♦️532『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のヨーロッパの出発(バルト三国・エストニア)

2017-12-01 22:03:16 | Weblog

532『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のヨーロッパの出発(バルト三国・エストニア)

 現在、北極に程近いため、冬は凍てつくであろうバルト海の東岸(その対岸にはスウェーデン)、フィンランドの南に南北に並ぶ3つの国があり、これらを総称して「バルト三国」と呼ぶ。北から順に、エストニア、ラトビア、リトアニアである。いずれも小国に違いないが、3か国ともに、NATO(北大西洋条約機構)およびEU(欧州連合)の加盟国、通貨もユーロを導入していて、今では欧州の一員となっている。この三国はまた、欧州の自由往来を定めるシェンゲン協定に加盟国している。
 これらのうち一番北に位置するエストニアは、南東部に位置する最高地点「スール・ムナマギ」(大きな卵の意味)の標高が317メートルであって、概ね低地が広がる。この地には、紀元前8000年頃に既に一先住民がいたという。紀元前3000年頃になると、フィン・ウゴル族が移住してくる。 それからというもの、先住民との混血が進んでいく。彼らは、漁業や陸上での狩り、それに農業、さらに養蜂業などで生計を立てていく。
 991年には、独立の意識が高まる。そんな中でも、13世紀初頭にドイツとデンマークから十字軍がやってくる。1219年に、当時レヴァルと呼ばれていた現在のエストニアの首都であるタリンは、デンマーク軍の支配下に置かれる。この都市の名だが、「デンマーク人の城塞」に由来する。エストニアの地の人びとに対し、ドイツ騎士団などによるキリスト教教化があった。1248年に、タリンはハンザ同盟の一員としての特権にあづかることになる。今は往時の面影をいろ濃く残す旧市街は、「タリン歴史地区」としてユネスコの世界遺産に登録されている。
 14世紀になると、ハンザ同盟の商業圏に組み入れられ、各地に教会や要塞が建設される。1441年に、現在のタリン旧市街の下町の中心ラエコヤ広場に飾られたクリスマスツリーが、世界最古のものと伝わる。1558年からのエストニアは、デンマーク、スウェーデン、ロシア、そしてポーランドの領土争いの舞台となる。1629年、スウェーデンがこの戦いに勝利し、同国の領有となる。文化面では、1632年にエストニアで最初の大学が置かれ、エストニア語の教育に力が注がれる。
 1700年から21年間続いた「大北方戦争」を経て、エストニアの地はロシア(ピョートル大帝)領に組み入れられる。そんな中でも、ドイツ貴族は領地支配を続け、タリンはハンザ同盟の都市として自治を保持する。19世紀には、ようやく民族意識が高まる。国立劇場「エストニア」が建設されたのも、この時期だ。1918年2月、ロシア革命に乗じる形で、エストニアは共和国として独立を宣言する。「エストニア自由戦争」後の1920年2月には、ソビエト・ロシアとの間で平和条約を結ぶ。1939年の独ソ不可侵条約の秘密議定書により、エストニアはソ連邦に組み入れられてしまう。エスとリアの人びとにとって、大いなる驚きであったろう。それまで約20年間続いた共和国時代が閉ざされ、1940年からは社会主義のソ連邦の一員(ソ連邦による領有)として繋がっていく。
 1991年8月20、エストニア最高会議が独立回復に関する決定を採択する。1991年9月6日には、ソ連国家評議会がバルト三共和国の国家独立に関する決定を採択する。2004年3月には、NATO(北大西洋条約機構)の加盟国となる。2004年5月には、EU(欧州共同体)への加盟、続く2010年12月には、OECD(経済協力開発機構)に加盟を果たす。2011年1月には、ユーロを導入する。

(続く)

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