マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

黒磯北中事件(その1)

2008年08月11日 | カ行
 1998年01月31日、栃木県の黒磯北中学校で、1年生の男子生徒が休み時間中に注意を受けている最中に、注意している女教師をナイフで刺殺する、という事件が起きました。

 この事件は主として生徒の側の問題として取り上げられ、「普通の生徒がある日突然キレる」ことや、ナイフ所持の問題、更に学校による所持品検査の問題に発展しているようです。

 私は、この事件の責任は、犯人である男子生徒、その親、校長、女教師K教諭、の順にあると思っています。以下、この点を詳しく論じたいと思います。

 第1に、正当防衛以外ではナイフによって人を刺し殺してはならないということくらいは、中学1年生なら知っていなければならないでしょう。その意味で、この事件の第1の、そして最大の責任が犯人たる男子生徒自身にあることは論を待たないと思います。

 又、こういう事は家庭教育、と言わなくても、家庭生活の中で自ずから身につけていなければならない事柄です。従って、そういう最低の規範すら身につけさせることの出来なかったという点で、親に大きな責任があると思います。

 さて、これらを確認した上で、私がここに詳しく考えたいのは、校長とK教諭自身には問題はなかったか、という事です。これは後者から論じなければなりません。

 K教諭はこの日、その生徒に3回注意しています。そして、3回目に惨事は起きました。第1回は、保健室からトイレに寄って遅刻してきたその生徒に、「トイレに行くのにそんなに時間がかかるの?」と、みんなの前で声を上げた、ということです。

 こういう注意は正しいでしょうか。私は、これは教育的に間違っているのみならず、道徳的に見ても失礼だと思います。この男子生徒はかなり前から普通以上の精神的問題を(ここに「普通以上の」と言うのは、人間は誰でも問題を抱えているからです)抱えていて、保健室に行くことも多く、又担任も親もはそれを知っていて互いに話し合っていたということです。

 この事実をK教諭が知っていたかどうかは大切な問題ですが、それは後で論じるとして、知っていたら尚更のこと、知らなかったとしても、この対応は間違っていたと思います(私のようないい加減な教師は、こういう場合は、「○○君、こんなつまらない授業によく来てくれたね。今、××ページだよ」と言ってお終いにします)。

 次の注意は、授業終了間際に、その生徒が周囲と雑談していたことに対してなされたということです。この時どういう言葉が使われたのかが報道されていないのは残念ですが、多分きつく叱ったのでしょう。これも適切とは思えません。

 私も私語は注意しますが、場合によっては見過ごすこともあります。この時も終了間際だったのだから見過ごすという手があったと思います。たとえ注意するとしても、私だったら「もう少しだから、我慢してね」と言います。

 3回目の注意は休み時間に行われました。それは、「ちょっと来な」と言って、その生徒と彼の友人の2人を廊下に呼び出してなされたそうです。その時、その男子生徒は初めの内はおとなしく注意を聞いていたが、ついに「ざけんなよ」と言って刺したというのです。

 私は、この注意は完全に間違っていたと思います。あまりにしつこ過ぎました。そもそも休み時間は雑談してくつろぐ時間であって、説教をしたり聞いたりする時間ではないと思います。

 前述の通り、初めの2回の注意も間違っていたと思いますが、一歩を譲ってそれが正しいとしても、休み時間はそれをカバーするような雑談をするべきでした。例えば、「ねえ、○○君、今日はどうしたの?」とか、「さっきはあんなに強く叱って御免ね」とか、「どう? 今日のあの説明で分かった?」とかと切り出して、雑談をし、人間関係を回復させるのです。

 教育というのは生徒にやる気を持たせ、生徒の能力を高めればそれで良いのです。叱るだけが教育でもなければ、叱ることが教育の目的でもないのです。K教諭は26歳で、真面目すぎたと思います。雑談の教育的効果を知らな過ぎた、と思うのです。少し大げさに言うならば、必要もないのに休み時間に生徒を拘束するのは職権乱用ですらあります。

 ではなぜK教諭はこのように行き過ぎてしまったのでしょうか。彼女はいわゆる熱血教師だったそうです。一般的には生徒の評判も悪くなかったようです。そこで、これを考えるには、黒磯北中における「校長を中心とする教師集団」がどうだったかということを考えなければなりません。

 学校教育の目的は勉強を教えることと生活指導とですが、いずれも、個々の教師が行うものではなくして、「校長を中心とする教師集団」が行うものです。従って、「校長を中心とする教師集団」がしっかりしている場合にはこの2つの目的はかなりよく達成されます。しかし、それがしっかりしていない場合には、個々の教師がどんなに頑張ってもあまり成果は上がりません。このことは勉強についても生活指導についても言えますが、特に生活指導について言えます。

 しかるに、この黒磯北中ではこの「校長を中心とする教師集団」がしっかりしていなかったのではないでしょうか。この点についての問題意識が誰にもなく、従って報道もされていないので推測で物を言うしかないのが残念なのですが、この生徒の問題が担任には知られていたにもかかわらず、隣のクラスの担任であったK教諭にすら知らされていなかったらしいことからも推測がつきます。

 又、生活指導や学科指導のあり方について教師同士で話し合い、研鑽し合う「本当の教師集団」からは程遠い状態だったのではないでしょうか。

 もしそういう研鑽が日頃からなされていたならば、遅刻者にどう声をかけるか、私語をどう注意するか、休み時間に説教をしてよいのか、といったことも話し合われていたはずです。そうすれば若いK教諭にももう少し適切な対応が出来たと思います。

 しかし、残念ながら、黒磯北中の教師集団はそういう本当の教師集団にはなっていませんでした。しかもK教諭は、その責任は校長にあるということを十分には自覚していなかったし、まして校長に意見をすることもしませんでした。そして、学校の現状をなんとかしたいと思った熱血漢のK教諭は、1人で、きつく叱ることで生徒をよくしたいと思ったし、又それが出来ると思ったのでした。ここに悲劇の元があったのだと思います。

 最近も『校長が変われば学校が変わる』という実践報告のような本が出版され、テレビドラマにもなって話題を呼びました。学校教育の問題を考える際には、学校教育というのは個々の教師が行うものではなくて、校長を中心とする教師集団が行うものであるという
ことが、もう少し自覚されてもよいのではないでしょうか。

 (1998年02月16日執筆、メルマガ「教育の広場」2001年09月07日発行)