●魂は、無数の「わたし」で構成され繋がっている
自意識があって、意図や想いで、肉体を含む自らの存在形を表現しているのが「魂」であって、それは物質・現象を現出・投影する原因体であるからこそ、物質次元レベルを超えている。
魂は、時間や空間という時空世界を越えている。
そう、魂は時間、歴史、空間、場所という次元を超えているのだ。
だから、色々な国、様々な時代、さらには地球の波動域でない別の時空、あるいは星で、生まれ変わりという形態等によって、異なる次元や時空への自己転移、転換しつつ、魂の経験を重ねることが出来るのである。
いまあなたは、その「魂・意識の一端」からこの世界を覗いているようなものだ。
また魂である自己は、単独「1つ」ということではなく、
それこそ様々な転生経験を経験する人格達と言うか、無数の自分履歴といおうか、別バージョンのわたしと言うか、そういうとんでもなく広範囲の<自己>で構成されているのである。
いわゆる前世の記憶といわれるものは、その広大な自己の断片情報だ。
「今・我あり・・」に気付いている顕在意識は、膨大な潜在意識の氷山の一角とも言われるように、まさに無限がその特質である「宇宙意識」の、1部の意識的現れが、今の「わたし」なのである。
●人の自意識は宇宙全体の自意識と等価
単独孤独、1個2個などという物量感覚で自己定義して、自分が肉体だ、個人だと思い込んでいることは、逆に霊的な事実にそぐわわない。
個人我とは、単に広大な「わたし」の1つの側面に過ぎないということだ。
・・・
これこそが「現実」であり、今までの社会常識やら通常観念とやらは、言わば全くのマヤカシと言って良いだろう。
ウソも繰り返せば事実になる、人の信じる事実とはそういう類のものである。
「それがそうだ・・・という思い込み」によって、それぞれ「魂」の知覚可能な世界が出来上がっているのである。
そういう1つの幻想のこの世界は、今のその興行を終えようとしている。
●思い込みという自己演技プログラム
今までの世界のような低いレベルの自己認識観念、自分が肉体でしかないという「思い込み」によって、自己がスタンドアローンの個人、宇宙で孤立無援の独立自己という観念で終始することになる。
これは自己規定、自己限定を経験するための自己閉鎖プログラムのようなものだが、
そういう集団での「思い込み」によって、自分が単に肉体的・物質的存在でしかないという、狭い信念範囲の「体験」をすることになるわけだ。
そういう言わば3次元的な観念世界に在って、魂達は、もともと生とか死を超えている自己を潜在的には知っているために、
自己が消滅してしまうと言われる「死」を怖れるわけだ。
そしてその怖れから、自分だと称される儚い肉体自我に、必要以上に執着することで、自我存続のサバイバルモードが突出し、他者との争いや奪い合いという、エゴ丸出しの姿態となる。
これが地球人類の歴史の特異性であろう。
そして、これは今でも行われているし、今ではその持てる武器の威力が、昔よりはるかに大きくなってしまった状態で、それを最後に使うのかどうかという、崖上の瀬戸際まで来ているわけである。
世界は今その状況にある。
魂達よ、いつまでも寝ていてはならないのだ。
●戦争と戦争の噂の時代
そしてその最終最後の締めくくりの争い、第3次世界大戦等という言葉が、人類意識の表面にちらちら出来てきているだろう。
聖書の黙示録に「戦争と戦争の噂を聞くだろうが、まだ終わりではない」というくだりがあるが、ちょうど今がその時である。
誰でもそれが「愚かな事」だと感じていることを、どうしてもせざるを得ないという者たちは、この3次元的世界でさえも落第するレベルの魂であることを意味している。
それをここでは「霊的幼児」と呼んでいる。
メディアで様々に紹介・報道されている、経済・政治等の指導的な地位にあるとされる者たちは、その多くが、これからの人達・・・幼児的な魂達である。
その幼児たちの、それで何かを得ようとする火遊び行為が次第に燃え広がろうとしている。
いま、ちょうどそこに差し掛かっていることに気付けるだろう。
●エゴは一時の幻想の自己、それが今までのこと
しかしながら、権力・利権・虚勢・物質的快楽等という、極めて儚いものにしがみ付き、それを守るために自分たち以外の全てを廃墟にしても良いという、極大化されたエゴイズムは達せられないだろう。
地球が汚染まみれの廃墟の星になって、悲しみとともに太陽系を周回することはない・・ということだ。
「最大多数の最大幸福」という言葉があるように、「最大多数の最大不幸」を現出しようとする無知なる行為は、宇宙において持続することはない。
いわゆる「悪は栄えたためしがない」というのは、悪というものが不調和でエゴイスティックな思考と行為であるが故に、またエゴはエゴであるがゆえに・・・、エゴ同士の相互破壊、自己爆縮現象に至るということだ。
●これから起きうる地球の自浄化
この世界最後の火遊びの、その意図が明確になり、現象化に移行した段階、火付け火災の連鎖の寸前に、
その大火事は、人類のすぐそばにある「大水」で跡形もなく消されてしまうだろう。
地球自身が水浴びをする、あるいはその身を傾けて、自らに水を注ぐという言い方も出来るだろう。
当然だが、合わせて、人類の築きあげた文明の姿・形も藻屑となってしまうだろう。
そうした場合は、地震や火山噴火のレベルどころの話ではない。
●警鐘はすでに鳴っている
現在増えている地震や異常気象、火山噴火や島嶼の出現は、その警告のようなもである。
だいたい、自分の家が大火事になるのをぼんやり見ている者がいようか?
自分の体に垢や汚れが着いてしまった場合に、我慢して汚いままでいると思うのか?
規模や程度の違いはあっても、やはりお風呂や行水で洗い流すはずではないか?
地球や星々が、単なる土やガスの塊でしかないと思っているのか?
人間達に意識があるように、地球にはさらに大きな「意識」があるのだし、また地球という名の自分の身体上に住まう者たちの、その全てを知っているのは当然ではないか。
全くもって、現代文明は本当におバカな唯物論の極地にあるようなもので、どんなものにも「意識」があるという事、全てにそれなりの「魂」が宿っているという言葉すら忘れ果てた人が多くなった感がある。
山・川・草・木・国・土・悉・皆・成仏 ・・・も迷信という事にしてしまい、
「物・銭・金」、あるいは 「人・物・金」に関するもの以外は、全て「とんでも」や「迷信」と信じ込んでいるようではないか。
もう騙され続けてはならない時期に来てしまっているのだ。
千載一遇の機会、泥のような世界で再び神意識として目覚める体験をするために来た魂達にとって、
迷妄観念に沈んだままの状態で、現象化の始まっている地球自身の一大浄化に遭遇する愚かさだけは、避けるべきではないのか。
そう、くどい様だが、自己自身のこころの浄化こそが今の喫緊のテーマなのである。
自意識があって、意図や想いで、肉体を含む自らの存在形を表現しているのが「魂」であって、それは物質・現象を現出・投影する原因体であるからこそ、物質次元レベルを超えている。
魂は、時間や空間という時空世界を越えている。
そう、魂は時間、歴史、空間、場所という次元を超えているのだ。
だから、色々な国、様々な時代、さらには地球の波動域でない別の時空、あるいは星で、生まれ変わりという形態等によって、異なる次元や時空への自己転移、転換しつつ、魂の経験を重ねることが出来るのである。
いまあなたは、その「魂・意識の一端」からこの世界を覗いているようなものだ。
また魂である自己は、単独「1つ」ということではなく、
それこそ様々な転生経験を経験する人格達と言うか、無数の自分履歴といおうか、別バージョンのわたしと言うか、そういうとんでもなく広範囲の<自己>で構成されているのである。
いわゆる前世の記憶といわれるものは、その広大な自己の断片情報だ。
「今・我あり・・」に気付いている顕在意識は、膨大な潜在意識の氷山の一角とも言われるように、まさに無限がその特質である「宇宙意識」の、1部の意識的現れが、今の「わたし」なのである。
●人の自意識は宇宙全体の自意識と等価
単独孤独、1個2個などという物量感覚で自己定義して、自分が肉体だ、個人だと思い込んでいることは、逆に霊的な事実にそぐわわない。
個人我とは、単に広大な「わたし」の1つの側面に過ぎないということだ。
・・・
これこそが「現実」であり、今までの社会常識やら通常観念とやらは、言わば全くのマヤカシと言って良いだろう。
ウソも繰り返せば事実になる、人の信じる事実とはそういう類のものである。
「それがそうだ・・・という思い込み」によって、それぞれ「魂」の知覚可能な世界が出来上がっているのである。
そういう1つの幻想のこの世界は、今のその興行を終えようとしている。
●思い込みという自己演技プログラム
今までの世界のような低いレベルの自己認識観念、自分が肉体でしかないという「思い込み」によって、自己がスタンドアローンの個人、宇宙で孤立無援の独立自己という観念で終始することになる。
これは自己規定、自己限定を経験するための自己閉鎖プログラムのようなものだが、
そういう集団での「思い込み」によって、自分が単に肉体的・物質的存在でしかないという、狭い信念範囲の「体験」をすることになるわけだ。
そういう言わば3次元的な観念世界に在って、魂達は、もともと生とか死を超えている自己を潜在的には知っているために、
自己が消滅してしまうと言われる「死」を怖れるわけだ。
そしてその怖れから、自分だと称される儚い肉体自我に、必要以上に執着することで、自我存続のサバイバルモードが突出し、他者との争いや奪い合いという、エゴ丸出しの姿態となる。
これが地球人類の歴史の特異性であろう。
そして、これは今でも行われているし、今ではその持てる武器の威力が、昔よりはるかに大きくなってしまった状態で、それを最後に使うのかどうかという、崖上の瀬戸際まで来ているわけである。
世界は今その状況にある。
魂達よ、いつまでも寝ていてはならないのだ。
●戦争と戦争の噂の時代
そしてその最終最後の締めくくりの争い、第3次世界大戦等という言葉が、人類意識の表面にちらちら出来てきているだろう。
聖書の黙示録に「戦争と戦争の噂を聞くだろうが、まだ終わりではない」というくだりがあるが、ちょうど今がその時である。
誰でもそれが「愚かな事」だと感じていることを、どうしてもせざるを得ないという者たちは、この3次元的世界でさえも落第するレベルの魂であることを意味している。
それをここでは「霊的幼児」と呼んでいる。
メディアで様々に紹介・報道されている、経済・政治等の指導的な地位にあるとされる者たちは、その多くが、これからの人達・・・幼児的な魂達である。
その幼児たちの、それで何かを得ようとする火遊び行為が次第に燃え広がろうとしている。
いま、ちょうどそこに差し掛かっていることに気付けるだろう。
●エゴは一時の幻想の自己、それが今までのこと
しかしながら、権力・利権・虚勢・物質的快楽等という、極めて儚いものにしがみ付き、それを守るために自分たち以外の全てを廃墟にしても良いという、極大化されたエゴイズムは達せられないだろう。
地球が汚染まみれの廃墟の星になって、悲しみとともに太陽系を周回することはない・・ということだ。
「最大多数の最大幸福」という言葉があるように、「最大多数の最大不幸」を現出しようとする無知なる行為は、宇宙において持続することはない。
いわゆる「悪は栄えたためしがない」というのは、悪というものが不調和でエゴイスティックな思考と行為であるが故に、またエゴはエゴであるがゆえに・・・、エゴ同士の相互破壊、自己爆縮現象に至るということだ。
●これから起きうる地球の自浄化
この世界最後の火遊びの、その意図が明確になり、現象化に移行した段階、火付け火災の連鎖の寸前に、
その大火事は、人類のすぐそばにある「大水」で跡形もなく消されてしまうだろう。
地球自身が水浴びをする、あるいはその身を傾けて、自らに水を注ぐという言い方も出来るだろう。
当然だが、合わせて、人類の築きあげた文明の姿・形も藻屑となってしまうだろう。
そうした場合は、地震や火山噴火のレベルどころの話ではない。
●警鐘はすでに鳴っている
現在増えている地震や異常気象、火山噴火や島嶼の出現は、その警告のようなもである。
だいたい、自分の家が大火事になるのをぼんやり見ている者がいようか?
自分の体に垢や汚れが着いてしまった場合に、我慢して汚いままでいると思うのか?
規模や程度の違いはあっても、やはりお風呂や行水で洗い流すはずではないか?
地球や星々が、単なる土やガスの塊でしかないと思っているのか?
人間達に意識があるように、地球にはさらに大きな「意識」があるのだし、また地球という名の自分の身体上に住まう者たちの、その全てを知っているのは当然ではないか。
全くもって、現代文明は本当におバカな唯物論の極地にあるようなもので、どんなものにも「意識」があるという事、全てにそれなりの「魂」が宿っているという言葉すら忘れ果てた人が多くなった感がある。
山・川・草・木・国・土・悉・皆・成仏 ・・・も迷信という事にしてしまい、
「物・銭・金」、あるいは 「人・物・金」に関するもの以外は、全て「とんでも」や「迷信」と信じ込んでいるようではないか。
もう騙され続けてはならない時期に来てしまっているのだ。
千載一遇の機会、泥のような世界で再び神意識として目覚める体験をするために来た魂達にとって、
迷妄観念に沈んだままの状態で、現象化の始まっている地球自身の一大浄化に遭遇する愚かさだけは、避けるべきではないのか。
そう、くどい様だが、自己自身のこころの浄化こそが今の喫緊のテーマなのである。