◻️252『岡山の今昔』岡山人(20世紀、尾上松之助)  

2019-06-07 21:37:02 | Weblog

252『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、尾上松之助)

 尾上松之助(おのえまつのすけ、1875~1921)は、「日本映画最初のスター」とも言われる。岡山市中区中島町の生まれ。本名は、中村鶴三。

 尋常小学校(現在の旭東小学校)を出て、上野町の呉服屋に働くが、たまたま子役で芝居の子役で出演、のめりこんでいく。1904年(明治37年)には、改名を果たす。最初は、歌舞伎俳優の頭であったらしい。

 そんな彼は、1907年(明治40年)、京都の活動写真製作者の牧野省三監督に見出され、映画俳優を志す。1909年「碁盤忠信」で映画界入り。以来 、多くの剣劇映画に出演する。

 1912年(大正元年)には、日本活動写真株式会社(日活)が設立され、それまで所属の横田商会が吸収され、そちらに俳優として移る。

 その演じる姿が、どこか愛らしい。愛称「目玉の松ちゃん」でファンの人気を得ていく。日本映画初の「大スター」というには、諸説あろうが、一時代を築いた。

 出演作品は「自来也」 (1916) 、「落花の舞」 (1925) 、「荒木又右衛門」 (1925) など、千本を下らないようだ。時代は、その間に大きくうつろいゆくのだが、尾上はその現代への橋渡し役を爽やかに演じきったのではあるまいか。

(続く)

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◻️253『岡山の今昔』岡山人(20世紀、重森三玲)

2019-06-07 20:34:48 | Weblog

253『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、重森三玲)

 重森三玲(しげもりみれい、1896~1975)は、上房郡吉川村(現在の加賀郡吉備中央町)の生まれ。築庭などを生業とする父の下で、幼い頃から目が養われていったらしい。

 1914年(大正3年)には、その三玲の設計、父施工の茶室を自宅横に完成させる。翌年には、東京へ出て、日本美術学校に入学する。専攻したのは、日本画。

 1922年(大正11年)には、「文化大学院」を創立する。また、通信教育講座としての「現代文化思潮講義録」の刊行を果たす。だが、翌年の関東大震災で閉鎖を余儀なくされる。1925年(大正14年)には、自宅の庭園を改作し、絶賛される。この年、戸籍名を、計夫から画家ミレーにちなんだ三玲に改める。

 1929年(昭和4年)には、京都に移り、日本庭園の研究団体「京都林泉協会」を仲間とともにたち上げる。その翌年には、「日本新興いけはな協会」設立を唱える。抜群の行動力で、周囲を驚かせる。

 1936年(昭和11年)には、全国の庭園の実測調査を始める。胸を踊らせてであろうか、ハイスピードで取り組み、1939年(昭和14年)には、その成果を「日本庭園史図鑑」として刊行に至る。

 それらのかたわら、作庭を進めていく。43歳の時の東福寺方丈庭園や岸和田城庭園、大徳寺庭園など、大掛かりな築造に精をだす。ほかにも、漢陽寺庭園(周南市)、ちそう菰野(横山家庭園)(三重県菰野町)、龍吟庵(京都市東山区)、常栄寺 雪舟庭(山口市)、重森三玲庭園美術館、 無字庵庭園(京都市左京区)など、多数。いかにも、その場に臨む自分と自然が一体となり動いているかのような躍動感が伝わってくる。

(続く)

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254◻️『岡山の今昔』岡山人(20世紀、人見絹枝)

2019-06-07 09:24:19 | Weblog

254『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、人見絹枝)

 人見絹枝(ひとみきぬえ、1907~1931)は、御津郡福浜村(現在の岡山市南区福成り)の生まれ。農家の次女として、幼い頃から、元気な上、利発であったという。

 福浜尋常小学校、岡山高等女学校(現在の岡山操山高校)へとすすむ。体育面では、テニス選手であったのだが、教師の勧めで県の走り幅跳び女子体育大会に出場したところ、優勝する。その後、東京の二階堂体操塾(現在の日本女子体育大学)へすすみ、その第3期生としての学生生活のなかで、ある出会いがある。陸上競技を始めたのだ。

 果たして、天性の才能というべきだろうか、めきめきと頭角を表していく。その後、京都で体育教師となっていたが、大阪毎日新聞の記者として勤務するようになり、そのかたわら、陸上競技にも精をだす。我が国初の女性スポーツ記者だ。

 そして迎えた1926年(大正15年)には、日本代表として、初の海外遠征となる国際大会の走り幅跳びで優勝する。総合成績では、5位であった。

 続く1928年(昭和3年)には、日本女性初のオリンピック第9回・アムステルダム大会)出場を果たす。陸上競技女子800メートルで、他の選手と「死の激走」を演じる。銀メダルを獲得する。日本女性初のオリンピックメダリストとなる。

 1930年(昭和5年)には、第3回万国女子オリンピックにおいて、走幅跳びで世界記録を樹立して優勝する。個人総合得点では、第2位となる。なにしろ、「太ももを露にして女が走る」と罵られた時代のことだ。偏見と戦いながら、日本女性の存在を世界に示した最初の女性であり、まさに金字塔である。

 人見は、「努める者はいつか恵まれる」という人生観でも卓越していたが、その24歳の激動の人生ながら、類い稀なひたむきさで、日本のスポーツ界を興隆へと導いた。

(続く)

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