かいつまん科学的な「次元」の考え方を紹介したが、ここで思い出さねばならないことは、あれらこれらすべて・・意識の働き・・であるということだ。
どういうことかといえば、
物質の微小要素であるクオークの振動パターンの組み合わせによって、物質やあるいはそれらを包含する次元が存在するという難しい理論も、
人間が観測・観察に基づいて、様々な思考を巡らしている範囲の話であるということだ。
例えば、理論や予想の実証実験が行われた・・証明された・・、法則が発見された・・と言っても、それは人間の意識の働きの上でのことなのである。
実験が実験で勝手に行われ、法則が勝手に自分自身を発見するわけではない。
全ては「意識」の働きの上に行われることに気づかなければならない。
・・・
物質や、観察や思考が、私たちと別個に一人歩きは出来ないのである。
世界・宇宙が意識を抜きに、それそのものが勝手に存在しているわけではないということである。
気づくこと、意識することなく・・その対象物は存在し得ない。
低次元・高次元といえども、意識と無関係に別個にあるわけではないということだ。
高次元世界?・・ここではなく、どっか別の時空世界?という風に考えるだろうが、そうではない。
いやそれが存在するパラレルワールドであるとしても、それよりも低次元にいては、そこと交差することはない。
現在の世界認識である四次元より超えた、高次の五次元も、
今ここ、ただいま・・在るけれど、それが顕在化していないだけなのである。
意識内に顕在化しないものは、その知覚・対象世界には投影できないのだ。
仮に、一気にあなたが高次元に入ったとして?・・低次元のあなたはどうなってしまうのか?
自分にとって何か都合の良い環境・物が与えられると考えるのは、実に3次元的な肉体自我的発想であることに気づけるだろうか・・・・。
何度も繰り返さなければならない肝心なところは、ここのところだ。
様々な事象、現実とされるものは・・”意識”の・・・知覚・認識対象だということだ。
わたしの世界とは・わたしの意識の展開する世界のことであり、世界・宇宙といえどもそれは・・わたしの観ている、気づいている、意識的な対象世界なのだ。
しかしながら、勘違いすべきではないだろう。
わたしの意識が、わたしの気づいている・観察している世界として投影されているといっても、
わたしの手が、あの山河を造ったわけではない、私の念であの惑星が出来上がったわけではない、
わたしのその時々の「思い」通りに世界が動いていると言う意味でもない。
・・そうではなく、
わたしたちの気づいている・意識している・観察・観測している世界・宇宙が・・そのまま、あるがまま・・投影され・知覚されているという事実なのだ。
意識がなくして、その意識の対象はあり得ない。
すなわち・・意識は・・世界そのものなのである。
生きているとはそういうことだ。
既に実に壮大なことが起きているのである!
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全てを弦の振動パターンで説明しようとするひも理論によれば、3次元・4次元を超える五次元も、・・実は、
今ここ(素粒子・クオークの振動パターン)に内在していて、それが未顕現であるだけ・・と言っているわけだ。
さらに、様々な振動パターンの集合形であるユニバース、宇宙も多次元構造であり、振動パターンの違い、あるいは多次元的な振動周波数帯域によって、たくさんの並行宇宙、並行世界、パラレルワールドも存在していると考えられているのだ。
並行世界、並行宇宙、パラレルワールドも・・その無限に展開する意識に対応して現れる世界である。
わたしたちは、原初のエネルギー振動で作られる、多次元世界の中で遊んでいるようなものではなかろうか。
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理論というのは人の思考の体系であることに変わりはなく、科学的現実とされるものは、実際に検証した物事とされるけれど、
それらも意識上の知覚・認識に過ぎないということである。
3次元、4次元、5次元といってもあくまでも思考上の観念体系であって、知覚・観測する世界によって検証・確認をしているのが、いわゆる科学といわれるものだ。
それは別に物理科学だけのものではない。
人が必ず経験を積んで成長するように、
意識は必然たる進化・拡大のプロセスを行っていて、
気づき(意識)⇒対象(世界)・・
さらに⇒気づき(意識)⇒対象(世界)と変化・進展・拡大している。
そして、
その意識進化するプロセスが「次元」の違いとなって現れているのである。