♦️31『自然と人間の歴史・世界篇』現生人類へ(20万~5万年前、ホモ・サピエンスの1回目の出アフリカ)

2017-11-11 22:58:08 | Weblog

31『自然と人間の歴史・世界篇』現生人類へ(20万~5万年前、ホモ・サピエンスの1回目の出アフリカ)

 さらに時代は下って、20万年前から13万年前までが氷期であった。およそ20万年前、私たち人類の祖先、つまり私たちに直接繋がるホモ・サピエンスが地球上に現れる。その数は、始まりは精々数千人程度ではなかったか、とも言われる。具体名でいうと、ハイデルベルク人の本流の系統からホモ・サピエンス(現生人類)が登場するに至る。そして人類、すなわち、「ほ乳類霊長目(サル目)ヒト科」のヒト(ホモ)属の中で、現在まで生き残っているのは、私たちホモ・サピエンスだけなのである。エレクトスの約165万年と比べたこの種の存在期間は、たかだか9分の1程度に過ぎない。
 長い間、ホモ・サピエンスに先行する人類種は、系統樹のように連なっていると考えられてきた。しかし、今日ではホモ・サピエンスとは異なる流れであると考えられている。彼らが、早ければ約15万年から10万年前に第一次が、そして約6万年~5万年前に第二次ということで、アフリカまたはその近辺からアジア方面への長い旅に出発したのではないか、と推定されるまでになっている。そうはいっても、専門家が一致しての結論が出るのは、まだ遙かに先の話なのかもしれない。いずれにしても、今後も飽くなき探求が続いていくのであろう。誠に、「大いなる旅」(グレイトジャーニイ)というか、それはそれは文字通り「血湧き、肉躍る」ような、人類を、人類たらしめる偉大な旅の始まりであった、と言える。

(続く)

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♦️30『自然と人間の歴史・世界篇』人類種の交配の可能性(35~20万年前)

2017-11-11 22:56:36 | Weblog

30『自然と人間の歴史・世界篇』人類種の交配の可能性(35~20万年前)

 次に話題になるのが、進化がさらに進んで、かれらが枝分かれしながら延々と進化を遂げてきたものなのか、また、かれらのそれぞれの生きていた年代と地域分布が重なることはなかったのであろうか。1970年代からの発掘により、人類段階説は覆され、「アフリカで猿人と原人とが同時代に同じ場所にいたことを示す発掘」(朝日新聞、2015年7月4日付け)があった。これらから、「原人」というのも一系統による進化なのではなく、地域の広がりをもった多系統に及んでいたと考えるのが、有力になっていく。というのも、彼らのそれぞれは単一の系統で伝わってきたと考えるだけの証拠はない。しかも、いきなりにして、その成人体重50キロから100キログラムにして平均で1400ミリリットルもの脳容積を持つ、「新人」(「ホモ・サピエンス」)になったというのは、非現実的な気がしないでもない。
 およそ3万~4万年前には、ネアンデルタール(原)人が絶滅したともいわれる。ここで、彼らの遺伝学的得失に触れておくと、近年、ある解析結果の発表があった。これは、福岡伸一氏によりこう紹介されている(ただし、その評価を巡っては各説あるので、断定的でない)。
 「学者たちは、ネアンデルタール人をヒトよりも前段階にあるヒトの祖先、旧人だとみなし、現世人類はネアンデルタール人が進化したものだと考えました。ところがごく最近、この人類学の「常識」が大きく覆されることになったのです。ドイツの若い研究者たちによって、ネアンデルタール人再検討の機運が高まりました。
 おりしも、DNA技術が発展し、時間が経過したサンプルでも、ごく少量あればDNAを増幅し、解析することが可能となりました。エジプトのミイラのDNAが解析され、王の系譜が明らかにされました。この方法をネアンデルタール人の化石にも応用しようというのです。(中略)DNAの解析結果は驚くべきものでした。ネアンデルタール人と現代のヒトのDNAの違いから、両者は平行して進化してきた異なる種であることが判明したのです。」(福岡伸一「生命の逆襲」朝日新聞出版、2013より引用)
 もう一つ、ユーラシア現代人の核DNAにネアンデルタール人の血が受け継がれている、との研究発表も為されている。河合信和氏は、こう紹介しておられる。
 「しかし10年、ヴィンディヤ・ネアンデルタール人の長大な核DNAが解読されるに及んで、これまでの定説と異なり、両者の間にわずかに交雑があったらしいことが明らかになった。リチャード・グリーン、クラウゼ、マックス・プランク進化人類学研究所を中心とした国際的研究チームが、ネアンデルタールの染色体ゲノムを解読した結果を『サイエンス』10年5月7日号で報告したものだ。」(河合信和「ヒトの進化七〇〇万年史」ちくま新書、2010)
 ともあれ、2016年7月現在においては、これらから、「ネアンデルタール人とホモサピエンスとは、ともにホモ・エレクトゥスから枝別れした別の系統とする説が有力です」(雑誌『Newton(ニュートン)』2010年12月号』の特集「宇宙にまで進出した知的生命体、ホモサピエンス、圧倒的なヒトの頭脳。その仕組みは?」)と言われている。
 それらに加えて、なぜ人類の親戚であるネアンデルタール(原)人は3万~4万年前に地球上にいなくなったのかという疑問については、一説には、「絶滅のおもな原因は食糧難ではないかと考えている。それは、ネアンデルタール人は脂肪を利用して脳に栄養を与える生化学的経路がなかったので、生き抜けなかったかもしれないのだ。」(デイビッド・パール/クリスティン・ロバーグ著、白澤卓二訳『「いつものパンがあなたを殺す」』三笠書房、2015)と。また別の説によると、ネアンデルタール(原)人が、人類の直接の祖先であるホモ・サピエンスに比較して、高度な言葉をうまく操れなかったことが、彼らがこの地上から忽然と姿を消した大きな原因という説があって、これによると言語中枢の発達が、脳の中に外界との関わりを内部モデルとして取り込み、仲間同士で共有していくことが不得手であった、つまりかれらは社会性において劣っていたのでしないか、と結論付けられている。さらにもう一つ付け加えると、かれらは肉食を重んじなかったため、タンパク源を摂取することが乏しく、氷河期を生き延びることができなかったという説も提出されている。要するに、現在はまだ諸説がならび立って、互いに自己主張をしている段階であり、何が彼らの絶滅の決定要因かは、決着がついていないようである。

(続く)

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♦️29『自然と人間の歴史・世界篇』多様な人類種(35~20万年前)

2017-11-11 22:55:30 | Weblog

29『自然と人間の歴史・世界篇』多様な人類種(35~20万年前)

 顧みるに、今からおよそ180万年間前の新生代第四期となる。この頃、地球の気候は、およそ120万年前までが間氷期、それからおよそ80万年前までが氷期、それからおよそ50万年前までが間氷期、それからおよそ30万年間前までが間氷期、およそ30万年前からおよそ20万年までが間氷期であった。この間、人類ということでは、およそ35万年前になると、ネアンデルタール人(正式名称は「ホモ・ネアンデルターレンシス」とデニソワ人(旧人)とが、その前のハイデルベルク人の本流から分岐するにいたる。この二つのタイプは、ヒト属の中に入れられる。互いには、遺伝学的にそんなに離れておらず、「近縁種」であるとのこと。そして、この二つは、ホモ・エレクトゥスの時を遙かに超える規模でアフリカ大陸から出て、ユーラシア大陸のヨーロッパ、そしてアジアなどへと広がっていく。
 一説によれば、33万年前頃、彼ら人類の親戚たちは、アフリカの外に初めて出発した。アフリカから中東に出て、その先からは互いの中でも、ゆく道が分岐していくのであった。
 東の方角、アジアに向かったのが「デニソワ人」であり、西アジアや中央アジア、それからヨーロッパ方面に向かったのが、ホモ・ネアンデルターレンシス(通称は、ネアンデルタール(原)人)であったのではないか。彼らの生息域は、だんだんにひろがっていった。約4万9千年前のスペインの洞窟からもその痕跡が発見されている。そして彼らの多くは、数家族くらいか、それらを束ねての小集団になって動くなりして、彼らは、夜に日を継いでの苦しい暮らしを続けていたのかもしれない。
 ネアンデルタール人たちの暮らしについては、かなりのさころまでわかって来ている。彼らの多くは、洞窟などの自然の懐深くか、それらに寄り添って暮らしていたのではないか。彼らは、石を割ったり削ったりして斧や鏃(やじり)を使って、獲物を捕まえ、それを火とナイフを使って調理し、食していた。また、死を弔い、墓には花が添えられた。化石の調査から、彼らの骨格は、ホモ・サピエンスとそんなに変わらなかった。比較的小柄(いわゆる中肉中背)ながらも、彼ら原人たちは、私たちの祖先よりやや大柄であった。しかも、脳容量が1500立方センチとかなり大きかった。アジアで他の原人の足跡をたどると、約数十年前には「フローレス原人」、「デニソワ原人」、「中国の原人」、それから「アジアで4番目の原人」として注目を浴びている「澎湖原人(ほうこげんじん)」(台湾の地層から発見)もいて、実に多彩であった。
 これらの原人のうち、フローレンス原人は、伸長が1メートルばかりであって、既に火や石器を使っていたらしい。これにまつわる研究史については、2015年の新聞記事に、こんな説明書きがある。
 「インドネシアのフローレンス島で化石が見つかった身長1メートル程度の「フローレンス原人」が、現代人並みの身長のジャワ原人から進化したことを示す有力な証拠を見つけた、と国立科学博物館などのチームが発表した。
 孤立した島で、外敵がいないことなどから大型動物のサイズが劇的に小型化する現象が人類にも作用したと考えられる、という。
 米科学誌プロスワンに19日、論文を発表した。フローレンス原人の化石は2003年、約7万~2万年前の地層から発見された。身長や頭蓋骨のサイズが小型の猿人ほどしかないことから、初期の原人の特徴をそのまま引き継いだ子孫なのか、そこから一度大型化したジャワ原人が進化の過程で小さくなったのか、学説が対立していた。
 国立科博の海部陽介・人類史研究グループ長らは、フローレンス原人の歯の化石を詳細に分析。多様な化石人類や現代人と比較したところ、175万年前より新しい原人、中でもジャワ原人と特徴が似ていて、それより古い原人の特徴は認められないことが分かった。
 「歯は人類の系統進化を探る家で最重要の部位の一つ。ジャワ原人か、その仲間から進化した、という仮説を強く支持する結果だ」としている。(この記事には、吉田晋氏のネームが付されている)」(2015年11月20日付け朝日新聞)

(続く)

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♦️48『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(メソポタミア、紀元前2500年~、アッカド、バビロニア王朝時代の文化)

2017-11-11 21:37:40 | Weblog

48『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(メソポタミア、紀元前2500年~、アッカド、バビロニア王朝時代の文化)

 元々のメソポタミアでは、太陽神は必ずしも神の中の神ではなかったと言って良い。「メソポタミアでは月神崇拝に押され、太陽神はエジプトと異なって神々の主とはなれなかった」さらにこうある。「シュメルの伝承では太陽神ウトゥは月神ナンナ(アッカ度のシン)の息子でイナンナ女神の双子の兄弟である。」(訳者代表・杉勇『古代オリエント集』筑摩古典文学大系1、1978)とあるからだ。
 そうはいってもアッカド王朝の頃の『ギルガメシュ叙事詩』には、別の名の太陽神としてのシャマシュ神が登場する。
 「彼の涙は滝のように【流れ落ちた。】そしてギルガメシュは天なるシャマシュに【言った。】(八、九行欠落)「私は【天】なるシャマシュに【従って】来た。天なるシャマシュはギルガメシュの祈りを聴いた。そして力強い風がフンババに対して起こった。大なる風、北風、【南風、つむじ風、】嵐の風、凍てつく風、怒【濤】の風、熱風、八つの風が彼に対して起こった。【フンババの】眼に対して打ちあたった。彼は進むことができなかった。もどることもできなかった。こうしてフンババハは降参した。そこでフンババはギルガメシュにむかって言った。「ギルガメシュよ、私を行かせよ。お前はわが【主】となれ。私はお前の家来となる」(同著、149ページ)
ここに偉業を讃えられるギルガメシュ(シュメールの表記ではギシュ・ビル・ガ・メス)
とは、シュメール王名表に記載されている実在の名である。アッカド王朝時代の伝説的な王にして、シュメール王名表によれば、ウルク第1王朝第5代の王にあたる。その没後、早くに神話的人物となり、シュメールの断片的な神話物語が綴られていったのであろう。これをもとにしてアッカド語で編集されたのがこの叙事詩で、主として前8世紀ころにアッシリア語で書かれたニネベ版(約3600行のうち現存する約2000行が当該のものだとされる)により現代に伝わる。

(続く)

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♦️45『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(メソポタミア、アッカド王朝)

2017-11-11 21:34:48 | Weblog

45『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(メソポタミア、アッカド王朝)

 時代は、やがて続いてアッカド王朝(紀元前2334年頃~同2154年頃)に入っていく。この王朝の担い手としてのアッカド人(セム人の一派)の由来について、小川英雄氏は、こう述べる。
 「しかし、(メソポタミア)の中流域以北の住民は低地よりも複雑な様相を呈していた。そこにはスメル人よりも古い原住民の他に、山地からの移住民やセム人がいた。とりわけ、メソポタミアで諸都市の上に統一権力を置くのに成功したのは、セム人であった。彼らがどこから来たのかについては定説はない。」(小川英雄、前掲書)
このセム人については、現代に受け継がれているも民族名であって、「スメル人のようにただ一度現れて500年の間にすべてを終わったのとは異なり、全オリエントに、さまざまな時期に、様々な名称(アッカド、アッシリア、バビロニア、カナアン、アラム、ヘブライ、フェニキア、アラビア、エティオピア)の下に現れ、現代のアラブ人やユダヤ人にまで至った同一系統の存続の総称である」(同)ことに、留意されたい。
 ところで、この王朝下の紀元前2000年頃のものであろうか、出土した円筒印章の印影(ニップル出土粘土板にみえる印章象)に、当時の農業の様子が刻まれている。前掲書では、こう説明しておられる。
 「(中略)三人が条播作業に従事していた。一人の男が二頭のオス牛につながれた○(すき)をあやつり、べつの男が播種器をとおして穀物種子を地面の条溝に落としている。あと一人が突棒(ないし鞭)を手にして、役牛の前進、反転を監督していた。
 ニップル印影では、右手で種子を条播器にこぼしている男は、ある種の入れ物を首から下げていて、それに左手を添えている。二〇世紀初頭に印影が公刊されて以来、これは種子袋と説明されてきた。けれども私は、粘土板記録を解析することによって、これはアシ製の箱だと考えている。」(同著)

(続く)

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♦️44『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(メソポタミア、~紀元前2500年、シュメル文化)

2017-11-11 21:33:49 | Weblog

44『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(メソポタミア、~紀元前2500年、シュメル文化)

 この頃のメソポタミアになると、銅器、そして銅と錫(すず)を混合した青銅器が生まれ、シュメル人による絵文字と、その改良としての楔形(くさびがた)文字、月と太陽の周期をもとにした太陰太陽暦、金星と太陽の周期からの六十進記数法、のこぎり、ハンマ、船、日干し煉瓦などを発明した。
 わけても、文字の発見はその後の文明発展にとって画期的であった。楔(くさび)形文字は、粘土に刻まれた。古いものでは、現在のイラク南部で発見された「初期の書字板」があり、紀元前3100~前3000年頃のものとされる。大きさは9センチメートル×7センチメートルほどしかないものの、三段に渡り、ビールの配給にまつわる事柄(数量など)が刻まれている。ビールは、当時の人々の主要な飲料であった。それは、労働者に配給物資として渡されていた。これに記したのは役人であったと考えられている(詳しくは、ニール・マクレガー著・統合えりか訳「100のものが語る世界の歴史1、文明の誕生」筑摩書房、2012)。
 さらに驚くことには、学校制度があったのではないか(これを伝える文献としては、小林登志子「シュメルー人類最古の文明」中公新書、2005など)。これら一連のシュメル人たちのつくりあげた文化は、「ウルク文化」、さらに広くは「メソポタミア文明」そのものの代名詞として用いられる。これこそ人類最古のまとまった文明と見られるが、やはり最大の発見は、文字の発見であったろう。このことを中核にして、人々の生活全般に対するしっかりとした認識が生まれ育ち、広がっていったであろうことは、想像に難くない。

(続く)

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♦️43『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(メソポタミア、シュメル人の国家)

2017-11-11 21:32:39 | Weblog

43『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(メソポタミア、シュメル人の国家)

 そして、紀元前4000年頃に、今度はシュメル人(スメル人)たちの、この地域への進出が進む。しかし、このシュメル人たちは一帯どこからやってきたのか、かれらはどの系統の種族であったのかは、必ずしも明らかでない。それからの、シュメル人たちは、諸部族レベルの小国家からより大きな国家へと進もうとした。小川英雄氏の金光には、こうある。
 「スメル王名表のうち、洪水前の王たちについては、上述の通り、伝説的要素が濃いため確認することができない。しかし、最近の推定によれば、洪水前に記録された王朝のはじまりは前3000年頃で、それが約200年間続いた。そして、次に洪水が起こり、既存の諸都市と王朝の大部分に壊滅的な打撃を与えた。(中略)スメル王名表によると、大洪水ののち、王権は点からキッシュに下った。その後、約250年間は、東方のエラム人
との戦いばかりでなく、スメル人諸都市の対立抗争に費やされた。しかし、これらの都市国家のどれもが、全スメルの地に対する支配権を確立することは出来なかった。そのためにも、各々の国は社会組織を整備するひっように迫られていた。」(小川英雄「西洋史特殊Ⅰー古代オリエント史」慶応義塾大学通信教育教材、1972)
 では、こうした彼らの国づくりの土台になっていったであろうか。そんな中でも、生産力はどのようにして発展していったのだろうか。それを語るには、想像力を豊かにしなければならない。この地、この時での、人類の「重要な一歩ー狩猟採集から農耕へ」の模様を、ルース・ドフリース氏は、こう推測している。
 「初期人類は何世代にもわたって狩猟採集生活で木の実や果実、肉を得ていた。やがてあるとき、とある場所で、地球上にあらわれて間もないヒト科の人物が重大な一歩を踏み出した。チグリス川、ユーフラテス川、ヨルダン川の周囲の峡谷と丘陵を含む弧状の地域を「肥沃な三日月地帯」と呼ぶ。そのどこかで、食料を採集していた人物が手に入れた二種類の野草のタネが、のちに小麦となった。いまもシリア北部とトルコ南東部では、このときの草、ヒトツブ小麦とエンマー小麦が自生している。(中略)
 のちに、人間は動物を繁殖させて家畜化し、野生種よりも飼いやすい羊、ヤギ、豚、牛をつくりだした。家畜は人間から与えられる餌で育った。飼い主は世話をし、餌を与え、天敵の脅威から守る代わりに家畜の肉、乳、労働力を利用した。人間が動植物の自然選択の舵を握ったのである。祖先は自分たちに都合よく改良を重ね、動植物をそれぞれ栽培用・家畜用の品種に変えていった。これがけっきょく、人間をも変えることになる。狩猟採集していた人びとは農耕と家畜の世話に転じた。これが農業のはじまりである。」(ルース・ドフリース著・小川敏子訳「食糧と人類ー飢餓を克服した大増産の文明史」日本経済新聞社、2016)
 もちろん、人間はその粒のままでは、消化がうまくできない。そこで、石臼(いしうす)や棒などを使って粉に加工し、その固まりを焼いて食べることになったのであろう。こうして、文明はその発生の時から、パンとともにあったと考えるのが自然だろう。とはいえ、パンが主食だったといっても、社会の一角を占めていたはずの貧しい人々の食卓にまでパンが日常普段に上がっていたかどうかは、一階に言えまい。この点は、古代エジプト社会でのパンの扱われ方とは別の視点が必要なようだ。少なくとも、後にエジプト軍隊の海外遠征が相次ぐようになって、そこから連れ帰った人々を奴隷としてこき使うようになるまでは。
 そして地質年代表記で、「初期王朝の第3期」とされる、紀元前2500年頃からの時代に入っていく。その頃、シュメル都市国家の一つであるラガシュで、ウル・ナンシェが王朝を建てた。ここにラガシュとは、「ウル・ナンシェ以前の時代にギルス、ラガシュ、ニナ、そしておそらくニンマルの四独立都市が連合して生まれた都市国家の名前」(前川和也編著「図説メソポタミア文明」河出書房新社、2011)をいう。それからは、彼の子孫達5人、ついで彼らと血縁関係がないと目される3人の王が次々に王に立ち、王朝を引き継いでいく。小川英雄氏は、当時のシュメル人都市国家の構造を、こう解説する。
 「このようなスメル社会の初期王朝時代の末期における姿は、ラガッシュ王ウルカギナ(前2415~2400)の「改革文書」を見るとわかる。その頃までに重要な社会的欠陥が存在するに至った。運河は破損し、神殿領は過度に強大化して、役人は不当な利益を受け、神事が怠られていた。ウルカギナはこの沿い子の成文法を定めることによって、このような弊害を打破しようとした。彼はスメル全体の統一をも目指した。また、次に現れた王ルガルザギッシはラガッシュ、ウル、ラルサなども征服したが、元来都市国家単位のメル人の手によっては、メソポタミアの統一は達成されなかった。」(小川英雄、前掲書)
 加えるに、当時の社会は、厳しい身分制に置かれていたことがわかっている。奴隷とは、一概に自由を奪われた人びとをいう。これに至る事情には、およそ三つの類型があったと考えられている。一つは、債務を負えないことから奴隷となる者、二番目は犯罪に関わって奴隷にされる者、さらに戦争に負けたことでの奴隷などであった。これらのうち犯罪に関わる例として、ウル第三王朝時代(紀元前2112~2004年頃)だと考えられる判決文に、「漁師ウルメシュの妻ババ。その娘メメムおよびウルメシュの女奴隷メギグンナは、ウルメシュが強盗を働いたので、漁師シュルギルガル、ルガルイマフおよびルマグラに女奴隷として与えられた」と刻まれている。
 こうして一次隊を築いたシュメル国家なのだが、紀元前2000年頃には、シュメル人は忽然(こつぜん)と歴史の表舞台から消えてしまう。その原因は、異民族の侵入によるものだともいわれるものの、確かなところはまだ分かっていないようだ。

(続く)

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♦️42『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(メソポタミア、ウバイド人の社会)

2017-11-11 21:31:38 | Weblog

42『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(メソポタミア、ウバイド人の社会)

 時代はさらに下って、新石器時代から銅器時代へかけての文化が、おそらくは人類史上初めてここに始まった。1923~24年の南メソポタミアの、テル・アル・ウバイドでニンフルサグの神殿などの古代遺跡を発見する。ここにウバイドというのは、このアル・ウバイド遺跡で最初に発見された人類の痕跡として命名された。このウバイド遺跡の近くには、後のウルやウルクの遺跡もある。ウバイド遺跡からは、土器を焼いた窯が発掘されたほか、姿を形どった人物像も遺跡から数々出土している。このことをもって、彼らを「ウバイト人」と呼びたい。
 ウバイド人たちは、ハフラ文化を引継ぎ、また農地の拡大を求めて、チグリス・ユーフラシス川の下流の乾燥地帯に移動してきたのではないかと考えられている。彼らが使っていたものに、「彩紋土器」があり、濃い茶褐色の紋様があることで知られる。そればかりではない。彼らは、今日のトルクメニスタン南部・イラン北部地方の銅を採掘し、銅器や車輪や農具などに利用していたことが、最近までの発掘調査で分かってきている。その意味では、ウバイド人たちは後のメソポタミア文明の基礎を作った。その期間をウバイド期と呼び、紀元前5000年~3500年頃であったとされる。
 生活を支える生産力発展の観点からは、農耕(定住農耕生活)と牧畜(遊牧生活)との両方がこの地域に見られる。中でも特徴的なのが、この乾燥地帯において自生していた麦を発見したことであった。野生の麦の種類は、大麦、小麦、エンマー小麦であったのだろう。このあたりは広大無辺な砂漠地帯なのであるから、麦を拡大して収穫できるようにするためには、灌漑で水を引き入れることで肥沃な耕地としなければならない。
 さらにある。ウバイド人たちは、ウバイド文化中期の紀元前4800年頃~紀元前4500年頃に灌漑(かんがい)による農耕を考案した。灌漑というのは、水を採り入れるだけでなく、塩害を防ぐためには排水も可能にならないといけない。それからは大規模な集落ができるようになった。この農業面を中心とする生産性の発展は、より多くの民を養うことができるようになっていく。それまでの自然発生的な村落共同体や小規模な氏族共同体の集まりが次第に統合されていく機運が生まれてくるのは、必然というものであったのではないか。

(続く)

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