気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

臨死体験(8)時間空間の変質

2023-05-31 07:24:46 | 臨死体験

臨死体験中は、肉体から意識が外れた状態である。つまり意識が体外離脱した状態で、意識が現実の空間や次元の異なる空間を知覚するという経験であると言えよう。

肉体の五感経由ではない、”意識”による直接的な知覚経験ということだ。

なぜならば、臨死体験中は脳機能・心肺機能は停止している、すなわち五感の機能は停止している状態であるからだ。

・・・・

「臨死体験 9つの証拠」頁21~

時間や空間の変化を感じる

「初めて体外離脱をしたとき、私は(ダイビング中だったために)ダイバーズウオッチをしていた。そこで目印になるものの間を進むのに何秒かかるか、秒針を見るという方法で、自分の移動距離を測定してみた。全く非科学的な結果だった。・・時間の流れが変化していたのだ。通り過ぎる地面はまっすぐな動きではなかったし、距離の進み具合も不規則だった。距離は常に変化していて、いつまでも近づかないかと思うと、突然目前に迫ったりした。

しかし私のダイバーズウオッチは変化することなく動いていた。推測だが異なる時間の流れにいたのではないだろうか。そこでは時間と空間が規則的に進む現世とは違って、時計は全く役に立たない。

もうひとつ、体外離脱はとても長く。間違いなく一時間以上は続いていたように感じられたが。だが、ダイビングのパートナーに意識を失っていた時間を尋ねたら、5分か10分ほどだったそうだ。これも臨死体験中は時間の測定にダイバーズウオッチは使えないと考えた理由のひとつだ。

・・

「地上の時間ではほんの少しの間に、向こうではとてもたくさんのことを経験したようだった。魂が行った場所と、この地上とでは、時の流れが違っていた。」

・・

「地上の時と空間は完全に動きを止めた。その間もあちら側の「時と空間」は完全に動いていて、どうみてもそれは現実だった。」

・・

「そう、その中にいるあいだは、地上と同じような時間の感覚はなかった。別の言い方をするなら、過去、現在、未来といった連続した流れが感じられなかった。光の中にいたときは、過去も現在も未来もすべて同時に経験していた。」

このように、「空間や時間の感覚が変化しましたか?」という質問に、半数以上の60.5%が「はい」と答えている。「時間が早く感じられましたか?」という質問には、33.9%が「すべてが同時に起こっているように感じられた」と回答している。

・・・

●時間・空間は相対的

もともと時間とは物事の変化率のことであるが、その変化を感じるのは人間の観察・意識以外にはない。つまり時間とは「意識」によって認識されているものである。

現実世界では一定の時間が進むように見えるのは、ただ単に時計の秒針や、原子時計の単調な刻みのことであり、

それだけを見ていれば・・その単調さを観察することになり、それが一定のリズムであるかのような錯覚に陥るのだ。

また、物事のテンポ、スピード、変化率は(つまり時間)は・・物理学的には「エネルギー」の違いでも起きて来るものであり、必ずしも一定の時間刻みで起きるわけではない。

また、時間や空間は絶対、一定ではなく相対的に伸び縮みするというのが「相対性理論」の結論である。

・・・

●時間・空間は、意識の知覚現象である

時間は我々と無関係に均一に刻まれているわけではなく、それは完全に我々の「意識」の産物ということだ。

臨死体験中は、肉体感覚が外れているため、直接・・意識によって知覚するということになり、日常の慣れた物質感覚を外れた状況になる。

通常の時間空間の知覚・感覚、つまり偽物の感覚は、本来の意識による直接感覚に置き換わるということだろうか。

時間・空間は、我々とは別個に、圧倒的な現実感で実在している・・わけではない。

圧倒的な現実感で実在しているのは・・”意識”のほうであり、

時間・空間はその”意識”の展開する、二次的知覚現象であると言えるのである。

言い換えれば、世界は勝手に変わるわけではない。

意識が変わるからこそ、その意識の経験する世界が変わるのだ。

・・

時間・空間とは、この世界あるいは宇宙、または向こうの世界、様々な次元世界の展開する事象・現象のことであり、意識的な知覚現象である。

 

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 

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臨死体験(7)魂の家族との遭遇

2023-05-29 08:41:37 | 臨死体験

この世においてもお互いが深い付き合いのある人々は、

魂レベルにおいても深い絆(きずな)がある場合が多い。

それはまるで人生という総合演劇の出演者たちが、時間・空間の異なった人生においても、様々な別人格、別の役割を担って登場するようなものである。

そういう人たちを「魂のファミリー」といって良いだろう。あなたにもこの世の現実上の親兄弟・親戚などがいるように、はるかに広範囲・歴史・時間を越えたレベルの、魂における親兄弟・親戚・近親者・親友・盟友なども存在しているのである。

・・・

下記は、臨死体験において、神秘的存在、あるいは亡くなった身内や友人など、他者に遭遇する体験告白である。

 

・・・「臨死体験 9つの証拠」(ブックマン社)より抜粋  p18~

「ほかの存在や人間に囲まれていた。見覚えがある気がした。家族や古い友人のように、遥か昔から一緒だったように感じた。霊的あるいは魂の家族とでも表現すれば良いのか、人生でとても大切だった人たちと、長い間、離れ離れになったあとで再会したみたいだった。みんなおたがいに愛と喜びを爆発させた。」

「目には見えなかったけれど、父がすぐ横にいた。姉もすぐ近くにいた。左側だったと思う。ほかの家族もいたが、もっと見ることは出来なかった。姉や他の家族は左側だった気がする。姉と父以外ではっきりわかったのは祖母だけ。ほかにもいたが誰だかはっきりしない。」

「母と娘の声が聞こえた。娘は亡くなった当時、まだ2歳くらいだったが、聞こえた声はもっと成長したものだった。ふたりが私の名前を呼んで、体が空気の流れの中を進むように素早く移動した。風にさっと運ばれたように、一瞬すごく明るい光が見えたと思ったら目の前にビーチが現れ、やがてそこに母と娘が立っているのが見えた。娘は成長した姿だった。」

このように、、「他の存在に遭遇しましたか?」という質問に、57.3%が「はい」と答えている。死者との遭遇は、友人や恋人ではなく、ほとんどが身内だった。中には、見覚えがある気がしたがあったことのある人かどうか、定かではなかったと語る体験者もいる。そのうち何人かは、臨死体験から生還後、写真などで死んだ身内だったと確認できた。体験者が生まれるよりも何年も、ときには何十年も前に亡くなった身内だと判明したケースもある。

・・・

この3次元世界でもどんな人にも、人と人とのつながりがあるように、

時空を超えた魂にも、家族、ファミリー、縁故、繋がり、ネットワークと言っても良い集合体が存在しているということだ。

魂という存在は単発・単独なんかではなく、膨大な集合形、いわば集団を形成している。

これを”霊団”などと呼ぶ人もいるし、ロバートモンロー(ヘミシンクで)は、I THERE:向こうのわたしたち・・と呼んでいる。

 

魂の仲間たち・ファミリー達は・・・もちろん赤の他人の集団ではない。

赤の他人どころか、自分に最も近しい存在ばかりの集団である。

自分に最も近しい・・とはどういう意味だろうか?

もう一人の自分、またべつの自分、別バージョンの自分達と言っても良いだろう。

・・・

自分:わたし・・のことを「肉体個人」であると認識している人にとってはまったく理解できない。

自分を魂・意識であり、物質・時空を超えた存在であると認識している人にとっては、ある時、ある場所、ある時代の自分も、過去の自分も、今の自分も・・、究極は・・別人格の赤の他人も、あるいは無数の別の自分という理解も可能であろう。

つまり、赤の他人様も・・本源においては・・わたし・・なのである。

そして、そういう少しづつ、あるいは大幅に異なったわたしたちの集団は、それこそ無限・無数に存在しているということになる。

・・・

そういう意味で、仏画、曼荼羅絵図は、実際にはその魂のネットワーク図を示しているといえるのである。

 

魂の集合団は多次元に渡った集合形を成していて、その中には、極めて高次の魂から、発展途上の幼い魂まで存在しているようである。

それらの魂のファミリー・集団は、多次元レベルにわたって、部分集団をも形づくりながら経験・転生しつつ、個々の魂の経験を蓄積しつつ相互に霊的進化をしているのである。

 

根源・創造のもとは・・ただひとつであるから、それらの魂の集合形、霊団、多次元的ファミリーは、

それぞれのわたし・・を中心として・・気付ける限りの高い次元から低い次元までの無数の<わたし>の集団とも言えるかもしれない。

わたしとは、究極では無数のあなたでもあるわけだ。

 

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 

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臨死体験(6)光との遭遇

2023-05-25 06:47:13 | 臨死体験

前記事では臨死体験した人の多くがトンネルに入るか通過する経験をしていることを紹介したが、トンネルの向こう側には何があるのだろうか?

 

 

「臨死体験 9つの証拠」16頁より

●神秘的あるいは強烈な光に遭遇する

「トンネルの反対側に出ると白く輝く光があり、わたしは翼に包まれて、その一部になった」

「美しい光が私を引き寄せた。それを思い出すと、今でも畏敬の念に打たれ、すぐに涙が浮かんでしまう」

「はじめ、光は青かった。それから白く変わった。それは乳白色の柔らかな光で、ギラギラしてはおらず、明るいが眩しいほどではなく、白く純粋な明るさだった。”純粋”と言っても通常の意味とは違い、それまで見たこともなくて言葉では説明できないという意味だ。」

「壁を通り抜けると光の繭(まゆ)の中に直接入ったようだった。中央に大きく強い光があり、それとまったく同じだが、やや小さい光の繭がいくつか連なっていた。今考えると、ここの光の繭(まゆ)はわたしが入ったものと同様、人間の魂で、それが中央の神とつながっていたのだと思う。」

 

・・・このように、光は「何百万もの太陽が集まったように」明るいと描写されたりもするが、臨死体験者がそれを見て目を傷めることは皆無といって良い。

彼らは光への強い関心や、近づいて光とひとつになりたいという強烈な願いを、ドラマチックに表現する場合がある。「光を見ましたか?」という質問に、64.6%が「はい」と答えている。

以上、上記書籍16~18頁、抜粋

 

・・・

これらの体験者の報告を見ることで色々なことがわかるだろう。

●魂の波動的側面

まず、我々・・いわゆる「魂」という肉体より高次の存在形は、多次元存在での最高レベルの波動・振動の繭(まゆ)、あるいは ”光の塊” としての側面があるということだ。

波動は様々な物事・物質・概念・想念などの元にあるものだ。すべては様々な波動で成り立っている。

わたしたちの肉体も、原子で出来ていて、それは微細な波動エネルギーで出来ている。また想念もダイナミックな情報、波動エネルギーである。

波動・光とは、いわば創造の原資・情報ともいえよう。

・・・

●白い光・全一性

大きな白い光は波動のうちのすべての色・スペクトルの合わさった、全一的、中心的波動形態、あるいは私の魂の本来の中心・・真我とも言える。

自身を包み込む、大きな白いひかりとは、いわゆる真我・神我・あるいは指導霊などとも言われる、高次の自己そのものであるといえるだろう。したがって、無類の親しみや一体感があって当たり前なのである。

いわば、3次元レベルの私・・は、偽(にせ)あるいは一時の変な・・わたしである。

そしてその真我の領域では、偽や一時のわたしもすべて包み込む、すべて受け入れているのだ。そう、大きいも小さいも、緻密も粗いも、、、すべては無限の可能性の中にあるものだからだ。

●故郷への帰還

大いなる光との遭遇と一体化、つまり臨死体験は、元々私たちがいた次元領域にいったん戻ってしまう体験を指すともいえるのだ。

大いなる光とは、無限の叡智、愛、可能性に満ちた言わば魂の故郷ふるさとである。

とんでもない怖い臨死体験どころの話ではない。全くその逆である。

知らないとは実に恐ろしいことだ。

・・・

わたしたちの本質・魂は、元々その根源に近い波動領域、高次元領域の存在であるが、

神の無限の自己認識・創造の使命を各方面で担うため、

体験を通して無限を学ぶため、

敢えてその全一なる根源領域から出て来て、

あらゆる各方面、各次元、各側面、無数の次元世界へと至り、

例えばこの地球のような次元世界に次元降下して入り込み、

その世界の荒い次元波動のおかげで、どんどん次元が降下し、

自己の何たるかをすべて忘れてしまい、

自分は死んだら終わりの偶然の肉体存在であるという、

本来なら到底あり得ないような、もうこれ以下はないような、

辺境世界的な信念形、極限近い自己卑下的自己認識までに至ったのだ。

・・・

死をこわい怖いと信じ込んでいるこの世の信念体系、

実際は、怖いのは・・この世界の無知そのものである。

無知をベースに恐怖で囲われた世界、この3次元現実世界である。

あらゆることを知っているとされている人たち、人口知能等は、

この次元世界の無数に作られた概念を膨大に記憶しているかもしれないが、

この次元そのものを越えることは出来ない。

 

しかしながら、根源から分岐した魂としての私たちは・・

もともと次元を超えた存在である。

すなわち次元(無限の波動領域)を内に含んでいるため、

さまざまな次元で経験・体験をすることが出来るのだ。

だから、いまこの地球という3次元的世界でも、

わたし・・として存在しているのである。

今・・あなたとして・・存在しているのである。

・・・

ところで、あなたとは何だろうか?

いまだにこの地で多くの人が漠然と信じ込んでいる、

死んだら終わりの肉体個人であるのだろうか?

 

 

仏画の曼荼羅は、仏さまが並んでいる絵という意味ではなく、「魂」の無数の繋がりを意味しており、大いなる光(波動)の中には無数の進化する魂の体系が示されていると理解できる。

 

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 

 

 

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臨死体験(5)次元トンネル

2023-05-20 08:44:32 | 臨死体験

臨死体験には様々な特徴があるが、体験者は肉体の死後に「トンネル」に入ったとか通過したという経験が多い。

もちろんトンネルに入るのは肉体ではなく、意識体というべきものである。知覚する主体としての意識が、トンネルに遭遇し通過することで、いわゆるあちら側へと移行するということだ。

これは3次元世界での、異なった地域と地域の間の「トンネル」と同じような次元間の移動と考えられる。こちらとあちら、次元の違う世界の間を結んでいるトンネル・次元間移行トンネルともいえよう。

「臨死体験 9つの証拠」ブックマン社 16頁より、

「次に気が付くと、波に身を浸してゆらゆら揺れているような感じでトンネルの入り口にいた。トンネルの中は明るく、壁は柔らかく波打ち、前方の明るい一点に向かって狭まりながらどんどん明るさを増していった。」

「私たち(私と霊的ガイド)は猛スピードでトンネルに入った。トンネルの中は、青、黄、白、緑、赤など様々な色で出来ていた。」

このように、トンネル内などの閉鎖空間に入ったり、通り抜けたりしましたか?」という質問に、33.8%が「はい」と答えている。

・・・

何度も繰り返すが、人間は単なる肉体ではなく、大きく言えば

①肉体、②精神、③魂という多次元的複合構造体である。

 

科学的な言い方で説明すれば、<わたし>の実体・・とは、多重・多次元的に組み合わさっているエネルギー波動である。

肉体・こころ・思考・魂・記憶などもすべて、異なる振動領域に属する波動エネルギー体ということだ。

言わば<わたし>の本質は、多次元的エネルギー波動であるため、我々の身近な環境の物質や、より精妙な思考・想念という高次の波動帯域も含まれる世界を構成する。

この世の世界も、あなたやわたしたち、その他多くの人たちの意識・多次元エネルギー波動で組み合わさって創られている。

つまり目に見える世界・宇宙は・・神が勝手に造っているのではなく、

あなたやわたしたち、それぞれの意識体・魂という名の多次元エネルギー波動体によって共同創造されているということだ。

・・・

言い換えれば、もっとも緻密で、精緻、そして多次元宇宙において、もっとも超・超・高振動なエネルギー振動体が・・わたしたちの本体・魂・意識体であると言って良い。

わたしたちの本質は・・意識・・魂・・存在する最高次元の振動エネルギー体・・である。

・・・

このように、わたしたちの本質である霊体、魂・意識体は、最高次元・神・根源・原初の振動エネルギーから派生しており、従って、わたしたちの魂は、わたしたちの宇宙の根源ということである。

つまり、わたしたち・・無数の魂は、多重的・多次元的存在である。

わたしたちは肉体的波動領域、精神的波動領域、魂的波動領域・・全てで創られているわけである。

 

従って、我々がこの世界において「死ぬ」・・ということは、肉体・精神・魂:意識体の中の、物質エネルギー波動帯域である「肉体」の部分がなくなる、外れるということであり、

肉体次元(3次元物質領域)に同化していた魂・意識が、この3次元を離れて、本来の高次元領域に戻る・・ことだ。

意識体が肉体から外れ、魂・意識の故郷(出所・ふるさと)の次元にいったん帰還する・・ということ

 

この世での生まれ故郷にも、懐かしさや郷愁、親しい親兄弟、昔から知っている多くの人たちがいるように、

魂の故郷・ふるさとは・・この世とは全く次元が違う、時間・空間を超えた存在様式や、懐かしさ・安心感・幸福感、永遠なる実在感、さらには無数の親密なる魂の親兄弟・姉妹、知人・友人などがいるのは至極当然のことなのである。

言い方を変えれば、この世で死ぬという事は、

肉体・精神・魂のうち、肉体が外れてしまうことで、肉体のない精神・魂になってしまう状況であり、

たちまちの肉体自我の外れた、高次のエネルギー・波動状態に戻るということでもある。

魂・意識は、高次のエネルギー・振動領域にいったん帰還するのである。

・・・

当然のことながら、、

このことを知らないまま死んでしまうと、魂に付随する精神によってその状況に面食らい、混乱することにもなる。

臨死体験者が、びっくり仰天した死後の体験を報告するのは、自分が肉体であると思いこんでたからに外ならず、

その経験を経由して大いに魂の成長が促されるのは、自分が肉体レベルを超えた高次元の意識体であることに、否応も無く遭遇するからこそなのだ。

これら前世紀から今世紀での臨死体験者の急増や報告は、この世界が今までとは違う、より高い次元世界へと移行していることの1つの証拠なのである。

そう、今はもうその移行期なのである。

 

トンネルは場所と場所、時空と時空、次元と次元をつなぐ通路、架け橋、あるいは連結グリッドのようなもの、・・必ずと言って良いほど先に光があるものだ。

・・・

話が変わるが、例えばこの天の川銀河の画像は、膨大な数の星々、つまり多次元宇宙・世界の存在を示している。

例えば地球に似た惑星や、より高次の惑星・恒星などが何億・何兆も存在していることを示しているのだ。

地球のような世界が、この宇宙に何億・何兆もあるという話だが、実に壮大・無限の話ではなかろうか?

ある意味で、このどれかに、あなたの中にある親密な波動領域、より高次の振動エネルギー領域があってもおかしくはない。

そこは多次元宇宙における、あなたの1つの魂の故郷・・なのかもしれない。

 

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 

 

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臨死体験(4)超越的感情

2023-05-18 06:58:50 | 臨死体験

臨死体験時、意識が肉体を外れた時には、その多くの人が圧倒的な感情の波を体験している。

圧倒的で、強烈な感情、多くの場合は実にポジティブなものである。

・・・・・

「臨死体験 9つの証拠」(ブックマン社)15頁~

(臨死体験時の ”強烈な感情” に関してのアンケート)

ーーーーーーー

「説明するのはすごく難しい・・・。この感覚を言葉で説明できそうにないが、とにかくやってみる。(それは・・)

 絶対的で無条件に包み込むような、

 愛、慈悲、平和、あたたかさ、安全、帰属感、理解、

 故郷に戻ったという圧倒的な感覚・・そして喜び。

(また他の人の表現では、)

「愛、喜び、幸福感、ありとあらゆる素晴らしい感覚を一挙に感じた」

「光に到達したとき、人生が愛と幸せで満たされた。それいがいのものは存在しなかった。強烈な感覚。すごく強烈で無限だった。」

「愛と平和と美しさを非常に強く感じたが、言葉に表せない。」

 

このように、「やすらぎと心地よさを感じましたか?」という質問に対し。76.2%が「信じられないほどのやすらぎと心地よさ」を感じたと回答。

また、「あなたは喜びを感じましたか?」という質問に対しては52.5%が「信じられないほどの喜び」を感じたと答えている。

臨死体験を恐ろしいと感じた回答者はごく少数だった。・・・

ーーーーー以上抜粋。

 

 

・・・・・・

読者は既に察知しているだろうが、この世界に生きている人間たちは、実際に真剣に死を恐れていて、この世こそが生命のすべてだと思い込んでいることが、実はまったくの嘘である・・ということだ。

この世的な人間の形、3次元的肉体に閉じられた生存形態は、唯一の生命顕現様式などではなく、それは実に局限・制限された卑小な存在形態であるということだ。

・・・

臨死体験者の報告、告白の中での、言葉に尽くせない圧倒的な幸福感に比べ、

我々の普段の現実的な生活においては、ほんの小さな幸せな感情も、安心も、愛に満ちた感覚もほとんどないことは知っているだろう。

あなたの毎日は・・幸せだろうか??

幸せ感は・・確かに理屈・頭ではなく実感・感情から出るものだ。

・・・・

この世界では一種の最強のタブーとなっている観念がある。

それは、

存在する世界はこの世界だけであって、この世界から外れると、つまり死んでしまうと、永遠の無になってしまうという、恐ろしい?ほどの皮層的常識的観念である。

従って、世間で「死」などと言おうものなら

「・・ダメダメ・・怖い怖い・・そんなこと考えるべきじゃない!・」等で終わってしまい、それ以上行くことが出来ない。この強烈なタブーの集団的な「観念の壁」があったのだ。

死に対する恐怖が植え付けられた禁断(タブー)の観念・・、

これがこの世界の「牢獄」を作っていたのである。

 

・・

だから魂がいったんそこに参入すると、強烈な次元間ギャップによって、本来の魂の相当な記憶を忘れてしまう、さらに生死を繰り返す際も、毎回毎回の人生の記憶さえも忘れ、

自分とは何か?を毎回忘れた状況でスタートするために、多くの場合、牢獄のこちら側に長く滞在する羽目になる、

つまり輪廻せざるを得なくなるということだ。

なぜならばそこを出るというのは恐怖の死・・なのである。

これは海千山千の覇者が、小さなノミを恐れているようなものであり、笑うに笑えない状況とも言えるではないか。

・・・

ところが、前世紀から増えてきた多くの臨死体験者達は、一度「死の恐怖」を乗り越えざるを得なかった人たちであり、それも理由あって再び戻ってきた人である。

彼らが戻ってこなければ、この世界への死の真実の浸透もままならなかったはずである。

幸か不幸か、臨死体験をする羽目になった人たち、

タブーを乗り越えて経験する・科学的検証をする、そういう実践的な人たちが増えてきたおかげで、1万年~何千年にもわたって存在した禁断(タブー)の観念が消えてきたのである。

 

この世界では一種の最強のタブーとなっている観念があった。

それは、

世界はこの世界だけあって、この世界から外れると、つまり死んでしまうと、永遠の無になってしまうという常識的観念である。

従って、世間で「死」などと言おうものなら

「・・ダメダメ・・怖い怖い・・そんなこと考えるべきじゃない!・」等で終わってしまい、

それ以上探求することが出来ない。そのような、強烈なタブーの集団的な「観念の壁」があったのだ。

残念ながら、今でも信じている人が多いのも事実である。

 

しかし、真実・事実を知る人たちは、すでにそれが壊れている、

というよりも、それは幻想であり、はなから存在しなかったという事を・・すでに知っているのだ。

 

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

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