□72『岡山の今昔』高梁川源流域から新見へ

2017-04-07 22:17:09 | Weblog

72『岡山(美作・備前・備中)の今昔』高梁川源流域から新見へ

 これに対しては、新見(にいみ)から南下するルートが使われてきた。このルートだと、新見から瀬戸内海の河岸の玉島まで高梁川の高瀬舟の舟運が使われていた。もしくは、この川に沿った、今では国道180号線の道筋になぞらえる古(いにしえ)からの陸路を使うか、この川筋にほぼ沿っているところをあらまし走っている鉄道・伯備線(米子と倉敷を結ぶ)の鉄路なりを見立てることができるのではないか。
 まずは北方から、三大河川のうち高梁川は一番西を流れる。この川の源流は、鳥取県境の明地峠(標高755メートル)に近い花見山(標高1188メートル)の東麓(現在の新見市)だと言われる。そこからは「いよいよ下るぞ」ということであろうか、南に進路をとる。しばらくは、現在の国道180号線に寄り添うようにして南下していた流れは、やがて「千水湖」という細長の湖に入っていく。そこを出てからは、また山間地を縫うようにして走り、新見市の馬塚から高尾付近で中国縦貫自動車道の下をかいくぐり、このあたりの中心である新見市街へと向かう。高梁川に沿っては、石灰岩質のカルスト台地(阿哲台)が広がっているとのことであり、河川の浸食により高梁川の流れは渓谷に富むものとなっている。植物分布の方も、日本ではこの地域特有のものが多い。
 このあたりの、国道180号線に沿って新見へと南下していく途中に、千屋(ちや)という地名がある。集落はぽつぽつとしかないようである。ふんだんにあるのは、自然、それも道に迫る山々なのではないかと想像できる。当然のことながら、耕すことのできる土地は少なく、しかも痩せている。この土地千屋は、上代の頃から質の良い砂鉄が採れたという。鉄を掘り出す鉄穴場(かんなば)が散らばっていた。燃料の木材は、そこら中にふんだんにあったことだろう。

 この業で財を成した太田家が栄えていたのだが。江戸時代も末にさしかかった1850年代、その太田辰五郎が千屋牛の改良繁殖に成功した。そもそもは、新見の竹の谷に出向いて、そこの難波千代平の飼育していた牛に目を付け、連れ帰ったのが、これが新たな生業となっていく。それからは、たゆまぬ努力が続き、千屋牛(ちやぎゅう)なるものが繁殖していった。彼は、そのことで名を馳せ、以来、昭和半ばまでこの地に牛市が立っていった。
 今では、神戸牛や松阪牛などのブランド牛に劣らない、脂たっぷりの牛なのかも知れないが、少なくとも井伏鱒二(いぶせますじ)が次の取材の一文をしたためた1970年代初めまでは、なかなかに勇猛な牛であったらしく、こう述べてある。
 「岡山県の千屋村は、県の西北端にあって「島根県」(?:引用者)との県境に接している。この村では毎年、七月と十一月に牛市が立つ。いわゆる竹の谷牛という優良種の系統のものを出す牛市だとされている。(中略)
 千屋では(その近隣の村も同様に)早春から十一月にかけて、牛を山に放しきりにして飼っている。牛が塩分を求めて家に帰って来ると、塩か味噌をなめさせてまた山へ追いやるが、たいていは飼主が山へ出かけて塩分を与えている。千屋の人たちは、牛の姿や顔を見て、あの牛はどこの家の牛だと見分けをつけている。飼主が「うちの牛を見なんだか」と聞くと、学校通いの子どもでも、どこそこで見たと答えている。(中略)
 龍五郎という人は竹の谷牛とい最優良種の牛を買い取って、貧乏な百姓には無償貸付で飼わせて産めよ殖やせよと努めていた。当時、竹の谷牛は世人の驚異の的になっていた種類の牛である。よそから来る博労たちは、この牛を見ると喉をごくりと鳴らしたそうだ。
 記録で見ると、これは天保元年、地方屈指の富豪であった竹の谷の難波という人が、偶然のことから飴色の見事な牝牛えを手に入れた。この牝から一疋の子牛が生まれ、これもまた優秀で、四歳で四尺二寸余りになった。次にまた牝が生まれ、次に牝の子牛が生まれた。これを四歳まで育てて種牛にして交配に苦心した。すなわち、初代と初代を掛け合わせ、それに生まれた子牛を交互に掛け合わせて二つの系統を得て、その二つの系統を交互に掛け合わせて近親繁殖体を固定化させた。これを竹の谷牛と名づけて、生まれた子牛を付近の家に飼わせて種類の散逸を防いでいた。「この交配の方法は、日本にはそれまでなかったものです」と技師の人が云った。(中略)
 千屋牛は放牧で育てるので、爪が猪のそれのように固く立って、毛は繊細で密生し、皮膚をつまむと弾力がある。眼は大きく、活力があって、温和な相とよく調和する。額が広く、ゆったりとして、眉目秀麗である。のっぺりとした感じの美貌でなくて、品位がある。顎と胸垂は幾分か大きく、胸は幅広くて広潤たる感じである。背線は、よく最近の書家や木彫家がここに目をつけているように平直である。腰はどっしりとして、やや腰骨が高めについている。だから、役牛として水田を鋤かせるとき、ぬかるみのなかで高く後脚をあげて歩くことができる。後脚の発育が良好である点は、特に他の種類の牛と異なっているところである。性格は温和であり、活発であり、繁殖力が強く、遺伝力も非常に強い。竹の谷牛は長命で連産性であって、二十三歳まで生きる能力がある。全身が白毛になって、失明するまで生きているのがある。」(「千屋の牛市」:「小説新潮」の「取材旅行」、1960年11月に所収、原文旧仮名遣い、現代仮名に改めてある)

(続く)

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