら、契約は更新されないという条件が付いていました。私は、モントリオールにあるマッギル大学のイスラム研究所から、2年間のポスドク奨学金のオファーを受けていたので、ハーバードからの受け入れがたいオファーでなく、そちらの方を受けました。パーソンズとしては、私がもう少し粘りさえすれば、ハーバードのオファーからその不愉快は条件を取り除けると感じていました。カナダに向けて出発する前、パーソンズは、「これで終わった訳じゃないから」と私に言いました。2年後の1957年、奨学金が切れるときに、私は幾つかの採用のオファーを受けましたが、その中には、1955年の例の条件が取り除かれたハーバードからのものもあり、それを受けることにしました。私はハーバードで、正教授にまでなり、そして1967年にカリフォルニア大学バークレー校へと異動するまでそこに留まりました。

 マッカーシー時代にハーバード大学がとった動きについての完全な記録はありません。それにはもっともな理由があります。データが利用可能でないのです。理事会の関連会議の議事録を請求したとき、議事録は取られていないと言われました(1)。バンディ学部長とビュージー学長との間のやりとりから理事会の行動を再構成しなければならないのです。しかし、わずかですが最近私が目にすることができるようになった資料のおかげで、幾つかの結論に達することができています。

 まず注意しなければならないのは、私のケースが持ち上がったとき、理事会はウェンデル・ファーリーのケースに没頭していたということです。ファーリーは、終身在職権付きの物理学教授で、マッカーシー委員会に協力をせず、告発されていました。理事会は、もしファーリーが投獄されたらどうするか頭を悩ませていました。私が現在知り得たことからハーバードの理事会の方針(ビュージーとバンディはそれにおおむね沿っていました)を性格づけるとすると、批判回避に第一の関心をおいた、マッカーシイズムヘの控えめな協力といえるでしょう。告発された終身在職権付き教授を雇用し続けることは批判を招きましたが、彼を解雇することは、有力同窓生や教授陣から明らかに批判を受けたでしょう。

 しかし、シグムンド・ダイアモンドやレオン・カミンといった任期付きの教員の場合は、単に任期の終わりに契約を更新しないということができました。彼らが騒ぎを起こすことはまずなく、それでハーバードの協力が人々の関心を集めることもあまりありませんでした。私や、おそらくは他の人にも、圧力をかけて連邦捜査局に名前を言わそうとしたバンディの骨折りは、理事会の方針ではなかった可能性も充分あります。しかし、その道というわけでもありませんでした。というのも、私が知ったことは、任期付き教員の採用に関する理事会の方針は、どんなすばらしい学問的業績にかかわらず、調査委員会からの質問に1つでも答えなかった者は、いかなる者であれ契約は更新されないというものでした。

 1977年にバンディは私に次のように言いました。自分は同様のケースにおける理事会のすべての決定を承認してきたものの、私が尋問においてもうまく対応でき、大学の名誉を辱めることはしないと信じて、私のケースだけは例外とするよう理事会を説得しようとしたと。1955年4月27日の理事会宛ての長い書簡で、バンディは、私の人格と能力を理由に、私のケースを例外とするよう論じました。シングルスペースで6ページにも及ぶ手紙の末尾で、彼はこの問題の核心に触れました。

 ──外部から批判される危険がないなら、私はベラー氏が常勤教員となるのがよいと思います……しかし、もちろん 外部からの批判の危険は存在しますし、それはこの問題に2つの方向から影響を及ぼします。──

 1つの可能性は、もし私が証人として召喚され、十分に協力しなかったとき、大学がそのような人物を「故意に雇用している」と批判されるだろうということです。そのような状況下でも、私が批判をかわすように適切に振る舞えるとバンディは感じていました。もう1つの危険は、学科の終身在職権をもつ教員による全会一致の支持を受けた候補者の採用を事実上拒否すると、学科を失望させることになり、例の付帯条件なしに私を採用することは、「自分が考えるところ、理事会と教授団との間に現在存在している相互信頼の感覚を強化する」であろうというものです(2)。

 理事会の反応は、5月16日付のビュージー学長からバンディ学部長へ宛てた短い書簡に含まれていました。それは採用は認めるものの、以下のような文章を含んでいました。

 ──ベラー氏の講師としての任期中に、もし共産党員との過去のいかなる関係についても証言を拒否したなら、理事会は、任期更新を認めたがらないだろう。──

 私の能力に関する議論も、詳細にわたる長文のバンディによる私に対する弁護への反論もなく、ただ明らかに理事会の包括的政策と見える主張があるだけでした。マッカーシー時代のハーバードを突き動かしていたのは、「情報漏れ」を発見したいという意図だったと論じる者もいるので、次のように指摘することは有意義であると思います。すなわち、私のケースにはそのような問題は関わっていなかったし、バンディの書簡にもビュージーの書簡にも触れられてはいませんでした。また私と同様の扱いを受けた人たちの場合も同じでした。ハーバードが懸念していたのは、「情報漏れ」ではなく、批判を受けるということについてだったのです。

 私に提供された新しい情報の中には、1955年5月23日付のタルコット・パーソンズからの長い覚え書きも入っていました。それは、ジョン・エドソールのメモ書きによって支持されており、アメリカ大学教員協会ハーバード支部の執行委員会に向けて書かれたものでしたが、5月16日のビュージーの書簡に含まれていたハーバードの理事会の決定に疑義を呈するものでした。

 パーソンズは次のように主張しました。非行の場合を除いては、講師は通常2年間の任期延長を期待しうるものであるし、理由が何であれ質問への回答を拒否することは非行となると理事会は明らかに信じていた、そして結果として、元共産党員だけでなく、そのような質問のどれに答えることに不満を抱く者に対しても、理事会は自らの見解として、包括的義務が存在する、と主張したのです。

 パーソンズは、包括的方針などは存在せず、個々のケースはそれぞれの功罪にもとづいて扱われるぺきであるという教授陣の間で広く支持されていた信念を表現すると共に、そうではないと知ったときの落胆を表明したのです。彼は、「不快に違いなかったにもかかわらず」、私が自分の精神的健康に対する調査に協力したという点を指摘しました。これは明らかにバンディの頭には思い浮かばなかった点です。

 書簡の終わりの方でパーソンズは、その時点までの動きは、「多くの人が偉大な大学の統治機関として無価値と判断するであろう程度にまで理事会は道を踏み誤っている」という印象を与えかねないと指摘しました。1956年秋にパーソンズは再び原則の問題を持ち出しました。

 ビュージーは1956年9月27日に理事会に代わって次のように応えました。1955年春に私がオファーを断っているので、この問題を再び取り上げる意味はなく、「彼ら〔理事会〕は当時〔1955年5月16日〕とった行動が正しいものであったと感じており、もし今日状況が同じであれば再び同じ行動をとるだろう」と述べました。

 1957年に事態がなぜそれほど大きく変化したのか。すなわち、カナダでの2年間のポスドク奨学金が切れたとき、私は1955年の付帯条項なしの採用の申し出をハーバードから受けました。なぜ以前の包括的政策が突然姿を消したのか。バンディは1977年7月14日付の『ニューヨーク・レビュー』への書簡の中で1つの重要な理由を挙げています。

 「公判を受けなければならなかったのはレオン・カミンとウェンデル・ファーリーで……それは1956年には検察側は十分に立件できませんでした。そしてこのことがすべての関係者にとって暗雲を晴らすのに大いに貢献したのでした」。

 1954年12月の米国上院のマッカーシー批判が国全体のムードを変え、非米活動委員会のジグソーパズルはそうこうするうちにバラパラとなっていたということも加えてよいかも知れません。1957年の思いがけないマッカーシーの死が、時代の終わりを際だたせているように見えました。これらの出来事が、ハーバードの理事会がそれほどまでに懸念していた「批判」の危険を最終的に取り除きました。しかし、初期の出来事に関しては、バンディが悔悟することはありませんでした。私のケースだけが、理事会が過ちを犯したと彼が感じた唯一のケースでした。彼はその他すべての理事会の決定に同意しました。バンディが私のケースを理事会の包括ルールに挑戦するために用いていたとしても、彼はそうとは言いませんでした。

 これらすべてが帰するところは、ハーバードがマッカーシイズムに対する防波堤であったという記録ではなく、惨めな臆病さの記録、つまり連邦捜査局やマッカーシー本人、そしてマッカーシー派の諸委員会に進んで完全に協力したという記録なのです。それは、終身在職権のある者を解雇するといった、マッカーシーヘの協力よりも大きな批判を巻き起こしかねないことをハーバード執行部がしてはならないという懸念によってのみ薄められてはいましたが。それらの委員会や連邦捜査局が望んだことは、人々が名前を挙げることであり、任命権や契約更新権を使って人々に圧力をかけることによって、ハーバードが進んで協力することでした。

 すべてのアメリカの主要大学がそれほど臆病だったわけではありません。1977年の往復書簡の後、私は他の大学での別の行動を示唆する手紙を多く受け取りました。ここでは1つだけに触れましょう。それはデーゲイッド・リースマンからのもので、名前を挙げることを拒否した終身在職権のない教員が、契約を打ち切られることがなかったばかりか、大学が弁護費用をもったというシカゴ大学のケースについて語っていました。

 おそらくハーバードの歴史家が、そのような臆病なことは2度と起きないようにという目的のもと、1950年代のハーバードのマッカーシイズムヘの反応という悲しい歴史全体を研究するのによい時機が釆ているのではないでしょぅか。

 ハーバード大学執行部の意気地のなさに驚く人もいるでしょう。ハーバードほどの組織であればマッカーシーの時代の市民的自由への攻撃に対して、批判を恐れて縮こまるかわりに、より弱い組織が続くぺき範を示しつつ、十分抵抗することは出来たでしょう。しかし、そのような道がとられることはありませんでした。ファーリーを解雇しなかったという事実だけが、ハーバードの抵抗という神話を生き延びさせています。

 私はハーバードに大いに世話になりました。(カナダでの2年間という中断を除いて)学部の1年生から正教授までの成長過程の20年間をハーバードで過ごしました。しかし、母校の真の精神は、ビュージー学長やバンディ学部長、そして理事会によって具現化されて
いるのではなく、タルコット・パーソンズや彼のような他の教授陣によって体現されていると私は信じます。
               ロバート・N・ベラー
         カリフォルニア大学バークレー校、エリオット社会学名誉教授

(1)カービー学部長の更なる言葉によってこの発言がより明確になる。「実際には理事会の会合には議事録が存在している。ただ、公式な議論の記録だけであり、会合における議論の要約は含まれていない」。これらの「議事録は上記のビュージー学長の報告書のなかに既に含まれている内容に何かを加えるものではない。
(2)これを書いて以来、私は1955年5月23日付のバンディからビュージーに宛てた手書きのメモを解読してきた。それは、バンディの4月27日付公式書簡の表紙として付随していたもので、そこでバンディは、この問題をより一層明確に論じている。

 ──これが、社会関係学科の若き元共産党員、ベラ一についての私の書簡です。この書簡を準備するにあたって、彼を採用するのが正しい道であると、より一層納得しています。この若者の[解読不能]過去に関する懸念を支持するような議論は成り立ち得ますが、結局のところ、彼の採用に反対する理由はその懸念だけなのです。しかし、我々が自分たちの基準を信じ、過去の愚かさを許し、1人の若者の良心に敬意を表するなら、我々はここから前に進むべきだと私は考えます。──


牧野からのお断り

 出版社からも原筆者からも訳者からも許可を得ないで転載します。内容的に価値があると判断したからです。クレームが来たら削除するつもりです。

 ここに出てくる「ポスドク」とは、多分、日本では「オーバー・ドクター」と言われている(ポスドクとも最近は言うかもしれない)ことで「博士課程修了者」という意味です。又、「ジョン・リード・クラブ」のジョン・リードとはアメリカのジャーナリストで、ロシア革命のルポ『世界を揺るがせた10日間』を書いた人でしょう。アメリカ映画に「レッズ」というのがありましたが、それはジョン・リードの生涯を描いた物ではなかったでしょうか。

 アメリカ映画「追憶」にもマッカーシーイズムとの映画人の戦いが出てきます。この映画については「主義を糧とする人々」を書きました。

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