○198『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代前半期の財政金融政策(1)

2016-03-24 21:39:31 | Weblog

198『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代前半期の財政金融政策(1)

 元禄期の政治の爛熟から、6代将軍徳川家宣(とくがわいえのぶ)の治世、幕府は態勢を挽回しようと試みていく。そのはしりは、6代将軍になってからの「正徳の治」として展開していく。まずは1715年(正徳5年)に出された『確固海舶互市新例』には、次のような重商主義的な経済政策が盛り込まれていた。
 「一、長崎表廻銅(ながさきおもてかいどう)、およそ一年の定数(じょうすう)四百万斤より四百五拾万斤迄の間をもって、其限とすべき事。
一、唐人方(とうじんがた)商売の法、凡一年の船数、口船、奥船合せて三拾艘、凡(すべ)銀高六千貫目に限り、其内銅三百万斤を相渡すべきこと。・・・・・。
一、阿蘭陀(オランダ)人商売の法、凡一年の船数弐艘、凡(すべ)て銀高三千貫目限り、其内銅五拾万斤を渡すべき事。・・・・・。
 正徳5年1月11日」(『教令類纂』)
 これに「長崎表廻銅」とあるのは、長崎に送る輸出用の銅のことであって、その当時、幕府の長崎貿易によって大量の金銀が海外に流出していた。これを何とか食い止めようと、ある種の貿易制限と、金銀ではなく銅での支払いを強化したのであったらしい。その実務を担当したのは、6代将軍徳川家宣(とくがわいえのぶ)の学問方師匠役の新井白石と、前代将軍の時からの側用人間部詮房(まなべあきふさ)という因縁の二人が中心であった。
 次なる課題としては、この頃すでに幕府財政が苦しさを増しつつあった。そこで財政を再建するための一手として、新井は貨幣改鋳を画策するに至る。その彼は、その前の元禄期の貨幣政策を振り返り、自身の日記『折りたく柴の記』の中で、こういう。
 「今、重秀が議り申す所は、『御料すべて四百万石、歳々に納めらるる所の金は凡七十六万両余、此内、長崎の運上というもの六万両、酒運上というもの六千両、これら近江守(荻原重秀)申し行ひし所也。此内、夏冬御給金の料三十万料余を除く外、余る所は四十六七万両余也。しかるに去歳の国用、凡金百四十万両に及べり。此外に内裏を造りまいらせらるる所の料、凡金七八十万両を用ひらるべし。されば今国財の足らざる所、凡百七八十万両に余れり。たとひ大喪の御事なしといふとも、今より後、取用ひらるべき国財はあらず。いはんや、当時の急務御中陰の御法事料、御霊屋作らるべき料、将軍宣下の儀行はるべき料、本城に御わたましの料、此外、内裏造りまゐらせらるべき所の料なり。
 しかるに、只今、御蔵にある所の金、わづかに三十七万両にすぎず。此内、二十四万両は、去年の春、武相駿三州の地の灰砂を除くべき役を諸国に課せて、凡そ百石の地より金弐両を徴れしところ凡そ四十万両の内、十六万両をもて其の用に充てられ、其の余分をば城北の御所造らるべき料に残し置かれし所なり。これより外に、国用に充らるるべからず』といふなり。前代の御時、歳ごとに其出るところの入る所に倍増して、国財すでにつまづきしを以て元禄八年の九月より金銀の製を改造らる。これより此かた、歳々に収められし所の公利、総計金凡五百万両、これを以てつねにその足らざる所を補ひしに、おなじき十六年の冬、大地震によりて傾き壊れし所々を修治せらるるに至て、彼歳々に収められし所の公利も忽につきぬ。
 そののち、また国財たらざる事、もとのごとくなりぬれば、宝永三年七月、かさねて又銀貨を改造られしかど、なほ歳用にたらざれば、去年の春、対馬守重富がはからひにて、当十大銭を鋳出さるる事をも申行ひ給ひき 此大銭に事は近江守もよからぬ事の由申せし也 『今に至て此急を救はるべき事、金銭の製を改造せたるるの外、其他あるべからず』と申す。(中略)当時国財の急なる事に至ても、近江守が申す所心得られず。其の故は彼の申す所による時は、今歳の国用に充つべきものわずかに三十七万は、即是去々年の税課なり。されば今年の国用となさるべき所は、たとひ彼の申す所のごとくなりとも、去年納められし所の金七十六万両と、今ある所の金三十万両とをあはせて、総計一百十余万両のあるべし。また当時の急に用ひらるべき物も、各色まづ其の価を給らざれば、其の事弁ぜずといふにもあらず。其の事の緩急にしたがひ、一百十余万両の金をわかちて、或ひは其の全価をも給り、或ひは其の半価をも給りて、来年に及びて其の価をことごとく償はれんに、其の事弁じ得ずといふ事なかるべし」
 この引用中段に「そののち、また国財たらざる事、もとのごとくなりぬれば」とあるように、幕府の財政は元禄期を入ってから急激な悪化を呈していた。またその直ぐ後の文中に「国財すでにつまづきしを以て元禄八年の九月より金銀の製を改造らる」とあるのは、1695年9月14日(元禄8年8月7日)に出された金銀改鋳に関する触書のことであって、それにはこうあった。
 「一、金銀極印古く成候に付、可ニ吹直一旨被レ仰ニ出之一、且又近年山より出候金銀も多無レ之、世間の金銀も次第に減じ可レ申に付、金銀の位を直し、世間の金銀多出来候ため被ニ仰付一候事。
一、金銀吹直し候に付、世間人々所持の金銀、公儀へ御取上被レ成候にては無レ之候。公儀の金銀、先吹直し候上にて世間へ可レ出レ之候、至ニ其時一可ニ申渡一候事。」
 同時に、元禄金銀も、慶長金銀と等価に通用させるよう通達が出る。
 「一、今度金銀吹直し被ニ仰付一、吹直り候金銀、段々世間へ可ニ相渡一之間、在来金銀と同事に相心得、古金銀と入交、遣方・請取・渡・両替共に無レ滞用ひ可レ申、上納金銀も右可為ニ同事一。」
 そもそも慶長小判の1両は、金四匁(4もんめ、15グラム)と定めてあった。この「1両」というのは貨幣単位、匁というのが重量単位のことだ。これに対して新しくつくられた元禄小判の1両は、8分の3(3/8)匁の金しか含んでいない。幕府としては、これを慶長小判と同等の1両として社会に流通させたい、しかも穏便な形でそうならねばならない。そこで、個々の流通に改鋳(「悪鋳」というべきか)したことを世間に安易に分からないような体裁、すなわち銅や真鍮(しんちゅう)を金に混ぜるという、ある種のごまかし」(「目くらまし」というべきか)をとる。この場合は、貨幣の価値が下がるのであるから、その分物価が上がっておかしくないし、事実、1694年(元禄7年)に米1石の値段が銀70匁であったのが、1702年(元禄15年)には銀100匁に上昇したのであった。
 貨幣改鋳は、それからも繰り替えされていく。当の幕府としては、その都度、貨幣改鋳の出自分を収入に繰り入れることで意の破綻を糊塗(こと)なり、先伸ばしにすることが可能とみていたのであろうか。 というのも、財政の悪化の原因は、「地震や水害の復旧、ことに宝永元年の関東大洪水や宝永三年の富士山噴火被災地の復興、それに江戸城中の賄い費をはじめ生活消費出の増大、加えるに貨幣改鋳などによるインフレの昂進にあったが、なによりも年貢高の低下に大きな要因があった」(本間清利『関東郡代』埼玉新聞社、1977)とされている。これにもあるように、1704年(宝永元年)から1706年(宝永3年)にかけては災害続きでもあり、財政聞きの原因はなかなかに複合的な様になっていたことが窺えるのである。
 ついでに言えば、新井の論では、貨幣の値打を下げるような貨幣の改鋳は「悪い改鋳」として非難されるべきものだ。それでは、どうやっていくべきだとしたのだろうか。1714年(正徳4年)に彼が主導した貨幣改鋳によると、鋳造された正徳小判なるものに含まれる金量は、慶長小判に比べほぼ同重量なのであった。ところが、この改鋳ははかばかしい成果を上げられなかった、といって良い。というのも、今度は正徳小判を手にした人は貨幣退蔵を行ったため、社会に出回る貨幣がかえって不足して、経済活動をかえって停滞に向かわせてしまうという、困った事態をもたらしたのであった。

(続く)

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