臨死体験の特徴をまとめると大体以下のようになる。
(もう一度、本シリーズの臨死体験(1)~(12)を参照のこと。)
●臨死体験とは、体外離脱である
臨死体験者の視点(見ている元)は、いつものような肉体の中、あるいは目の奥ではなく肉体の外側の空間にあり、その視点の移動は・・意識することで自在に変えられる。
つまり、意識が肉体の外に離脱し、自分の肉体をも見て観察しているのだ。
下の絵で行くと、あなたはどちら側に・・あなたの本体があると思うだろうか?
ある人は、それはベッドで寝ている人間の方に本体があり、空中に浮いている方は、脳内の幻影にすぎない・・というかもしれない。
臨死体験者は通常の目の視覚機能は働いていないので、こういう状況の視野状況は「脳内幻影」とするしかない。
あくまでも、自分本体は・・ベッドの上に寝ている肉体の中にあって、浮いて見ている方は、ベッドの自分の肉体のなんらかの”脳内幻影”であるというものだ。
人間の本質・わたしとは肉体であると考えている欧米流の機械還元論者、唯物論者などはそういう風に考えるだろう。
だって、物質・肉体以外は存在しない・・と断定している人たちだから。
しかしながら、臨死体験は脳死状態と判定されている状態で起きるのであるから、脳の活動による幻影を見ているということは‥実際あり得ないのである。
脳死状態で・・どうして脳内幻影を見ることが出来るのだろうか。
●この場合本体はどちら側?
ベッドで寝ているあなたの肉体は、(浮いている)<あなた>の知覚している対象物である。
そして自分の肉体やベッド、部屋の配置や人の動き等は、脳内の勝手気ままな幻影ということではなく、事後にその物理的状況にはハッキリした客観性があるケースがほとんどである。
それは視覚などの知覚機能がまるで空間に配置されているかのようだ。
・・・
●知覚主体と知覚される客体、どっちが本体?
真実は、・・存在とは意識が在るところにある。
空中だろうと・・そこに意識があることも起きるのだ。
つまり、臨死体験中は、意識による直接知覚が起きているといって良い。通常は五感を経由して知覚される環境・事物は、
臨死体験中・・意識が肉体を離脱した場合は、意識による直接知覚に切り替わる・・といって良いだろう。
というか、意識とは・・知ること・気づくこと・・そのものであるため、肉体の五感での経由が外れた場合、直接知る・気づくという働きが起きると言ってもいい。
●意識とは・・気づくこと・知ること、その宇宙の働きそのもの
もう1度言うが、意識とは・・気づくこと・知ること・・その働きそのものである。
肉体を経由しようがしまいが・・気づくこと・知ることは起きる!ということだ。もちろん肉体レベル以外の水準での気づくこと・知ることである。
私たちの普通の存在形態、個人的な肉体を経由した気付き・知ること、その働きは個人としてのそれぞれの特性・個性を持っている。
これとは異なり、個人的な肉体を経由しない・・気付き・知ること・・その働きは、肉体個人としての特性ではなく、
肉体個人ではない、より高次の自我・自己、あるいは宇宙意識によるものと言えよう。
今のあなたの意識は、肉体に固定された状態であるが、それから解放されると、より高次のあなたの意識に切り替わるともいえる。
人間、死んだら終わりどころか、一旦は高次レベルに切り替わり、さらに同じような体験世界に入って行くか、全くちがう体験世界を選択していくことになる。
●ただひとつの意識・気づき
あるのは意識であり、気づくこと・知ることであり、それが肉体経由かそうでないか?何の肉体かなど含めて多種多様にあるわけだ。
ただ一つの意識があり、それが多次元に展開しているのが多次元宇宙である、
従って意識には、宇宙意識・・高次意識・・個人意識・・というレベル・階層があるのだ。
人間は、普段は肉体個人の五感機能を経由して、その次元の経験をしている存在のことだ。
臨死体験者は、
肉体死を迎えると、気づくこと・知ることがより高次の意識レベルに切り替わり、
その高次レベルの自我での意識・気づき・知ること・経験がが起きるようになるのである。
臨時体験とは、そうして何らかの働きで肉体機能に修復が起き、その肉体に引き戻された人たちの体験報告であるといえよう。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。