新126♦️♦️95『自然と人間の歴史・世界篇』ローマ帝国の分裂と衰退

2021-08-04 10:19:01 | Weblog

新126♦️♦️95『自然と人間の歴史・世界篇』ローマ帝国の分裂と衰退


 293年、ディオクレティアヌス帝が、それまでの広大無辺なローマ帝国を4分割する。300年、ローマ帝国の影響下にある古代ギリシアにおいて、ギリシアの神々への信仰が禁止され、人々はキリスト教に改宗となってゆく。

 313年、ミラノ勅令で、ローマがキリスト教を公認する。330年、コンスタンティヌス帝が、都をコンスタンティノープルに移す。391年、テオドシウス帝が、キリスト教を国教にすえる。

 なお、ローマ帝国の治世は、ディオクレティアヌス帝が帝国を東西に分けて、それぞれに正帝と副帝を立てて以降、途中でコンスタンティヌス帝やテオドシウス帝(在位は379~395)が東西を統一し単独皇帝となっていた時期を除くと、殆どの期間は西と東に皇帝がいる状態となってきていた。

 376年には、大きな試練がやって来る。西に向かって大移動してくるフン族の圧力から逃れようと、ゲルマン人の一派である西ゴート族が、フリティゲルンに率いられドナウ川を渡ってヨーロッパに侵入してくる。
 アラン族など他のゲルマン人も合流していく。これに始まる波状的な動きを「ゲルマン民族の大移動」と呼ぶ。

 378年8月には、ファレンス(東の正帝)の率いる東ローマ部隊はアドリアノープの近郊にさしかかっていた。ティアヌス(西の副帝)に率いられた西ローマ軍も、援助のため東進してきていた。

 そんなおり、かれらは西ゴートの軍隊と遭遇し、迎え撃ったものの敗れ、ウァレンスは戦死した。これを「アドリアノープルの戦い」という。これにより、トラキア地方(バルカン半島東部)はゴート族の支配領域になる。
 これ以後のギリシアは、東ローマ帝国の辺境の地位に甘んじることになっていく。393年、それまでギリシア人の心を結びつける絆の一つであったオリュンピア競技は、ローマ帝国皇帝のテオドシウスによって廃止された。

 東ローマについては、首都コンスタンティヌポリス(現在のイスタンブール)の古名にちなんでビザンチン帝国と呼ばれ、広い意味でのギリシア世界の後継者となっていく。

 395年、テオドシウス帝が亡くなると、ローマ帝国そのものが東西に分裂する。東の方は18歳の長子アンカディウス、西の方は11歳の二男ホノリウスが帝位を継ぐ。

 それからは、かねてからの辺境の反乱、暴動が増していく。テオドシウス帝の時代からの、力で宗教上の「異端」や辺境の人々を弾圧してきたことが、それらを過激なものとしていた。

 そのうちの398年には、それまでのゴート族の部族間の対立を超えてのアラリックの登場により、彼の下に結集したゴート族の軍がアルプスを越え、ポー川を渡り、ローマに迫る。その12の城門を固め、ティベレ川を封鎖する。

 402年には、西ローマ帝国のホノリウス帝は、首都をローマからラヴェンナに移した。

 410年には、ローマはアラリックの率いる西ゴート族に略奪され、多くのローマ市民が殺され、神殿などが徹底して破壊される。455年にはヴァンダル王ガイセリックがこの地を占拠する。

 529~533年になると、「ローマ法大全」が編纂される。797年、初の女帝エイレーネが即位する。フランク王のカールが、西ローマ帝国の皇帝になる。

 参考までに、それから数百年後の姿に敷衍(ふえん)するならば、1204年、十字軍によりコンスタンティノープルが占領され、東ローマ帝国が滅亡する。1261年、コンスタンティノープルが奪回され、東ローマ帝国が復活する。1453年、オスマン帝国に敗北を喫し、ローマ帝国という名のかぶせられている国のすべてが滅亡するに至る。

(続く)

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