気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

実践・意識の科学(前掲)

2022-10-20 06:27:45 | 意識の科学(総合編)

わたしたちは皆、創造者の子供である。

創造者のことを神と呼ぶならば、わたしたちは皆「神の子」である。

これは宗教的な思わせぶりな希望をいっているのではなく事実なのだ。

事実として、わたしたち自身が創造主の子らであるということだ。

単に観念的にそうかもしれないと、途方もない想像をして終わりではなく、

これが事実であると認識しなければなるまい。

この世界の意識・魂たちは、実に途方もない迷路のような世界にいた。

・・・

人間は単なる知的動物であり、いつか生まれそして死んだら終わりだと、

繰り返すが・・そういう実に、、”途方もない” 嘘・幻想の世界にいたのである。

この次元世界は、自分自身が何者かを完全に忘れるという、言わば次元降下した存在ゲーム場のようなものだ。昨今のスピリチュアルな言い方では「マトリクス」の世界。

 

真の・・わたしとは何か?・・・その問いかけが「意識」の中に芽生え、そして執拗に探求しないままでは、そのまま永遠の時間・・その枠内に幽閉される・・、いや自らでその中に同化してしまうという存在体験のゲームである。

 

本当に余計なお世話的表現ながら、

あなたは今でも、偶然生まれ、肉体生を一定期間続け、そして死んだら永久に終わりの・・刹那的な存在であると思っているのだろうか?

そして何だかわからないが、皆々と同じように、死ぬまであれこれ忙しく生きているだけなのだろうか?

 

社会・周囲の皆々がそういう風に信じている状況を観察して、それが正しいという強い慣性的とばりの中にいなければならないと思っているのだろうか?

何も知らず、何も気づかぬ多くの民衆こそが正しいと思っているのだろうか?

・・・

いいや、そうではあるまい。

何度も言って申し訳ないと思うが、この文章を読んでいること自体がその証拠である。

もう既に・・あなたは自らがいわば創造主の子、神の子、森羅万象を創造・演出し続ける大いなる無限の意識の・・自覚ある一片であると気付くことが出来るはずである。

なんとなくでも・・・。

・・・

しかしながら、この当方もない闇のような、局限された時空間の中に同化していた重い現実から、どんな努力もなく一足飛びに大いなる自由で奔放な創造主の子へと飛躍することはないだろう。

なぜならば・・・、

今のそれぞれの「現実」と言われる状況・・へと至ったこと、

それほどまでに私たちは相当に低い次元へと自らの意識をおとしめて来たからには、その現実なる状況を創り上げている意識の習慣なるものを確実に解いて、外して行かねばならないからだ。

また、それが次元降下した神自身の・・大いなる再発見が可能となるのだ。

自らが低次元に身をやつしたからには・・もちろん自らが再創造してゆくということなのだ。

皆々・・ここまでよく来たものだ!

そうは思わないだろうか?

・・・

終局の近い古い世界の有り様、人々の有り様を嘆くなかれ、

それは崩壊し、再生されなければならないのだ。

当然ながら崩壊は新たな再生を必然的に伴うのである。

そしてより自由度の高い魂・意識の表現世界にシフトするのだ。

それが真のリセットである。

 

死んだら終わりでもなければ、崩壊したらすべて終わりでもない。

一人一人の意識が変わる・・そしてその投影たる世界が必然的に変わってゆくのだ。

一人一人が死のうと生きようと、その一人一人の根源である大いなるひとつの無限の意識は、その姿かたちを変えるだけである。

その「わたし」とは・・その変化の姿・物質という素材ではなく・・それを創造しつつ観察している「意識」であると気付いただろうか。

観察は意識の働きであり、意識は・・気づくことであり、その集合形が世界となって出現していることに・・・気づいただろうか?

そう、神とは気づくことで・・すなわち自身の姿かたちを現わす原理のようなものだ。

 

意識は・・物質に先行するものであり、その逆ではないと・・悟っただろうか?

なんとなくでも、納得しつつでも気づいたならば、すでのこの次元マトリクスはあなたにとって・・崩壊を始めているのである。

今この世界がなんとなく・確実に・崩壊を始めているように・・・。

 

 

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

・・・

次回からは、「意識の実践」というタイトルで順次掲示してゆく予定です。実践とは・・探求と理解とそして実感から必然的に生じます。

 

 

 

 

 

 

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魂はどこから来てどこにいくのか(その4)

2022-06-22 07:49:28 | 意識の科学(総合編)

前記事からのつづき よろず屋寸話録 2022年さんより  )

・・・・

「おかえりなさい」と迎え入れられる

 ここまでのプロセスは本当に気持ちのいいものでした。痛みや苦しみを感じた記憶はまったくありません。

 スポンと抜けて広がっていくときにも、とても気持ちがいいのです。


 ただ不思議だったのは、自分の体が見えないこと。下を見下ろせば、横になっている自分の肉体が見えるわけですが、いつもだったら手や足が見える位置に手も足も何も見えません。ただ自分という意識だけがそこにあってまわりを見ているような、不思議な感覚でした。

 その間、意識はずっと途切れることはありませんでした。


 心地よさに包まれて、スーッと気が遠くなっていって、完全に途切れるかと思いきや、途切れないまま、肉体からスポンと抜け出て、意識だけが宙に浮いているような状態になったのです。
 お医者さんの「ご臨終です」といった言葉も実はちゃんと聞いていましたし、そのあと、まわりの人たちが忙しそうに動いている様子も眺めていました。また、その時代の僕には娘がいて、娘が子どもを抱えながら泣いている姿も見ていました。


 ただ、なんで泣いているんだろう、なんであんなにバタバタしているんだろうと、すごく不思議でした。「あなたが死んだから泣いているんじゃない!」と言いたくなるかもしれませんが、そのときの自分は不思議な夢を見ているような感じだったのです。そんな感覚のまま漂っていたことをすごく鮮明に覚えています。

 しばらくはそうやってボーッとまわりを見ていたのですが、だんだん、だんだんと意識がこの世から遠のいていくと、今度は、眩(まぶ)しい光の点のようなものが見えるようになりました。すごく眩しいけれど、そこに光源があって物理的に眩しいという感じではなく、なんだか脳の中心にある松果体のあたりが眩しいのです。


 もちろん、体はないのだから松果体なんてないはずです。でも、そのときの自分のなかでは、「松果体が眩しい」という表現がぴったりくるような感覚でした。


 ああ眩しい、いったいどこが眩しいのだろう--と、光の点のあるほうを見ていると、もう、ものすごくきれいで明るくて、釘付けになるのです。その光から目が離せない。抗えない魅力があり、ずーっと凝視していると、その光がどんどん、どんどん拡大して大きくなっていきました。
 そして光が大きくなっていくと、その光のなかに人影が見えてくる。それは姿かたちではなく、ただのシルエットなのですが、見ているとすごく懐かしくて、「ああ、おばあちゃんだ」「ああ、おじいちゃんだ」とわかるのです。


 「どうしたの、おばあちゃん」「どうしたの、おじいちゃん」なんてやっている間に、どんどんそちらの世界のほうに意識が引き寄せられていくというか、自分も向こう側に向かっていっているし、向こう側も自分のほうに寄ってくるような感覚があり、気づいたときにはその光のなかにすっぽりと入っていました。
 そして、そのときにはもう、こちらの世界の娘の姿や孫の姿、お医者さんの姿は一切見えなくなっていました。

 次に見えたのは、たくさんの人影です。
 暗闇のなかにずっといると、最初は暗くて何も見えなくても、だんだん目が慣れてきて、うっすらとまわりが見えてくることってありますよね。それと同じように、最初は光のなかでシルエットにしか見えなかったおばあちゃんやおじいちゃんの姿かたちがだんだんはっきりと現われてくるのです。


 でも、自分が知っている亡くなったときのおばあちゃん、おじいちゃんの姿ではなく、ものすごく若返っていました。自分が会ったことのないはずの若いおばあちゃん、おじいちゃんの姿なのですが、それでもなぜか「おばあちゃんだ」「おじいちゃんだ」とわかるのです。それは不思議な感覚でした。
 そして、わらわらと懐かしい人たちがまわりに集まってきて、「よく頑張ったね」「お疲れさま」「おかえりなさい」というようなねぎらいの言葉のようなものをかけてもらいながら、みんなに迎え入れてもらいました。そのことは、温かい記憶として、ものすごく色濃く自分のなかに残っています。


 そのときはまだ何が起きているのか、よくわかってはいません。ただ、自分のなかでは、「ああ、故郷に帰ってきたんだ」と、とても懐かしく感じていました。
 よく言われる「ふるさとに帰る」「田舎に帰る」という感覚の、もっともっと強力な懐かしさを感じたのです。そして、みんなに抱えられるようにしてどこかへ導かれていったのですが、僕の記憶は一旦そこで途切れています。

以上抜粋)

 

魂・意識の創造・投影力は無限であるため、

意識の根幹にある「気付く」という働きによって、

知覚世界が詳細・無限にも現出しているのだ。

あなたやわたしたちが・・現実と言っているこの世界も、

まさしく・・意識の創造・投影した世界に他ならない。

 

しかしながら、その世界を観ている意識・・わたしたちが、

それに気づかず・知らず、

つまり、見ている物・事物・環境が勝手に存在している物と思い込み、

どうしようもない現実と思い込んでいるのである。

現実の中に、事物や環境・世界・宇宙のなかに、

自分である肉体個人がいて、

肉体個人が死んだらそれで終わりだと想い込んでいるのだ。

 

そういう思い込み、信念体系の世界を3次元世界という。

そういう信念の意識体の集合した世界の1つが、

この地球という世界であった。

 

3次元世界に生まれるという事は、

そういった信念体系の真っただ中に生まれるという事であり、

魂・意識が低い認識世界に順応するため、

魂の周波数的解釈で言えば、それが粗く・低位の振動状態に陥り、

無数の記憶を封印された状態で生まれてくることになる。

 

わたしは誰??、ここはどこ??・・さえも問いかけることのできない、

無意識的な意識からスタートすることになる。

例えばあなたが、赤ん坊を見ると・・

その状態にある魂を観察できるはずだ。

 

しかしながら、膨大な魂・意識のほとんどを封印したところで、

根源より発した無限のその存在性、記憶自体消滅することは出来ず、

かならず、かならず、間違いなく、

本来の輝きを取りもどすことになるのが「運命」である。

 

目覚めてゆくこと・・これが魂の確実な「運命」なのである。

記憶を喪失した状態、自己認識の極めて低い状態によって、

この世界での不幸な生まれ変わり・輪廻に陥ったとしても、

 

運命・・命を運ぶ・・幾多の人生の変遷を経ながら、

この世界独特の無知や痛み、冷酷さや無謀さを嫌というほど経験し、

その無意味さや無常さを嫌というほど味わいながら、

本来の自己、真のわたしの輝きの方向にいつしか誘われ、

その魂の膨大な記憶の封印を解いてゆくことになるのだ。

 

そしていつか・・

自分は死んだらどうなるのか?と

真剣に問いかけ調べ始め、

いやそれよりも、

わたしは誰か?・・・わたしとは何か?・・と、

真摯に・・問いかけることになる。

 

ここに至ることは、その魂・意識はもう、

すでに3次元レベルを超える・・峠にまで来たという事であり、

ようやく洞穴・すり鉢のような暗い世界から上昇したのだ。

 

嗚呼、すでに、

大いなる自己へと続く、

意識の拡大への道が開かれていることに気付くはずだ。

それは魂・意識の根源・ふるさとへの帰還の道である。

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、

誠に有難うございました。

 

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魂はどこから来てどこに行くのか(その3)

2022-06-19 06:27:30 | 意識の科学(総合編)

肉体とは、

その次元世界・環境を「意識」が知覚・体験するための

1つの「同調機能」であり、

その肉体によって意識が作られるのではない!

 

わたしは・・体だ・・

わたしは・・女だ・男だ・・

わたしは今嬉しい・・・などの・・・わたし・・

その。。わたし・・に気付いている・・中枢・本質が魂・意識である。

生きることも、死ぬことも・・次に続く「意識の変遷」であり、

生きる過程も、死ぬ過程も・・

目くるめく感じる様々なことも、

意識の・・知覚体験に過ぎない。

真のわたし・・真我こそがすべての体験者である。

意識・魂・真我・宇宙意識と呼ばれる主体・・・それは、

様々な体験フィールド、宇宙、世界、時空、次元を超えて存在する。

それが・・・わたし・・・である。

 

そしてそのわたしは・・無数のわたしをも包含しているため

意識が大いなる源へと帰還する道、

高次へと続く道には無数の愛すべき「同胞」に巡り合うのである。

愛すべき同胞とは、

かつての私であり、わたしの仲間であり、また敵対者であり、

この世、あの世を問わず、

様々な生体験を共に演じた魂・意識の同胞である。

それらも・・今・・あなたやわたしのこの意識に存在しているのだ。

 

体験世界自体、五感で映じる世界、無常の世界のどこにも真実はない。

それを映し出す・創出する・知覚して創造するところの・・

あなたの「意識」に深く・高く気づいてゆかねばならない。

あなたの意識に自らで気づいてゆく過程において、

必然的に・・より高次で、優しく・強く・楽しく・愛深き、

知覚世界が出現してくるのである。

 

自身が・・優しく・知恵深く・強く・楽しき意識を深めること、

それを行為や想いで表現することで

自ずと・・それが反映されてゆくだけのことだ。

 

意識は・・時空を超えて存在しているため、

肉体にだけ固定されてはいない。

この次元世界では、

わたし意識が肉体に固定され、その中にあると感じ込んでいる、

また愚かにもわたし・意識が・肉体であると信じこんでいる存在が多いが、

意識は・・時空を超えて存在しているため、

肉体にだけ固定されてはいない。

というよりも、

あなたの肉体・環境・周辺世界・宇宙さえも、

あなたの意識の投影物なのである。

 

 

 

前記事からのつづき よろず屋寸話録 2022年さんより  )

死のプロセスの記憶

 ある過去世では、病院のような施設で亡くなりました。そのときの記憶は、非常に色濃く残っています。どこの国に住んでいた時代なのかはっきりとしませんが、肌の色が黒い時代でした。


 そのときの僕は病を患(わずら)っていて、息苦しさや体の痛みもあり、動くこともできませんでした。もう本当に疲れ果ててしまっていました。そうしたなかで、死への移行がはじまったのです。


 亡くなる前は、自分は「これ以上の苦しみは嫌だ」「これ以上の辛さは嫌だ」「死んでいくなかでまた辛い、不快な思いをするんじゃないか……」と思っていましたが、現実はそうではありませんでした。むしろ、突然、なんとも言えない心地よさに包まれていることに気づいたのです。


 正しい表現かはわかりませんが、脳内モルヒネのようなものが分泌されたかのように、すごく気持ちが良くなって、その心地よい感覚がきざ波のようにフワーツと全身に広がっていった。そうすると、「痛かったらどうしよう」「苦しかったらどうしよう」などと、それまであれこれ考えていたすべての心配事がどうでもよくなっていきました。


 その心地よさに身を任せているうちに、だんだんとまわりの声や物音が遠く感じられるようになりました。それまでは家族が「お父さん」と話しかける声もはっきり聞こえていましたし、お医者さんが処置をしてくれていることもしっかり感じていましたが、だんだん、だんだんとそれらに意識が向かなくなっていったのです。


 「お父さん、しっかりして」というような家族の声はぼんやり聞こえるものの、もう“こちら側”に意識を向けられないのです。それよりも、心地よさのほうが勝るというか、この世ではないほうから何かが聞こえているような、なんとなく呼ばれているような気がするのです。なんだかわからない吸引力が働いて、どうしても抗(あらが)えない、そんな感覚でした。


 でも、「お父さん!」などと言われると一瞬、ピクッとこちら側に反応するのですね。でも、すぐにまた向こう側に引っ張られる。そんな体感を何度か繰り返しているうちに、まわりで僕を呼ぶ家族の声、お医者さんの声がどんどん遠くなっていって、「あ、このまま気を失っちゃうんだな」と思ったことを覚えています。


 でも、気を失うことはありませんでした。まわりの声も音も遠くなっていくけれども、かすかにずっと聞こえたまま、「ああ、何か聞こえているな……」と思っていたら、突如、ウワーッと大きくなった。それが肉体を脱いだ瞬間でした。

 肉体を脱ぐと、まわりの景色も音もものすごく色濃く感じられます。
 また、よく、死んだあとに自分の体を上から覗(のぞ)くって、言いますよね。本当に上から見下ろしていました。

 それから、肉体を脱ぐ瞬間、足元から頭のほうに向かってシューッと収縮するような感覚がありました。言葉にするのは難しいのですが、足元からシュルシュルシュルッと縮まっていって、頭のなかで丸まって一つの球体になるような、そんな感じでした。


 そんな体感を得ながら、体がグルグルグルグルと左回りに螺旋(らせん)を描き、そのままスポンと頭側から抜けていったのです。ちなみに、「螺旋の法則」というものがあり、左回転は抜ける、右回転は入るという性質があるのですね。だから、肉体から抜けるときにも、やっぱり左回転で回っていた記憶があります。


 そして、肉体を抜け出た瞬間にフワーッと広がって、自分の体を見下ろしていたのです。

 

(その4につづく) 

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、

誠に有難うございました。

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魂はどこから来てどこにいくのか(その2)

2022-06-17 08:01:39 | 意識の科学(総合編)

あなたは、この世界へどうやって来たのか?

そして、小さな有限の時を過ごした後、

どうやって戻ってゆくのか?

さらに、今度はどこに行くのか?

いまはもう、それを思い出す時期に来ている。

 

真のわたしとは何か?

それを想い出すに従って、

大いなる故郷への帰還のプロセスにあることがわかるだろう。

 

あなたもわたしたちも、誰も皆、

優しく、暖かく、力強く、英知に満ちた

永遠なるふるさとへの嬉々とした「道」にあるのだ!

・・・・

 

 

(前記事からのつづき) よろず屋寸話録 2022年さんより

 

過去世の記憶を取り戻したきっかけ

 死後の世界というのは確実に存在し、死後の世界こそが本体である、と言い切れるのは、本で読んだり人から聞いたからではありません。自分自身の実体験があるからです。


 僕は、今の僕として生まれる前に、千回以上の輪廻転生の経験をもっています。これはかなり多いほうで、非常に古い魂と言われることもあります。


 千回もの人生をすべて覚えているわけではありませんが、記憶している過去世(過去の人生)だけでも30ほどあります。
 男性として生きたこともあれば、女性として生きたことも。時代も場所もさまざまで、もちろん立場もいろいろです。


 僕自身の魂がもっているテーマの影響で、ヒーラーや神官、シャーマン、霊能者といった霊的能力を扱う立場を多く経験していますが、決してそれらばかりではありません。ほかにも、僧侶や修道士だったこともあれば、司祭や司教、王族のための料理人だったこともありますし、海賊や物乞いだったこともありました。


 「前世は……」という話になると、中世ヨーロッパの貴族だったみたいな話をよく耳にするかもしれませんが、それは、その人の変身願望が反映されているのかもしれません。実際は、魂にとっていろいろな立ち位置を経験することが大事なので、中世の貴族ばかりということはなく、誰もが、いろいろな時代、立場を経験してきています。

 そして、自分が記憶している30ほどの過去世のなかには、死後の世界のこと、さらには死のプロセスについても記憶しているものもあるのですね。自分がどういう形で亡くなり、その後、どうやって向こうの世界、いわゆる霊界に渡ったのかという記憶のある過去世がいくつかあるのです。

 その記憶を生まれたときから、すべてもっていたわけではありません。僕の過去世の記憶が戻り始めたのは、20代半ばの頃でした。門脇法子さんのヒプノセラピー(催眠療法)を受けたことがきっかけです。それまでは断片的だった記憶を一気に取り戻したのです。


 当時の僕は、「自分の顔はものすごく醜(みにく)くて、人にはとても見せられないひどい顔だ」という感覚が、日常のふとした瞬間にワーツと襲ってくることがありました。それは、顔を潰したくなるような、とても激しいもので、いったいこれは何なのだろうと思った僕は、ヒプノセラピーを受けてみようと思ったのです。


 ヒプノセラピーでは、悩みの原因を探るために、今世の過去、前世、過去世の出来事へと遡っていきます。僕の場合は、ある過去世のシーンが映画のようにブワッと出てきました。
 そのときの僕は、アフリカ人の女の子で、お母さんから、今でいう虐待のようなものを受けていて、容姿についても「お前みたいなブスは一生嫁の貰い手もないからね」などといつも言われていたのです。


 突然襲ってくる「ひどい顔だ、醜い顔だ」という感覚は、まさにこの時代の僕が感じていたことでした。その過去世を思い出すと、「ああ、なるほど」とストンと腑に落ち、それ以来、「醜い」という感覚に襲われることは一切なくなりました。

 そして、このことをきっかけに「ガイド」と呼ばれる守護存在(守護天使や守護霊)たちと自由自在にコンタクトを取ることができるようになってきて、過去世の記憶にも自分で自由にアクセスすることができるようになりました。


 それまではガイドが突然話しかけてくることをキャッチしたり、僕が感じていることに答えてくれたことを、たまたまキャッチしたりすることはありましたが、今のように自由自在にコンタクトを取ることはできませんでした。


 このときのヒプノセラピーがきっかけで、霊的な感覚がパンッと開き、その過程で思い出してきたことのなかに、死ぬときの記憶もいくつかあったというわけです。

 

(その3へ つづく)

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、

誠に有難うございました。

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魂はどこから来てどこに行くのか?

2022-06-15 06:09:39 | 意識の科学(総合編)

いわゆる「魂」とは、気づいている意識といえる。

さらにその意識は、全宇宙をその気づきの対象とする、

全包容的意識・宇宙意識の個別化されたものと言えよう。

それが、それぞれの「わたし」である。

今、あなたが・・わたしとして自覚している意識は、

宇宙意識に繋がっていて、元々の本質はその「宇宙意識」なのである。

その宇宙意識は・・無数の「わたし」を含んでいて、

例えば様々な人間の・・わたし、わたし・・という、

あの人この人、あの存在・この存在という様々な個別意識も、

もとは一つの広大無辺な・・宇宙意識なのだ。

・・・

3次元レベルの「意識」では、自らの無限性に気付かないがゆえに、

賢いと言われる人も、こんな疑問を抱くのではないだろうか?

・・・

例えば人が死んだとしたら、いわゆる魂は存在出来るのか?

言い換えれば・・・、

意識は・・意識だけで存在できるのか?・・ということだろう。

人間は肉体ではないのか?

意識は頭脳が造っているのではないのか?

従って、身体とその中枢ともいえる頭脳が消滅したら、

その意識は保つことが出来ないのではないか?

 

その答えとしては、例えばこういうことになるだろうか。

 

意識(魂)は・・必ず意識(魂)の・・その知覚対象を伴って存在する。・・と。

気付きは・・気づいていることであるが、

気づいている何か・・その気づきの対象によって・・

自らが存在していることを認識する

宇宙意識は・・宇宙に気付くことで・・

自らが存在していることを認識する。

人間(個別意識)は、個別の意識対象物(肉体や環境)によって、

自らの存在していることを認識する。

これは鏡を見ることに似ている・・・。

鏡を「見て」・・・初めて・・自らの「姿」を観ることが出来る。

魂と肉体及びその環境世界との関係を言えば、

意識は、肉体・幽体・霊体及びそれらを含む様々な世界を

知覚対象として・・存在し続けるのである。

 

この言い回しが理解できるならば、

あなたは3(4)次元意識を越えている。

3(4)次元意識とは、

自分が肉体であり、環境の一部であるという意識だ。

肉体や環境・・それを越えているために、

意識は肉体・環境の生成消滅によって影響を受けない・・ということ。

意識は・・肉体の消滅によって・・消えることはあり得ないということだ。

 

言い換えれば、

肉体が意識を作るのではなく、

意識が肉体・頭脳を対象として(知覚)投影するということだ。

自らの姿を知覚することで・・肉体として存在する・・ということ。

その逆ではない。

肉体の消滅によって、

人は、いや魂・意識は消滅すること能わず・・である。

 

ーーーーーーーーーーーーー

以下は、よろずや寸話録さんのサイト 2022年版・・から抜粋した、

スピリチュアルな世界で有名な並木良和さんの実体験のお話である。

尚、霊界・幽界という世界も・・意識(魂)の知覚する世界であることには変わらず、相応の身体や環境を伴うという話でもある。

意識(魂)には階層・あるいは拡大レベルに応じた・・知覚対象世界があるという意味でもあり、

意識(魂)の成長が如何に大切かということも理解可能であろう。

 

・・・<『最高の死に方をするための最高の生き方』、p98~p101から抜粋開始>・・・

 なぜ、この世に生まれた理由をすっかり忘れてしまうのか

 ところで、人生でのテーマも目的も肉体条件も自分で選んできたはずなのに、どうして、多くの人がそのこと自体をすっかり忘れてしまうのでしょうか。せっかく何度も何度も生と死を繰り返してきたはずなのに、その過去世の記憶をほとんどの人が覚えていないのでしょうか。
 それは、これまでは「幽界」というものがあり、きちんと癒されないまま輪廻を繰り返していたからです。

 僕たちはこの世で死んで肉体を脱ぐときを迎えると、霊界に渡って、しっかり癒されてエネルギーに満ちた状態でこの世に生まれ変わる、と先ほど説明しました。
 その人生での傷も癒され、さまざまな記憶の混乱も整理され、ちゃんとリフレッシュしてから生まれ変わると、「次の人生ではこれをやって、あそこの両親のもとに生まれて……」と、明確に自分で選んでくることになります。
 そのためには、幽界ではなく、霊界へ行くことが大事なポイントだったのです。

 今までは、幽界というものがあり、この世で肉体を脱いだ魂は、まず幽界に向かいました。そこには裁く存在がいて、「あなたはこんなところが良くなかった。これがダメだった」と、罪悪感や罰のような概念を植え付けられていました。
 悪いことをしたら地獄に落ちるとか、生まれながらにして罪を背負っているといった教えは、すべて幽界からきているのです。
 この幽界のトラップにはまってしまうと、僕たちは、その人生の一つひとつを整理できないまま、傷も癒されないまま、朦朧(もうろう)とした状態で生まれ変わることになります。これを「輪廻」と言います。
 ボーッとした状態で次の人生を選ぶので、「ええっと、ここ……ね。はぁ、これで……大丈夫な気がする」みたいな、そういう曖昧さをもって、まるで記憶喪失のような状態で、次の人生に入っていきます。多くの人たちは、これまで、この輪廻を何度も何度もグルグルと繰り返してきたわけです。
 だから、「なんで生まれたの?」「わかんない」、「なんでここに来たの?」「知らなーい」、「前世は何だったの?」「え、わかんない」みたいになってしまうのです。親ガチャなどと思ってしまうのも、そのためです。

 輪廻ともう一つ、「転生」という言葉があります。
 よく「輪廻転生」と、一括(ひとくく)りに使われますよね。本書でもここまでは、あえて輪廻転生という表現を使ってきました。でも、本来、輪廻と転生はまったく別のものなのです。
 幽界に行くと、僕たちは輪廻をすることになります。
 一方、転生というのは、霊界に行くことで起きるものです。霊界に行って、完全に癒され、ちゃんとリフレッシュして、明確に「ここに生まれ変わっていくんだ」と自分で自由に選んで生まれ変わっていくことを、転生と呼びます。
 仏陀が「輪廻を抜けなさい」と言ったのは、まさにこのことで、「幽界に引っかかってはいけませんよ」「輪廻ではなく、転生をしなさいね」という教えだったのです。

 でも今は、幽界はほぼ消滅しています。そのため、これからは亡くなったら霊界に行くと決めさえすれば、まっすぐに霊界へと上がっていき、そこで完全に癒されて、輪廻ではなく転生をすることになります。
 だから、宇宙の記憶をもって生まれてくる子どもたちが最近、増えてきているのはこのためです。それはまさに、輪廻ではなく転生をしてこの世に生まれてきた魂なのです。
 ただし、今までずっと幽界に行って輪廻をしていたので、そのクセのようなものはまだ残っています。そのため、霊界に行くと心に決めていなかったり、後悔の多い人生を送っていたりすると、霊界に辿り着かず迷ってしまう魂もあるのです。
 けれども、霊界の知識を知らなくても、後悔の少ない人生を送り、ちゃんと生き切ることができていれば、迷うことなく霊界に行くことができます。そして、転生という形で生まれ変わることができる。
 つまり、何のために生まれてきたのかわからないような状態ではなく、記憶の断片かもしれませんが、ちゃんと「私はきっとこのために、ここにいる」「こうこう、こういうことでここにやってきたんだ」とわかった状態で新たな人生を生きることになります。

 

(つづく)

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、

誠に有難うございました。

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