マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

時間

2006年12月25日 | サ行
 1、時間論では、物理学的な時間論と人間が時間をどう意識するかという観点からの実存論的時間論とがある。

 2、弁証法的唯物論はヘーゲルの自然哲学の運動論を受け継いで運動を時間と空間との統一と捉える。あるいは、運動を物質の一般的存在様式とし、時間も空間も同じように物質の一般的存在様式とする。これはこれで間違いではないと思うが、ここに留まっているのは情けない。

 3、実存主義の時間論については、参考の13に挙げた木村氏の説明が分かりやすいのではあるまいか。

 分かりやすい例を挙げれば、何かに夢中になっていて充実した時を過ごしたような場合、その時は「あっという間」の出来事のように感じられるが、後で振り返ると長い時間に感じられ、思い出す内容が一杯詰まっているが、退屈に過ごした時間はその時は長く感じられるが、後から思い出すと短く感じられ内容が何もない、といったことである。

 4、しかしこういう時間論はヘーゲルにはないのかとか、弁証法的唯物論には取り込めないのかということになると、実存主義者には偏見ないし無知があると思う。

 ヘーゲルとマルクスの言う「概念的理解」とは、現在(思考する主体の立っている時点。従って木村氏の言うように幅はいろいろである)から出発して、主体的な立場から過去を反省し、その過去の論理的再構成の結果として捉え直された現在の論理に従って未来へ向かう、というものである。

 こういう時間論こそが本当の意味での内容を持ちうるのだと思う(詳しくは拙稿「『パンテオンの人人』の論理」(『生活のなかの哲学』鶏鳴出版に所収)を参照)。

 逆に、参考の12に掲げた関口氏の言葉にもかかわらず、ハイデッガーの時間論からは人生の指針は出てこないと思う。関口氏自身、世の中をこうしようといった「思想」はもっていなかったと思う。

   参考

 01、時間は定存在する概念そのものである。(精神現象学38頁)

 02、空間は絶対的な自己外存在であり、それは又、端的に切れ目なきものであり、他者である。その他者は〔自己の〕他者であるが又、自己と同一なのである。時間は絶対的な自己外到来であり、1時点、今の産出である。しかし、それは直ちにこれらの無化であり、常に再びこの過ぎ去ることの無化である。かくして、この無〔非存在〕の自己産出は自己との単純な同等性、同一性である。(大論理学第1巻182頁)

 03、潜在的にはどの時点も過去と未来の関係である。(大論理学第1巻233頁)

 04、自然が抽象的には相互に外的であることを現すものは、潜在的には空間であるが、顕在的には時間である。(法の哲学第10節への注釈)

 05、時間は感性的なものにおける否定的なものである。観念は時間と同様、否定性であるが、最も内的な形式、無限の形式そのものであって、従って全ての存在しているものは一般に観念へと解消されるし、さしあたっては、有限な存在、規定された形態がそこへと解消される。(歴史における理性178頁)

 06、運動の量的存在が時間であるように、労働の量的存在は労働時間である。(マルエン全集第13巻17頁)

 07、あらゆる存在の根本形式は時間と空間であって、時間外の存在などというものは、区間外の存在というようなものと同様に、甚だしい無意味である。(マルエン全集第20巻48頁)

 08、時間は変化とは異なったもの、変化から独立したものである。だからこそ、時間を変化によって計ることが出来るのである。なぜなら、計るためにはその計られるべきものとは異なった或るものが必要だからである。(マルエン全集第20巻49頁)

 09、時間的にも空間的にも世界は無限である。(マルエン全集第20巻46、327頁)
 感想・「無限」ということを直線がどこまでも続くように考えると分からなくなると思います。有限だとすると、限界づける他者が必要になりますから、世界(物質)が有限だとすると、物質でない何か(精神)が必要になり、その精神は物質を限界づけるのですから、物質的なものになります。

 10、運動の本質は、時間と空間との統一だということである。運動には空間も時間も属している。速度、即ち運動の定量とは一定の時間即ち経過した時間との比率でみた空間のことである。(エンゲルス『自然弁証法』。これはヘーゲルの『哲学の百科事典』の第261節への付録〔自然哲学に属する〕に基づいて書いたものである)

 11、Heidegger の考えの筋道はこうである。吾人の生存意識とはどういう現象であるかというに、それは、意識という現象そのものが、既に本来の吾人を去って、何者か(世の中= Welt) の手に帰し且つ堕してしまっていることを意味する(これが Verfallen帰堕)。同じ現象を Verlorensein in die Oeffentlichkeit des Man, 又は Aufgehen im Miteinan- dersein 等とも言っている。

 換言すれば、本来の自己の中へと見返ったり反省したり、自己そのものの存在に気がついたりするのは、ずっとずっと進歩した上での現象であって、吾人はまず外界にすっかり気を奪われた状態から人生を始め(中略)且つ大抵の場合はそのままで一生を通す。これは決して「俗人」だけのことではない。みんながそうである。というよりはむしろ、それが吾人の意識(=da )の第一義なのである。そして、そもそもの最初から暴力的に背後に見捨てのけられたままでいる本来の自己なるものが、自分に背を向けて前方にのしかかっている第二義的世間的自己、即ち意識(da)を自分の方へ引っ張り戻そうとする運動--これが良心、体験、歴史、時間、運命、その他の名を以て呼ばれる諸種の「内圧力」(「内紛」と言ってもよかろう)であって、この圧迫力が普通「時間」という名で呼ばれている既知の現象の本体である。(関口存男『ハイデッゲルと新時代の局面』)

 12、ハイデッゲルは時の本質を Zeitlichkeit(時性)と呼んでいる。(略)時間が客観的存在でないことは既にカントによって証明されたが、ハイデッゲルは尚一歩を進めて、時間そのものが吾人自身の本質なのだと説く。歴史、局面、行きがかり、体験、生きていること、感じ、意識、そういったような全ての人間的本質の根底を Zeitlichkeit と呼んでいる。(関口存男『ハイデッゲルと新時代の局面』)

 13、政治的傾向に属する哲学者達に言わせると、ハイデッゲルとか「人間学派」なんてものは、要するに中世紀、または18世紀への逆転であって、時代を超越していわゆる永遠の真理なんてものの夢を追っている人たちにすぎないということになる。ところが、それらの人々の側から云うと、時代に即しているのが必ずしも時代を真に尊重する所以ではない。時代的ものと超時代的なものとの間には何らかの密接な関係がなくてはならぬ。ハイデッゲルは現に「人間意識一般」、又は「存在学」なるものの研究によって、そもそも「時代的」なるものの根本現象に到達している。

 Zeitlichkeit なぞという、「内容」を抜いた形式ばかりが揃っては駄目だという人があるかもしれないが(略)そういう人達自身の奉ずるある種の概念だって、よく反省してみれば、形式でないものは一つもないはずだ。時代に即する、時代に即する、と言ったって、「壁に即する」つもりでイモリのように壁にくっついたのじゃ、第一壁が見えない。また、即する、即する、と言っている当人が、決してそんな事はしていない。それと反対に、永遠の真理を追う人々だって、決して時代を見ないわけではない。

 要するに、こうした「形式」的なところに論点を置いて批評し合うのは最も馬鹿馬鹿しいんで、それよりも、ハイデッゲルならハイデッゲルについて論ずるときには、例えば、マア「一般に人間なるもの」(今日まではそれが永遠的とか何とか言われていた)から発して「時代」という具体物の真底にまで話が進められているのだから、それが何処まで深い考えであるかを感ずれば、それで好いのである。(関口存男『ハイデッゲルと新時代の局面』)

 14、事態ということを言うから、ちょっともじって時態という語を作ってもよかろうと思った次第である。時態は事態の一種である。というよりはむしろ事態が時態の一種なのかもしれない(無冠詞 410頁)。
 Morgen ist's Feiertag (明日は祝日だ)の祝日とか Heute ist Weihnacht(今日はクリスマスだ)のクリスマスは「時を指す名」であると同時に、また時と結びついた人生の「行事」である。Es ist gerade Ebbe(ちょうど干潮時だ)の干潮は「時」と言うよりはむしろ「異変」である。ただし、その行事、その異変が「時態」として挙げられるというところがこれらの文型の特徴であると同時に、また掲称的語局の無冠詞が心理的に根拠づけられる所以なのである(無冠詞 415頁)。

 感想・ハイデガーの「存在と時間」はこういう考え方なのであろう。フォイエルバッハは「理性的な人間とは、場所をわきまえる人間である」といったことを述べている。

 15、運動とは「何かから何かへの」移行である。それは或る場所から他の場所への移動であってもよいし、或る性質から別の性質への変化であってもよい。この「~から~へ」という一般的性格を持つ運動ないし変化の構造を、ハイデッガーは「拡がり」(Dimension )と呼ぶ。(略)われわれが「いま」と言うとき、それはつねに「いまはもう~でない」および「いまはまだ~でない」の両方向に向かって開かれている。このことは、時間において数えられる運動や変化が「~から~へ」という拡がりの性格をもっていることと同じである。(略)

 われわれは日常、「いま」という言葉で秒単位の短い持続を表現することもあるし、時間単位の長い期間を表現することもある。このようなことが可能なのは、「いま」それ自身が「拡がり」であるからにほかならない。(略)「いま」の伸び幅は、着目の仕方でどのようにも変えられる。(略)我々にとって時間とはいつも「何かをするための時間」である。われわれが「いま」と言うとき、それはいつも「いまはこれこれをするときだ」、「いまはまだいついつまで時間がある」などの意味での「いま」である。このような「いま」は何か或るものではない。それはむしろ、そのつどの私自身のことである。(略)同じことが、「いま」の別様のあり方としての「かつては」とは「こんどは」などについても言える。それらはすべて、現存在が自分自身のことを言い表すさまざまな言い回しにほかならない。(木村敏『時間と自己』。ハイデッガーの『現象学の根本的諸問題』の解釈として述べている)

 16、離人症の体験においては、「いま」が「以前」と「以後」への拡がりを失い、「~から~へ」の性格を失うのにともなって、そのような「いま」は私自身であることをもやめてしまう。「いま」が「いま」として成立しないところでは私も私として成り立たず、逆に言って私が私たりえないところでは「いま」も「いま」であることができない。そしてそのような「私」の不成立は、時間というものを(あるいは時間という事を)根本から不可能にしてしまう。(木村敏『時間と自己』)

 17、「いま」が以前と以後への両方向に向かって拡がっているということは、それが未来と過去とをそれ自身から生み出す根源という意味で未来と過去との「あいだ」であるということを意味する。未来と過去がまずあって、そしてその両者の「あいだ」に「いま」
が位置しているというのではない。「いま」はそれ自身が「あいだ」というあり方を示すのであって、それが「あいだ」であるからこそ、その両方向に未来と過去が考えられるのである。「あいだ」としての「いま」は、それがそれ自身のうちから未来と過去を析出することによってのみ時間性をおびる。(木村敏『時間と自己』)

 18、真木悠介氏は、原始共同体の無限反復的な時間から、ヘブライズムにおける線分的な(つまり始めと終わりのある)時間とヘレニズムにおける円環的な時間という二つの回路を経て、近代社会における計量的な直線的時間へと収斂する時間観念の変遷を、「自然からの人間の自立と疎外、それによる自然との『生きられる共時性』の解体」と、「共同態からの個の自立と疎外、それによる共同態の『生きられる共時性』の解体」との二つの契機を軸にして明快に解釈している(『時間の比較社会学』、岩波書店)。(木村敏『時間と自己』)

 19、原始人も近代人も、ともにこの現実の世界が、くりかえすものと一回的なもの、可逆的なものと不可逆的なもの、恒常的なものとうつりゆくものとの両方から成ることを知っている。つまり当然、両者はおなじ外界の世界をみている。けれどもそこから、両者はまったく異なった「世界」 の像をつくる。原始人にとって意味があるのは、くりかえすもの、可逆的なもの、恒常的なものであり、一回的なもの、不可逆的なもの、うつりゆくものはその素材にすぎない。近代人にとっては逆に、くケかえすもの、可逆的なものの方が背景となる枠組みをなして、この地の上に、一回的なもの、不可逆的なものとしての人生と歴史が展開する。ゲシュタルト心理学における「反転図形」のように、一方の地が他方の図となり、一方の図が他方の地となる。一方において主題的なもの、前景として措定されるものが、他方においては非主題的なもの、背景として非措定される。赤色フィルターと緑色フィルターをとおしてみられた世界のように、おなじ対象世界から、異なった様相が意識にとらえられ、全く異なった「世界」が描かれる。

 時間的なもの、一回的なものは相対的に「とるに足らない」ものとする感覚にとって、自分自身とは、そして人間とは何であろうか。近代人がなによりも大切なものと考えているこの「私」の一回かぎりの生と、目付けをもった人間の歴史とは何であろうか。それらはそこでは、永遠的なもののたち現われる場としてこそ意味をもつのだ。

 20、生活の基本的なサイクルを異にしている共同体との交渉が日常化するときにはじめて、あるいは共同体自体が風化して、生活のサイクルを異にしている諸集団や諸個人の対峙してているシステムとなったときにはじめて、狩猟や雨期や収穫といった具象的な事物や活動から「時間」が剥離して抽象化される。すなわち「時間」が、具体的な事象にたいして外在する客観的な尺度として物象化される。

 異質の生活世界のあいだの共通の照合点として、時間の「数字的な目付け」ははじめて要請される。のちにみるように古代から近代にかけて、ある地域や民族の政治的統一が暦の統一を、すなわち共通時間の制定を要請するのはこのためである。(真木悠介「時間の比較社会学」岩波現代文庫86頁)

 感想・貨幣の発生するのも共同体同士の接触する所だったと思います。「時は金なり」と言うように、時間と貨幣には本質的な共通点があるようです。

 21、時刻の測定と周知とは暦制の整備および年代記の編纂とともに、抽象化された普遍性としての時間のシステムの制定として、律令制国家の確立の過程と表裏をなしている。それは同時に、近江京、藤原京、平城京とつづく、自生的な共同体から抽象された都城の空間の合理的な設営とも照応している。

 国家と時間のこの密接な照応は、二つの理論的な主題の交錯するところにおいてとらえられなければならない。

 ひとつはいわば、縦深的に、原始共同体内部におけるその初発の形態以来、現代にいたる、権力と時間のかかわり一般の文脈において。そしてひとつは、いわば横断的に、他ならぬ律令国家が、時刻から編年史にいたるそれぞれのオーダーにおける客観化された時間のシステムを必須のものとした、時代の構造の文脈において。(略)

 このころ天皇を指すものとなった「びじり」は「日・じり」の複合とみられているが、「しる」とは古語においてたんに知ることであるのみならず「領(し)る」、支配するという意味であった。つまり、ひじりとは「時を支配する者」、時を司る者である。(略)

 けれども国家は、事実としてもはやひとつの(生きられる時空)を共有する共同体でなく、それらの並存する複数性のうえにそびえたつ機構であるから、その共時性は、生活世界に即自的に内在する自然としてでなく、生活世界に外在する人為として制定されねばならない。われわれがここで主として着目したい第二の文脈、すなわち、権力と時間のかかわり一般の問題とは区別されたこの段階の独自の時間形態論は、この点にかかわっている。(真木悠介「時間の比較社会学」岩波現代文庫126-9頁)

 ② 和独

 01、時間との戦い、der Wettkampf gegen die Zeit