マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

換称代名詞

2006年12月23日 | カ行
 日本語では同じ名詞、特に名前を繰り返すのをいやがらないようです。人を指す場合に「彼」とか「彼女」と言う方がむしろ少ないと思います。

  1, このとし、子規は「日本」に「芭蕉雑談」を連載しはじめた。(略)芭蕉といえば俳諧の神のようなものであり、たまたまこの明治二十六年には芭蕉の二百年忌にあたり、全国の崇敬者たちのあいだでさまざまな催しがおこなわれた。子規のこの「芭蕉雑談」はそういうさなかに出て、芭蕉の句といえばそれだけで神聖とし、ことごとく名品とみるこの道の傾向に冷水をあびせた。
 (司馬遼太郎「坂の上の雲」文春文庫)

ここで「子規のこの『芭蕉雑談』」と繰り返していますが、欧米語だったら同じ言葉は使わなかったでしょう。最低でも、「子規のこの評論」と言ったと思います。又、芭蕉の名もそのまま繰り返しています。

 日本語ではそっくり同じ名詞を繰り返すのが主流と言ってよいと思います。

 しかし、欧米の言葉では人称代名詞が頻繁に使われます。そのため、同じ単語を使うと単調になるので、それを嫌って「換称代名詞」が使われることが多くなります。

 日本語でもこんな表現があります。

  2, 武満〔徹〕さんが、テレビの画面と一緒に「六甲おろし」を大声で歌っていたのにはタマゲタ。あの下らない応援歌に、偉大な武満さんが声を嗄(か)らしていたのだ。
 (2003,08,19, 朝日、岩城宏之)

 この文の「あの下らない応援歌」は「六甲おろし」の換称代名詞です。

 日本語ではこのように「あの」とか「この」とかが付くことが多いです。ドイツ語では必ず定冠詞が付きます。

  3, 手塚律蔵のような男が、無数に出現しつつあった時代といっていい。この英学専攻者の祖ともいうべき男は、ペリーの来航前に、かれの能力を買う藩があらわれた。佐倉藩である。
 (司馬遼太郎『胡蝶の夢』新潮文庫)

 ここで「この英学専攻者の祖ともいうべき男」は「手塚律蔵」の換称代名詞です。

 このように換称代名詞を使うと、単に人称代名詞の繰り返しを避けるだけでなく、対象についての形容や評価を加えることが出来て、叙述を膨らませることができるというメリットがあります。そこが単なる人称代名詞との違いです。

4, 25万人を率いたこの行進で、キング牧師は「I have a dream」で知られる演説をした。この夏、多くの米メディアが歴史的なスピーチを援用し、「夢は実現したか?」といったテーマで当時と今の黒人の生活や社会的地位の変化を検証した。
  (2003,09,01, 朝日。福島申二)

 ここでは「歴史的なスピーチ」がその演説の換称代名詞ですが、「この」も「あの」も付いていません。

 日本語では指示詞は必ずしも必要ないようです。

5, 季節はずれの白いパラソルをさして、二人の娘がこっちへそろそろと歩いてきた。(略)「話しかけようか」小菅は~葉蔵の顔を覗きこんだ。(略)「よせよせ」飛騨は、きびしい顔をして小菅の肩をおさえた。パラソルは立ち止まった。しばらく何か話し合っていたが、それからくるっとこっちへ背をむけて、またしずかに歩きだした。
 (太宰治「道化の華」)

 この文の「パラソルは立ち止まった」の「パラソル」(多分、内容上は複数)は換称代名詞でしょうか。違うと思います。比喩の一種だと思います。

 アメリカ政府のことを「ワシントン」と言うのと同じですが、固定していないので、その場限りの「換喩」と言えるでしょう。
コメント
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