気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

あるヨギの自叙伝より(18)師の帰還

2020-08-01 12:02:28 | あるヨギの自叙伝 抜粋解説

「あるヨギの自叙伝」(パラマハンサ・ヨガナンダ著)p444~

「ヨガナンダ、わたしの生と死と復活に関する事実を語った。もうわたしの為に嘆くのはやめて、わたしが肉体人間の住むこの神の夢にすぎない地上界から、幽体をまとった魂たちの住む、同じ神の夢である幽界の星に復活したことを、広く人々に伝えなさい。そうすれば、夢の死におびえたり歎き悲しんでいる人たちの心に、新しい希望が湧くだろう」

「はい、先生!」 

復活された先生に会えたこの喜びを人々に分かち与えられることは、私にとっても何とうれしいことであろう。

「わたしが地上でお前に要求した水準は無理なほど高く厳しかった。わたしはお前をしばしば必要以上に叱った。だがお前はよくわたしの試練に耐えてくれた。お前の愛は、わたしのいかなる叱責の雲にも光を失わなかった」

先生は優しく付け加えられた。

「わたしが今日来たのは、お前にもう一つ言う事があったからだ。

それは、これからはもうお前をきびしい目で見ることはしないということだ。わたしはもう二度とお前を叱らないだろう」

 ああ、この偉大な師からもう叱責を受けることができないとは、なんと寂しいことであろう。先生の叱責は、いつも私を守ってくれた天使であったのに!

ーーーー
スリ・ユクテスワは、なおこのほか、ここでは発表できないいろいろな問題についても解明してくれた。ボンベイのホテルの一室で私といっしょに過ごした二時間の間に、先生はわたしのあらゆる質問に答えてくれた。この一九三六年六月に日に先生が告げてくれた、世界の出来事に関する多くの予言は、すべて実現している。

「愛する息子よ、それではこれで別れよう」 

この言葉と同時に、私は抱きかかえていた腕の中から先生が溶けてなくなってゆくのを感じた。

「わたしの子供よ」先生の声は魂の大空にひびき渡った。
「お前が、ニルビカルマ・サマディの門を通ってわたしを呼ぶときは、いつでもきょうのように血の通った肉体をもってお前の前に現われよう」

 この天上からの約束とともに、スリ・ユクテスワは私の視界から完全に消えてしまった。そして雲にこだまする雷鳴のように、音楽的な声がひびいて来た。「ほかの人々に伝えなさい。ニルビカルバの悟りによって地上世界が神の夢(注釈1)であることを覚った者は、同じ神の夢でつくられたより霊妙なヒラニャローカの星に来ることが出来る。そして、そこに地上に居た時と全く同じ姿で復活しているわたしを見いだすであろう。ヨガナンダよ、このことを皆に伝えなさい。

(注釈1)世界・宇宙は神の夢。この世は意識の投影する仮想現実であると同じ意味。
現実が、現実がと騒いでいる・・「夢」であり、肉体五感による信ぴょう性が現実感を創り出している・・こころ・身体総動員の・・夢なのである。そう、夢は寝て見るものではなく・・観ること、観察すること・・・と言ったほうがいいかもしれない。でもそれは夢なのである。

 

別れの悲しみはもうなかった。長い間私の心の平和を奪っていた先生の死に対する悲嘆と哀惜は、今はかえって恥ずかしくさえ感じた。そして、至福が私の魂の新しく開かれた無数の気孔から泉のように噴き出して来た。

長い間使わずにふさがっていたこれらの気孔は、今至福の洪水に見舞われて清らかな口を開いた。私の過去世のいろいろな情景が、映画の画面のように次々と私の内なる目に映ってきた。そしてわたしの善と悪のカルマは、先生の聖なる訪れによって、私のまわりを取り巻いていた宇宙光の中に解消してしまった。

-------

私は今ここに、先生の御指示に従って、先生の語られた福音を述べたが、このようなことに無関心な年代の人々は、あるいは当惑を感じるかもしれない。これまで人は、とかく境遇に服従し、多くの人が自暴自棄の生涯を送って来た。

しかしこれは、人間に定められた洋々たる進化の道を進むべき正しい姿勢ではない。

人は確固たる意志さえあれば、完全な自由への道の出発点に立つことができるのである。人々は、あまりにも長い間、『人間はちりやあくたのようなものだ』という陰気な悲観論者の言葉に耳を傾けてきたため、何物にも侵されることのない自己の魂のことを忘れてしまったのである。

---

抜粋以上

 

 

パラマハンサ・ヨガナンダ(1893~1952)は、現代における卓越した精神的・宗教的偉人の一人。欧米にヨガを普及させ、ヨガの父とも呼ばれている。

 

---

ここまで、勝手ながら「あるヨギの自叙伝」の著の抜粋と解説をさせて頂いたが、ヨガナンダの師の「復活」が1936年であり、今から約84年前の出来事ということになる。

またここに書かれた内容が、美しい師弟愛の物語だとか、あるいは何かの例えか、教訓めいた作り話だと思う人もいるに違いない。

しかしながら、自らを「あるヨギ」と称する謙虚で高名な求道者が、いわば方便の「嘘」を言うわけもないだろう。

ここまで読んできた人ならば、
嘘にまみれてしまった世界の、その終わり時期だからこそ、
ここに書かれた、一見信じられないような内容が、逆に真実であるということが理解できるはずである。

 

あなたは、

偶然生まれて死んだら終わりの、単なる思考する有機物質だろうか?

あるいは、

それぞれの・・わたしとは・・

想念・肉体・物体ではなく、それらを表現型とする意識・・「魂」であることを真に・・理解しているだろうか?

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あるヨギの自叙伝より(17) 人は時空超えた旅人

2020-07-25 12:14:25 | あるヨギの自叙伝 抜粋解説

「あるヨギの自叙伝」(パラマハンサ・ヨガナンダ著)p443~

私は、先生がこのすばらしい説明をしてくれている間、先生のからだをあちこち観察した。

「天使のような先生、先生のおからだは、私がプリの僧院で涙とともにお別れしたあのおからだとほんとうにそっくりでございますね」

「そうだとも、この新しいからだは、前の古いからだと全く同じに出来ている。わたしはこのからだを、いつでも自由に、しかも地上にいたときよりもずっと頻繁に、物質化したり解体したりしている。からだを急速に解体することによって、わたしは今では、一つの星から他の星へ、あるいは、幽界から観念界から物質界へ、光という特急であっという間に旅行することができるのだ」 (注釈1)

神のようなわが師(グル)はほほえまれた。

(注釈1)びっくりするような内容だが、例えばテレポーテーションという概念を知っているだろう。テレポーテーションは、”こちら”で身体組成を「分解」して、あちらに「再生する」ということであり、二次元画面ではすでに画像の伝送等で行っていることだ。これを3次元的に行う事で、肉体の分解・再生がすでに先端科学では議論されている。肉体を構成する素粒子はまた波動であり、解体も、伝送も、再生も可能ということである。

ならば聞こう・・、わたし・・意識とは、解体されまた再生される肉体だろうか?
あちらにもこちらにも存在することが出来る者、時空を超えた者はだれなのか?

 

「お前は近ごろ、だいぶ忙しく動きまわっているようだが、わたしはお前をボンベイに見つけ出すのに何のぞうさもなかったよ」

「先生、私は先生がお亡くなりになって、ほんとうに悲嘆にくれていました」

「わたしがいったいどこへなくなったというのだね?それは必ずしも事実とは言えないようだね」

先生は優しいまなざしを愉快そうに耀かされた。

「お前は、地上で夢を見ていただけ(注釈2)なのだ。そこでお前が見たのは、わたしの夢のからだだ」

先生はつづけられた。

「そしてお前は、その夢の像を埋葬したのだ。だが今、それと同じ姿でそれよりももっと精妙なわたしのからだが、--今現にお前の目の前にあって、お前がしっかりと抱いているこのからだが、--別の精妙な夢の星に復活したのだ。この精妙な夢のからだも、精妙な星も、結局いつかは消え去ってゆくだろう。これらもまた永遠のものではないからだ。

(注釈2)夢は見ている時には、それが夢とは思わずに真剣になっているだろう。そしてそれが夢だと知ることを目覚めるという。我々は、あまりにも体の五感を激しく感じるために、現実という世界にいると信じ込んでいる。しかしながら、現実とは・・そこに勝手にあるものではなく・・意識があり・・観察しているから、存在している・・ように見えるのである。

 

あらゆる夢の泡粒は、結局は最後の目覚めとともに、消え去ってしまうのだ。わが子ヨガナンダよ、夢と真実を区別しなさい」

このベーダーンタの復活の思想(15)は私を驚嘆させた。私はプりで生命のなくなった先生のからだを見ていたましいと思った自分を恥じた。私は先生が、ご自分の地上における生命も、死も、また現在の復活も、神が宇宙夢の中で演じておられる観念の相対的表現にすぎないことを意識しながら、常に神の中に完全に目覚めておられることをついに理解した。

(15)本文注解(p446末) 
 生死は想念の相対性によって映し出されたかりそめの姿にすぎないという思想。ベーダーンタは、神のみが唯一の実体であって、あらゆる被造物すなわち個々の存在はすべて幻覚(マーヤ)であると指摘している。この一元論の哲学は、シャンカラのウパニシャッド注解にもっとも高度に表現されている。

 

「ヨガナンダ、わたしは今お前に、わたしの生と死と復活に関する事実を語った。

もうわたしのために嘆くのはやめて、わたしが肉体人間の住むこの神の夢にすぎない地上界から、幽体をまとった魂たちの住む、同じ神の夢である幽界の星に復活したことを、広く人々に伝えなさい。そうすれば、夢の死におびえたり、嘆き悲しんでいる人たちの心に、新しい希望が湧くだろう」

「はい、先生!」復活された先生に会えたこの喜びを人々に分かち与えられることは、私にとっても何とうれしい事であろう。  

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あるヨギの自叙伝より(16)三つの次元体

2020-07-22 05:26:12 | あるヨギの自叙伝 抜粋解説

われわれの生まれて死ぬまでの間の、毎日の生活とはどういうことなのか、多次元的な側面から解説されている件(くだり)である。

「三界は唯心の諸現」という言葉があるが、我々はその三界の顕現体そのものであると言えよう。

いわば、肉体・マインド・魂・・、あるいはここで表現されている肉体・幽体・観念体の複合体である。別の表現では、多次元エネルギー体とも言えようか。

これらは、何か自分とは違うSF的、宗教的な話等ではなく、これがより現実的いえる話なのだ。

 

「あるヨギの自叙伝」パラマハンサ・ヨガナンダ著 p442

・・・

「人間の三つのからだが互いに関連しあっている証拠は、いろいろな面で人間の性質の三重性となって現れている」 先生はなおも続けられた。

「地上の人間は、目を覚ましているとき、その意識は多かれ少なかれ三つのからだ(注釈1)のうえにある。すなわち、視聴臭味触の感覚に集中しているときは、彼は主としてその肉体を通じて働いているし、想像したり計画したりしているときは、主に幽体を通して働いている。また観念体は、思索や、内観、瞑想に深く沈潜しているときに活動している。

 

(注釈1)からだというと「この五感肉体」のイメージだが、からだは固型肉体を含む多次元的エネルギー体とでも言えるもので、分かりやすく、肉体・精神・魂ともいわれる。五感で感じる肉体は自己表現体(多次元的エネルギー体)の一部であり、かつその肉体は具象化の最も先端部のかたち、長くは続かない粗い粗雑な”からだ”ということになる。

 

真のわたしとは何だろうか?・・それが問題(テーマ)だ。

 

 

天才といわれる人たちの宇宙的な構想は、自己の観念体とたえず接触している者に降来するのだ。この意味で人間は、官能的人間と、知能的人間と、霊感的人間(注釈2)に分離されるだろう。

(注釈2)官能人間とは肉体・五感感覚が主体の人ということであり、知能人間とは思考・論理などが中心の人、霊感的人間とは、新たな可能性、インスピレーション・発想・あるいはより高次の在り方にも意識が広がっている人と言えよう。

 

間は一日のうち、目を覚ましている十六時間は、自己意識が肉体にある。それから眠って夢を見ている間は、自己意識は幽体にあって(注釈3)、幽界人と同じように何でも自由につくり出すことができる。

(注釈3)常識では、私達は肉体であって、寝ている時はその肉体が夢を観ているだけのことと思っているが、意識は・・その時に夢の中で肉体を感じてはいない。意識が・・夢の世界中、現実という世界を行き来しているという事も出来る。地上の人間は肉体中心と言われるのは、我々が肉体そのものである・・と信じ込んでいるということである。
私達が肉体ではなく意識であり、・・意識・気付きの焦点は・・その時どこにあるか?・・で観なければわからない。

 

また夢を見ないほど十分に睡眠が深いときは、数時間意識の座を観念体に移すことができる。このような眠りには、心身の疲労を回復させる力がある。夢を見ているときは、意識は観念体ではなく、幽体にあり、このような睡眠には十分な回復力はない」

(注釈4)肉体中心の人間から見れば、深い眠りは・・何もしていない・・単なる眠りなど、単なる無意識にしか見えないだろう。しかしながら深い眠りがあればこそ、心は完全に安らぎ、肉体組織は改善され、新たな意欲やエネルギーが生じることに気付くはずだ。ちなみにマナ・マハルシによれば、地上の人間における深い眠りは・・「真我」の粗雑な状態であるという。我々から見て・・深い眠りには実に深い意味と可能性があるとわかるだろう。
真我・・それなくして、自由な夢も辛い現実も何もありはしないということだ。

 

 

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あるヨギの自叙伝より(15)天国でのカルマ

2020-07-20 06:53:49 | あるヨギの自叙伝 抜粋解説

・・前著書のつづき

地上のたいていの人間は、生前、幽界生活のより高い喜びや幸せを瞑想によって味わう修練を怠っているために、死後もなお地上の粗野なはかない快楽に戻りたいと願う。

ちょうどそれと同じように、多くの幽界人もまた、彼らの幽体が正常に崩壊してゆくときでも、観念界の高い霊的喜びの状態を想像することが出来ないために、依然として幽界の濃厚ではでな幸福に執着して、再び幽界の楽園に生まれ変わりたいと希望する(注釈1)。このような人たちは、幽界のそうした根強いカルマを完全に果たさないうちは、創造主との間にもうわずかな薄い仕切りしか残していない観念界に定住することは出来ないのだ。

(注釈1)昔からある楽園・パラダイス、天国のこと。
3次元界に比べ、人としての不自由さがほどんどなく、多くが満たされた生活のことで、この世の誰でもが求めるもの。例えば、この世で富や権力を求めるのは、それが天国に繋がると信じ込んでいるためだが、肝心なこころ、霊的成長が無い場合には、逆にその物質レベルと心、霊的レベルの間の大きなギャップに苦悩することになる。

 

魂が、もはや目に楽しい幽界の経験を願わず、また、そこに帰りたいという誘惑にも陥らなくなったとき、はじめて観念界にとどまることが出来るようになる。そして、さらにそこで、いっさいの過去の欲望の種子である観念界のカルマを完全に根絶し終わったとき(注釈2)、魂は、これまで自分を閉じ込めていた三つの無知の容器から抜け出し、ついに永遠なるおかたと一つに溶け合うのだ。どうだ、わかったかね」

(注釈2)カルマ根絶という表現だが、カルマとは魂の学びのテーマということであれば、それは良い悪いという範疇のものではない。ただ、地上界(今までの地球)でのカルマは、粗い世界であるだけに苦痛と苦悩がついてくるということだ。また、それだけカルマの足抜けを促す力が働いているのである。この世は厳しいが、背後は愛に満ちている・・と感じないか?

 

先生はきわめて魅力的な微笑みを浮かべられた。「はい先生、おかげでよくわかりました。喜びと感謝で申し上げる言葉もございません」

私はこれまでにも、いろいろ霊感に満ちた物語や詩を読んだり聞いたりしたが、これほどの霊的知識を授けてくれたものはなかった。インドの聖典は、観念界や、幽界や、人間の三つのからだ(注釈3)ことについて説明しているが、私の腕の中に温かい肉体をもって現実に復活された先生の話に比べれば、それらはなんと空虚で縁遠く思われたことであろう。

先生にとっては、『旅人がそこへ出かけてゆくばかりで、だれ一人戻って来たことがない未知の国』などというものは一つも存在しないのである。

(注釈3)この世界(地上界、この地球)だけに肉体があって、霊界?などはなにか・・フワフワした不定形の意識のみの世界ということではない。魂のカルマ・テーマの昇華、あるいは波動・振動レベルの高度化によっても、それなりの身体表現があるということだ。

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地球の現状で言えば、いつのまにか、2極化という言葉がふさわしい世界状況になっている。

そして、2極化が極まるということは、大いなる反転・転換が起きるということを意味している。

経済・社会、国家、組織において、上と下、右と左、大と小、持てる者と持たざる者、強者と弱者、知者と無知な者、利己と利他のギャップ、・・あらゆるものが飽和し、極大化している。

そしてそれがリセットされる段階にあるのは気付いているだろうか。

これはつまり、既に、この地(球)上にいる人としてのテーマ(カルマ)が明確になっているということであり、

それに気付いているか、あるいはまったく片鱗も気付くことなく、大勢の大衆の中で、進化も魂も何のその?、昨日と同じ明日に埋没しているだけなのかという事でもある。

しかしながら、テーマ・問題が明確になったということは、解答すべき時間は、もうわずかしかないという事でもある。なぜならば、問題・テーマがいったい何なのか?・・それを理解することが、つまり解答そのものに他ならないからだ。

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瞑想・内観等はしているだろうか?

誰とでも朗らかにあいさつしているだろうか?

言動は穏やかだろうか?

外から来る怖れにはまったくスルーだろうか?

食は、出来るだけ質素で自然に即したものだろうか?

細胞の酸化・劣化の元である肉食はひかえているだろうか?

未知のことにも、怖れず探求する姿勢があるだろうか?

生活の中で、少しでも喜びを発見しようとしているだろうか?

 

まったく別物と見える他者は、実は、自分と同じ意識(神・根源)の顕れ・・、

別バージョンの自分である・・魂の朋友であると理解しているだろうか?

 

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あるヨギの自叙伝より(14)生と死の狭間

2020-07-18 18:12:31 | あるヨギの自叙伝 抜粋解説

「あるヨギの自叙伝」(パラマハンサ・ヨガナンダ著)1983  p441

「復活された先生、魂を三界に束縛するカルマについてもっと教えてください」
私は、この全知の師の話にいつまでも聞き入っていることができたらどんなに幸せだろうと思った。私は先生の生存中、一度にこれほど多くの英知を吸収したことはなかった。私は今初めて、生と死の市松模様のような世界の、謎に包まれた空白の部分(注釈1)について、明確な認識を得ることが出来たのである。

(注釈1)死んで生まれ変わるまでの、一般にはよく知られていないプロセスのこと。
この世界の多くの人は、生まれて後、いつか自分が生きていることに気付くが、ただ偶然に生まれたと想い込み、やがて死を迎えて、また生まれてくるまでの間の事をほぼ憶えていない。

 

「地上から来た魂が長く幽界に住みつくことができるようになるためには、その前に、肉体的カルマや欲望をすべて果たし終えなければならない。(注釈2)先生はわくわくするような美しい声(注釈3)説明された。
「幽界には二種類の魂が住んでいる。まだ果たしきれぬ地上のカルマをもち、それを果たすために地上に再生する必要のある者は、肉体の死によって地上から幽界に来ても、一時的訪問者として、幽界の定住者とは区別される。

(注釈2)肉体五感に関わる強い性癖や、肉体の身の快楽や種の保存に関わる強い欲求のこと。 食生活や生殖等、肉体の維持機能に関することは何も悪くはないが、利己的にその欲望に翻弄されることは常に災いのもとであり、これを建設的に扱うことが求められる。確信犯やら、つい血迷って・・などの性癖も、果たし終えていない・・カルマということだろう。

(注釈3)高次の存在の声音は、低次の存在が聞けば、精妙で軽く、高い音域に聞こえるようである。周波数の低い(粗い)ノイズ音よりも、周波数の高い(精妙な)音域のほうが格段に美しく聞こえるのは、たとえばステレオでもデジタル機器でも同じことで、誰でも高い周波数域の美しい音色の方が良いに決まっているはずだ。ただ、この時の師とのやり取りは、音声の他に内面のテレパシー伝達も複合されているかもしれない。


地上のカルマをまだ果たしきっていない魂は、幽界の滞在期間が終わって幽体を脱ぐ時期が来ても、すぐに高い観念界にはいることは許されず、引き続き、十六の粗い要素で出来た肉体と十九の精妙な要素で出来た幽体に交互に身を包んで、地上界と幽界の間を往復しなければならない。

また、霊的にもっと未熟な魂の場合は、肉体の死によって幽界に移っても、その間のほとんどが死の眠りという深い昏睡状態に陥っているため(注釈4)、幽界の美しさすら意識しない。そして、幽界でしばらく休憩すると、再び物質界での経験を積むために地上に帰って行く。こうして何度か訪問の旅を繰り返しているうちに、彼はしだいに精妙な幽界に自分を順応させることが出来るようになるのだ。

(注釈4)魂には肉体、幽体、観念体のすべて(の波動帯)が既に備わっているが、肉体レベルの波動域だけの開発・習熟者のことを”未熟な魂”と表現していると考えられる。つまり「私は死んだら終わりの物質肉体人間にすぎない」と信じ込んでいる場合など。

未熟な魂は、さすがに地上界(地球のような世界)で生きることには相当に疲れるだろうし、死んでからようやく休息・一息入れることが出来るということだが、しかしながらこの世界で良く言うところの永眠なんかではない。
例えるならば、小学生がいきなり中学の教室に入れられても、何が何だかで・・勉強机の上の腕枕で?気持ち良く眠ってばかりいるようなものだ。その小学生は、また彼にとってふさわしい教室でようやく目を覚ます(生まれ変わる)という事だ。そうやって確実に進歩する。

 

一方、幽界の定住者は、すべての物質的欲望から完全に開放されているので、もはや粗雑な波動で出来た地上の世界に帰る必要はない。彼らに残っているのは、幽体のカルマと、観念体のカルマだけだ。彼らは幽体を脱ぐと、より霊妙で限りなく精緻な観念界に昇ってゆく。そこで、宇宙法則によって定められたある一定の期間を過ごすと、今度は、幽界で果たしきれなかったカルマを完全に取り除くために、再び新しい幽体を身に着けて、ヒラニャローカまたはこれに似た同様の高い幽界の星に生まれ変わってくる(注釈4)のだ。

(注釈4)宇宙の無限にも及ぶ恒星や惑星は、無駄にあるわけもなく、それだけ無数の多次元的諸世界があるということだ。生まれ変わりは地球のみに限ることなく、星と星の転生も当然なのである。「天の住まいはたくさんある」・・というイエスの言葉も残されているように、天とは雲の上の夢のような幻想的な天国世界ではなく、具体的に云えば「宇宙の中にある無数の星の世界」ということだし、地球もそのうちの1つのカテゴリーに属する惑星世界である。

 

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