わたしたちは皆、創造者の子供である。
創造者のことを神と呼ぶならば、わたしたちは皆「神の子」である。
これは宗教的な思わせぶりな希望をいっているのではなく事実なのだ。
事実として、わたしたち自身が創造主の子らであるということだ。
単に観念的にそうかもしれないと、途方もない想像をして終わりではなく、
これが事実であると認識しなければなるまい。
この世界の意識・魂たちは、実に途方もない迷路のような世界にいた。
・・・
人間は単なる知的動物であり、いつか生まれそして死んだら終わりだと、
繰り返すが・・そういう実に、、”途方もない” 嘘・幻想の世界にいたのである。
この次元世界は、自分自身が何者かを完全に忘れるという、言わば次元降下した存在ゲーム場のようなものだ。昨今のスピリチュアルな言い方では「マトリクス」の世界。
真の・・わたしとは何か?・・・その問いかけが「意識」の中に芽生え、そして執拗に探求しないままでは、そのまま永遠の時間・・その枠内に幽閉される・・、いや自らでその中に同化してしまうという存在体験のゲームである。
本当に余計なお世話的表現ながら、
あなたは今でも、偶然生まれ、肉体生を一定期間続け、そして死んだら永久に終わりの・・刹那的な存在であると思っているのだろうか?
そして何だかわからないが、皆々と同じように、死ぬまであれこれ忙しく生きているだけなのだろうか?
社会・周囲の皆々がそういう風に信じている状況を観察して、それが正しいという強い慣性的とばりの中にいなければならないと思っているのだろうか?
何も知らず、何も気づかぬ多くの民衆こそが正しいと思っているのだろうか?
・・・
いいや、そうではあるまい。
何度も言って申し訳ないと思うが、この文章を読んでいること自体がその証拠である。
もう既に・・あなたは自らがいわば創造主の子、神の子、森羅万象を創造・演出し続ける大いなる無限の意識の・・自覚ある一片であると気付くことが出来るはずである。
なんとなくでも・・・。
・・・
しかしながら、この当方もない闇のような、局限された時空間の中に同化していた重い現実から、どんな努力もなく一足飛びに大いなる自由で奔放な創造主の子へと飛躍することはないだろう。
なぜならば・・・、
今のそれぞれの「現実」と言われる状況・・へと至ったこと、
それほどまでに私たちは相当に低い次元へと自らの意識をおとしめて来たからには、その現実なる状況を創り上げている意識の習慣なるものを確実に解いて、外して行かねばならないからだ。
また、それが次元降下した神自身の・・大いなる再発見が可能となるのだ。
自らが低次元に身をやつしたからには・・もちろん自らが再創造してゆくということなのだ。
皆々・・ここまでよく来たものだ!
そうは思わないだろうか?
・・・
終局の近い古い世界の有り様、人々の有り様を嘆くなかれ、
それは崩壊し、再生されなければならないのだ。
当然ながら崩壊は新たな再生を必然的に伴うのである。
そしてより自由度の高い魂・意識の表現世界にシフトするのだ。
それが真のリセットである。
死んだら終わりでもなければ、崩壊したらすべて終わりでもない。
一人一人の意識が変わる・・そしてその投影たる世界が必然的に変わってゆくのだ。
一人一人が死のうと生きようと、その一人一人の根源である大いなるひとつの無限の意識は、その姿かたちを変えるだけである。
その「わたし」とは・・その変化の姿・物質という素材ではなく・・それを創造しつつ観察している「意識」であると気付いただろうか。
観察は意識の働きであり、意識は・・気づくことであり、その集合形が世界となって出現していることに・・・気づいただろうか?
そう、神とは気づくことで・・すなわち自身の姿かたちを現わす原理のようなものだ。
意識は・・物質に先行するものであり、その逆ではないと・・悟っただろうか?
なんとなくでも、納得しつつでも気づいたならば、すでのこの次元マトリクスはあなたにとって・・崩壊を始めているのである。
今この世界がなんとなく・確実に・崩壊を始めているように・・・。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
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次回からは、「意識の実践」というタイトルで順次掲示してゆく予定です。実践とは・・探求と理解とそして実感から必然的に生じます。