マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

宗教

2007年10月27日 | サ行
 宗教の定義がはっきりしていないと思います。

 「新明解国語辞典」(三省堂)を見ますと、「心の空洞を医(いや)すものとして、必要な時、常に頼れる絶対者を求める根源的・精神的な営み。また、その意義を必要と説く教え」とあります。

 ここから分かりますように、宗教を考える時には、個人の側の宗教心と教説としての宗教との2つがあります。

 普通はこの2面が一緒に考えられているからこそ、辞書もこのような書き方になるのだと思います。しかし、学問的には、両者は分けて考え、宗教的な教説のみを「宗教」とし、個人の側の宗教心は「信仰」とする方が適当だと思います。

 では、この宗教的教説の本質的特徴は何でしょうか。例えば、「国語大辞典」(学研)は「神仏などの超自然的・超人間的なものを信仰するその信仰の体系的なまとまり」としています。

 実際、宗教を説明しようとすると、多くの方がこのような説明をします。この説明の難点は、キリスト教や仏教を宗教と前提して、その共通点を指摘しようとしている点です(日本古来の「神」とキリスト教の「神」との違いは今は論じません)。

 このような定義では、キリスト教は宗教なのか、仏教は本当に宗教なのかという問題に答える根拠が出てこないと思います。しかるに、原始仏教や原始キリスト教については、それは宗教ではなくただの倫理思想だといった説も実際にあります。

 それにこのような定義の不十分な点は、共産党は宗教団体だとか、日本の会社は一種の宗教団体だといった、広く流布している考え(用語法)も説明できません。

 では、宗教はどう定義したら好いのでしょうか。言葉の定義は実際に使われている意味を純化したものでなければならないと思います。私見によれば、「自説の正しさを主張する際、『信じなければ分からない』『信じれば分かる』という言い方ないし考え方をしている教説」のこと、と定義すると現実に合うと思います。

 これに対して科学的な主張とは、「私の説を徹底に疑って考えてくれ。そして、事実と推論の結果、どうしてもこれ以上疑いえないとなった時、初めて賛成してくれ」という言い方ないし考え方をする理論のことだと思います。

 このように定義すれば、「信じる者は救われる」ということが宗教一般の基調になっていることも分かりますし、会社教とか政治的宗教も同じだと分かります。

 私はよく思うのですが、日本国憲法は政治と宗教の分離を規定していますが、政治的宗教団体はどうなるのでしょうか。憲法は、言葉をその対象で分けたために、政治と宗教とは対象が別だと考えているようです。しかし、これは間違っていると思います(憲法の規定の不整合は、実際は国家神道を念頭に置いていたのに、それを一般化して言ったために起きたのだと思います)。

 さて、宗教をこのように定義しますと、それに対応する形で、信仰も定義できます。

 信仰については前掲の「新明解国語辞典」は「神仏などをあがめたっとび、絶対に従うこと」としています。「国語大辞典」は「神仏などをかたく信じ、その教えを守り、それに従うこと。また、ある物事を絶対視して、信じること」としています。

 後者の方が広く見ていますが、この説明の不十分さは、信仰と隣り合っている科学的信念や崇拝などとの異同が解明されていないことでしょう。

 実際、考える能力が人間の本質的な特徴の1つであり、思考することは疑うことでもありますから(疑うということは、本当にそうかと考えることで、否定することではありません)、全然疑わないでいきなり信仰するということはないのです。ですから、問題は、どこから科学的探究心や信念が信仰に転化するのかという分岐点の限定なのです。

 このように宗教と信仰を分けて定義しますと、宗教を科学的に研究すること(実際にこういう人はいます)も説明できますし、科学的な理論を信仰する場合もあるということ(共産主義運動におけるスターリン個人崇拝など)も説明できると思います。

 又、信仰と暴力がとても近い関係にあることも説明できると思います。

 しかし、ここまで国語辞典に求めるのは酷と言うべきでしょう。私見は拙稿「宗教と信仰」(拙著『先生を選べ』鶏鳴出版に所収)にまとめておきました。

 ついでに、なぜ宗教の定義が難しいかと考えてみますと、その原因として、宗教を持っている人はそれを言葉で外部の人に表現したがらないこと、これを論ずる人はたいてい特定の宗教を持っている人であって、他の宗教をも研究することはそれ自体大変ですし、それをしたがらない人が多いこと、宗教嫌いの人は頭から宗教を否定する傾向が強く、それ自体が一種の宗教(反宗教という宗教)であることに気づかないこと、言葉の定義は日常的用語法の純化であることが必ずしも認められていないこと、などがあると思います。

  参考

 01、現代西洋語で「宗教」を意味する単語はラテン語の religio から来ているのであるが、この語はもともと、ものごとをやるのに必要な「慎重さ、丁寧さ」を意味している。

 神々が本当に存在していて、何かというと人間にたたりを与えたり、禍いを下したり、下手に怒らせると大変だ、と人々が本気になって信じていた社会、その神々を怒らせずに、うまく喜んでもらえば、五穀豊穣商売繁盛がかなえられると本気になって信じていた世界においては、世の中で何よりも慎重さ、丁寧さを必要としたのは、神々に対するつきあいであった。

 だから、この単語が、神々に対して人間が取るべき丁寧な態度を意味するようになったのである。

 日本語の「宗教」は、明治期に、この西洋語の翻訳に迷った我々の先達が、仏教用語の中からあまり多くは使われない単語(「宗」や「教」は非常によく使われるが、この二つを組み合わせた「宗教」は、伝統的な仏教用語に存在しないわけではないけれども、そうしばしば使われる用語ではなかった)に目をつけて、それを religio の訳語にお決めになっただけの話である。

 当たらずといえども遠からずというか、遠すぎて当たらなかった、というべきか。(田川健三『キリスト教思想への招待』けい草書房、214頁)

 02、仏教は、理想の生き方を目指して特殊な修練をするという点からいえば宗教のひとつだが、キリスト教やイスラム教のように、絶対的な神は認めない。

 だから「神のお告げ」というものがない。しつかり坐って考えて真理を悟る。それはすべて自分がやること。外の誰かが答えを教えてくれるのではない。

 「その真理とは、原因と結果によって世界が動いていくという因果の法則だ」と釈迦は言うが、それは一人一人の心の中の法則性なので、耳で聞いて、「はいそうですか」と簡単に理解できるものではない。それを実感として体得するには、自分も釈迦と同じ体験をするしかない。そこに修行の意味がある。

 このように仏教は、心の中の法則を探求する宗教なのだが、これとちょうど対になる分野が科学である。科学の目的も仏教と同じく、世界の法則を発見することにあるのだが、ただそれが外部にある物質世界の法則だという点に、仏教との違いがある。

 仏教は智慧の力で「心の法則」を探求し、科学は智慧の力で「物質世界の法則」を探求する。仏教と科学は、互いに補い合い、尊敬し合うことのできる、同じ次元の領域なのである。

 ところが残念なことに、「宗教」の名のもと、キリスト教などの絶対神信仰とひとくくりにされて、仏教の持つ素晴らしい合理性はいつも陰に隠れてしまう。

 最近ドーキンスという有名な生物学者が、キリスト教を批判して『神は妄想である』という本を書いたが、その和訳書につけられた副題が「宗教との決別」である。誰がつけたのか知らないが、こういういい加減な理解は本当に困る。ドーキンスが批判しているのは、科学的思考を妨害するキリスト教的信仰世界であって、それは釈迦の仏教とは全く関係がない。

 科学と決別するどころか、これからいよいよ科学との連携が深まるに違いない、仏教という「宗教」があるということを忘れてもらっては困るのである。(朝日、2007年10月25日。花園大学教授・佐々木閑「日々是修行」)
  感想・宗教と科学をその対象の違いで定義して、共存を図ろうとする典型的な考え方の1つだと思います。

 03、お釈迦様の教えは素晴らしいが、だからといって私は、釈迦を完全無欠な超人だとは思っていない。釈迦も我々と同じ人間。そのことば歴史的事実である。その釈迦の前でひたすらひれ伏し、その言葉や行いの、なにからなにまで、すべてを一切疑うことなく受け入れる、そういう生き方が正しいとは思えないのだ。

 この私の考えに、反発する人も多い。「宗教というのは、教祖様の言葉を理屈抜きに丸ごと信じるものだ。それができないというのは、信仰がない証拠だ」、といった批判である。もし仏教が、「信仰によって成り立つ宗教」なら、この批判は正しい。釈迦だって、時には間違うことがあったと考えている私は、けしからん不信心者である。

 しかしそもそも釈迦の仏教は、信仰で成り立つ宗教ではない。仏教でも「信じなさい」とは言うが、それは、「釈迦の説いた道が、自分を向上させることに役立つ」という事実を「信頼せよ」という意味である。仏教の「信」とは、信仰ではなく信頼なのだ。この違いは大きい。

 信仰とは、「絶対に正しい存在がこの世にいる」と考えて、その前に自分のすべてを投げ出し身を任せることである。だから神や超越者に救いを求める宗教では、信仰が、何より大切な原動力となる。一方、釈迦は絶対者の存在を認めなかったから、そこには信仰の対象というものがない。すべてを任せれば救ってくれる、そういう者はどこにもいないのである。

 釈迦自身は、普通の人間だ。ただ常人よりもすぐれた智慧があって、「超越者のいない世界で、生の苦しみに打ち勝つ道があること」を独力で見つけ出した。そしてそれを私たちに教えてくれた。だから私たちは、その道を信頼する。釈迦という人物を信仰して、「助けてください」と祈るのではない。釈迦が説いた、その道を「信頼して」、自分で歩くのである。だから、釈迦が完璧な絶対者でなくても少しも構わない。道を信頼する気持ちがあれば、それだけで仏教は成り立つのである。(朝日、2009年02月12日。花園大学教授・佐々木閑「日々是修行」)

 04、個人が民族精神と自分とが一体であることを自覚する中心点は宗教である。(歴史における理性125頁)

 05、宗教は、或る民族が自己の何たるかについて、又最高のものの本質は何かについて持つ意識である。(歴史における理性126頁)

 06、民族の全現存が宗教に基づくように、民族の原理は宗教の中で最も単純に表現されている。(歴史における理性127頁)
 07、精神の本当の本質について精神の持っている意識が宗教の中にどの程度含まれているか、宗教ではこれが問題である。(歴史における理性131頁)

 08、宗教によって与えられる真理は〔人間理性の〕外から与えられる……宗教の真理は「そこにある」のである。それがどこから来たのかは分からない。その内容は与えられたものであり、理性を超越しており、理性の彼岸にあるとされている。(ズ全集18巻92頁)

 09、宗教は人間が動物に対して持っている本質的な区別に基づいている。従って動物は宗教を持たない。……しかし、このように人間を動物から本質的に区別するものは何か。……それは意識である。……それはただ、自己の類、自己の本質性を対象とする存在者しか持たない。……従って動物は一重(ひとえ)の生活を送るだけだが、人間は二重(ふたえ)の生活を送る。(フォイエルバッハ「キリスト教の本質」第1章)

 10、人間は自己の本質を対象化し、次いで今度は逆に、自己をこの対象化され、主体や人格へと転化された存在者の対象にする。これが宗教の秘密である。(フォイエルバッハ「キリスト教の本質」第2章)

 11、宗教は人間が持つ最初の(そしてもとより間接的な)自己意識である。(フォイエルバッハ「キリスト教の本質」第2章)

 13-1、宗教とはまさに廻り道をして人間を承認することである。(マルエン全集第1巻353頁)
 13-2、宗教心を持っている人は、自分の本質を或る〔自分には〕疎遠な空想的な本質存在にすることによってしか対象化できない。(マルエン全集第1巻376頁)

 14、宗教とは、自己をいまだに獲得していないか、〔獲得した後に〕失ってしまった人が持つ自己意識であり、自己感情である。(マルエン全集第1巻378頁)

 15、人間の本質が真の現実を持たないが故に、それが幻想の中で実現されたもの、それが宗教である。(マルエン全集第1巻378頁)

 16、宗教は民衆の阿片である。(マルエン全集第1巻378頁)

 17、一切の宗教は、人間の日常生活を支配している外的諸力が人間の頭の中で空想的に反映したものであって、ここでは地上の諸力が天上の諸力の形態を採る。(マルエン全集第20巻294頁)

 18、自然を正しく反映することさえ既に極めて難しい事であり、長い経験の歴史の産物である。自然の諸力は原始的な人間にとっては何かよそよそしく秘密に満ちていて自分達を超えるものと感じられる。どの文化民族でも自然力を人格化して同化するという段階を通過する。

 この人格化の衝動は至る所で神々を生み出した。そして、神の存在証明で諸民族間に一致点があるということは、まさにこの必然的な通過段階である人格化衝動の普遍性と宗教の普遍性を証明しているにすぎない。
 自然を現実的に認識して初めて神々は追い出され、神々の陣地は壊されるのである。この過程は今やずっと先まで進んで、理論的には終結したと見なしても好い所まで来ている。(マルエン全集第20巻582-3頁)

 19、一層高度なイデオロギー、即ち経済上の物質的な基礎から一層離れたイデオロギーは、哲学とか宗教といった形を採る。(エンゲルス「フォイエルバッハ論」第4章)

 20、宗教の問題が出たので、われわれの種の攻撃行動の他の側面に進む前に、この奇妙な行動パターンを もう少しくわしく観察しておく方がよいと思う。この問題は扱いやすい問題ではないが、動物学者 としてのわれわれは、何が起こりそうかということより、実際に何が起こっているかを観察するこ とにべストを尽くすべきであろう。

 そういうふうに見てみると、行動的な意味からいえば、宗教活動と は人間の大きな集団が集まってきて、ある優位な個体をなだめるために服従の誇示を何度も、しかも長 々と行うことであると結論せざるをえない。  この優位個体は文化が違えばさまざまな形をとるが、 つねに無限の力を持つというのが共通する要素である。ある場合にはそれは他の種の動物の形態、ある いは架空の動物の形態をとる。ときにそれは、われわれの種の賢明な祖先として描かれる。また、とき にはより抽象化されたものとなり、単に「ある状態」ないしそのような言葉で示されることもある。

 こうしたものに対する服従反応は、目をつぶるとか、頭を下げる、施しを訪う姿勢で両手の指を組合わ す、ひざまずく、地面に口づける、さらには極端になってひれ伏す、といったことで構成されることが 多く、しばしは悲しげなあるいは単調な発声が伴う。

 もしこれらの服従行動がうまくいけは、優位個体はなだめられる。けれど、この優位個体の力はきわめて強いので、その怒りがまたもえ出してくる のを防ぐには、このなだめの儀式を規則的な間隔でしばしば行う必要がある。この優位個体はいつ もそうとはかぎらないが、ふつう「神」と呼ばれている。

 どの神も実体を伴ってはいないのに、どのようにして発明されたのであろうか? この答えを見 つけるには、われわれはわれわれの祖先の起源にさかのぼらねぱならない。

 われわれは協力的な狩り人 になる以前に、現在他の種のサルやヒトニザルに見られるような社会集団を形成して生活していたにちがいない。これらの集団では、典型的には、それぞれの群は一頭のオスによって支配されている。かれ はボスであり、君主であって、群のすべての個体は彼をなだめねばならず、さもないと痛い目にあう。

 ボスはまた、群を外界の危険から守り、劣位の個体間の争いを解決するのに、もっとも積極的な役割をはたす。群の個体の生活は、すべてこの優位個体を中心として展開される。かれの全能の役割は、かれに神にも似た地位を与えている。

 さて、われわれの直接の祖先に目を向けてみると、集団的な狩猟を成功させるためにきわめて重要な協力精神の発達とともに、この優位個体が群のなかの他の個体から、消極的ではなくて積極的な忠誠を受けることを保持しようとするならば、かれがボスとしての権威をふるうのをきびしく制限せねばならない状態になったにちがいない。群の構成個体はボスを単に恐れるのでなくて、かれを助けねはならなかったのである。ボスは「かれらの一員」以上のものにならねばならなかった。旧式のサル的な暴君は消え去り、新たに、より寛大でより協力的な裸のサル型のリーダーが出現した。

 この一歩は進化しつつある新型の「相互扶助的な」社会組織にとって本質的なものであったが、しかし、一つの問題をうみだした。群のナンバー・ワン個体の全面的優位が今や限定つき優位に置き換えられたため、かれはもはや無条件の忠誠を思いのままに支配することはできなくなった。ものごとの秩序におけるこの変化は、新しい社会制圧に不可欠なものではあったけれど、なおかつ一つのギャップを残した。われわれの古くからの性質として、全群をその支配のもとにおくことのできるような全能の象徴がほしかったのである。この空白は神というものの発明によって埋められた。こうして発明された神の姿は、今やますます限定された群のリーダーの影響力に新たな力をつけ加えるものとして作用するようになった。

 ちょっと見たところ、宗教があれほど成功したのはおどろくべきことのように思われる。けれど宗教のこの潜在力は、単にわれわれが祖先のサルやヒトニザルから直接に受け継いできた群の全能の優位個体に朋従したいという基本的な生物学的傾向の強い現われにすぎない。このために、宗教は社会的な団結を助ける手段として、明らかに測りしれない価値をもってきた。われわれの進化的な起源の独特な事情の組合わせから考えると、

 もし宗教というものがなかったら、われわれの種がこれほどまでに進歩しえたかどうかたいへん疑わしい。宗教は、最後にそこで神にあえる「あの世」の信念といったような多くの奇怪な産物をつくり出した。すでに述べたような理由から、神が現世でわれわれと出会うことはありえないのだが、このことは死後の世界では訂正されるのだ。これを助けるために、われわれが死んだときの死体処理と関連して、さまざまな不思議な儀式が発達させられた。いよいよこの優位の個体と出会うのであるから、その場にそなえて念入りな埋葬の儀式をしておく必要があるのだ。

 宗教はまた、その適用にあたって超儀式化がなされたり、神の職業的な「助手」たちが神の力をちょっとばかり併用して自分でその力を振るってみたい誘惑に打ち勝てなくなった場合には、不必要に多くの苦悩や苦痛を与えるものとなった。けれど、波乱に富んだその歴史にもかかわらず、宗教はわれわれの社会生活の一つの特徴であり、われわれはそれなしではすまされない。

 宗教は受け入れられなくなると、ひそかに、あるいはときに激しく拒否され消えてゆくが、直ちに注意深く変装された新しい形をとって現われる。しかし古い基本的な要素をすべてそっくり含んだまま、生き返ってくる。われわれはただ単に「何かを信じ」ねはならないのだ。共通の信仰だけがわれわれを結びつけ、統御する。このことから、信仰は強力であるかぎりにおいてだけその効果があるという主張も成りたつのである。しかし、これは厳密には正しくない。宗教は印象的でなけれはならず、また印象的だと思われていなけれあならない。われわれの公共的な本質は、念入りな群の儀式を行いい、それに参加することを必要としている。この「華やかな儀式」を除去してしまったら、恐るべき文化的ギャップが生じ、教化がそれにもっとも重要な深い情緒的レベルで正しく働くのを妨げるであろう。(デズモンド・モリス著日高敏隆訳「裸のサル」河出書房新社174-7頁)

 21、ドストエフスキーは『悪霊』のシャートフに「宗教、すなわち善悪の観念を持たぬ国民はかつて存在したことがない。……理性はかつて一度も善悪の定義を下すことが出来なかった」と言わせている。ここには宗教こそがモラルの根底であるという確信があり、それが同時に、理性はモラルの根底になりえないのではないか、という疑いとなっている。(川崎『ソ連の地下文学』朝日新聞社281-2頁)

   関連項目

信仰