●モンローによるフォーカス(意識領域)の階層構造
我々の生きているこの世界、地球という時空の仕組みを理解する為には、ロバート・モンローの名付けたフォーカスレベルという意識領域の地図は欠かせない。彼は音響に関するエンジニアであり事業家でもあったのだが、その音響に親しむうちに体脱体験をするようになった。
音響の特定の周波数が人間の意識に干渉し、その意識レベルを微妙に変化させるという事実を自ら体験を通じて追及してへミシンクという技術を確立した。左右の耳から一定の差のある4ヘルツ程度の周波数の音を聞く事で、意識レベルが変化することを助けるというものだ。
これは、禅や深い瞑想の境地への科学的なアプローチに違いない。ここで科学的というのは、比較的誰でも容易に行なえる、容易に再現可能な技術であると言う意味においてである。
しかしながらへミシンク技術は人間の意識に関するものであり、物質的な計量や測定のものではない。物体の動きやエネルギーを測定し計量して、眼に見える物質的な成果を出すような類のものではないということだ。
極めて純粋で不動の・・と言っていいような、人の意識の境地、いわばこころの状態に行き着くための新たなアプローチの一手段でもあるだろう。
●へミシンク等も衆生救済の為の現代版か?
現れた結果だけを、また、現れた現象だけを数式で説明し、それを利用し、2次加工して生活の役に立てるという資本主義的、物質文明的な有り方や信念はもう既に時代遅れとなっていることに気がつく必要があるのだ。
へミシンクに代表されるような意識の領域への気づきは、人間の本来の目的の1つである「意識の拡大・進化」の道は、それがたった1つではないということを意味しているのだろう。
昨今は、このような人々がわかり易いと感じる方法が流布されつつあるようでもある。
いつも大きな変化が訪れる時には、それを助ける様々な教師が現れるのは歴史の必然であろう。それは何も、いつもイエスや釈迦のような馴染んだ現れ方ではないはずだし、特に今の時代の特徴としては、どこにでもいるような人々が、新しい技術や思想をもたらす形で出現してくる場合があるものだ。
●覚醒は一人一人
天からのファンファーレが厳かに鳴り響き、いかにもセンセーショナルに事が起きるという等というイメージは、多分に幼児的な期待を意味し、またそれは他者依存的なこころの停滞を示すものだろう。
真実はいつも静かに、そして微妙な形で現れてくるものだ。その見えるような見えないような真実に、それぞれが内面から気づく行為こそが、我々の魂の喜ぶ体験であり、逆に外からのド派手な宣伝的教示などは、いつもながらの何事かの利益誘導でしかないものだ。
R.モンローのいうフォーカスレベルについては、ここ2-3年来日本でも坂本政道さんその他が多く著作を出されているのでご存知の方も多いだろう。
●地球にある複数階層の意識領域
(以下はブルース・モーエンの著作「ブルース・モーエン 死後探索」から参照)
○フォーカス C1
物質的世界、物理的に生きている人間の意識領域。(p225から参照)
我々が今馴染んでいるいわゆる三次元世界であり、1度に数十年~百年前後の滞留期間が許されるところだ。
○フォーカス 22
まだ死後の世界ではないが完全に物理世界にフォーカスしていない人間の意識領域。麻酔、昏睡、酔いつぶれ等の人間の意識領域。(p226から参照)
高熱でうなされたり、麻酔でふらふらになっている場合に存在するのだろうか。確かに身体感覚よりもそのときの不快な意識のほうに自己を集中しているようだ。
○フォーカス 23
死後の世界で一番近隣の領域。突然死んでしまっても、死んだこととは思っていない人間の意識領域。(p227から抜粋)
肉体が機能を停止しても意識体はリアルに存在するため、急に死んだ人間はそれが理解できず、未だ生きていると「思い込んで」いる状態だ。いわゆる幽霊などもこのような混乱状態の意識であるらしい。物質的状態と非物質的状態の狭間にいる意識状態、囚われの状態でもある。
○フォーカス 24,25,26
信念体系領域。(Belief System Territories:BST)
フォーカス23の住人が、自分の作り出した個人的な世界に孤立して囚われているのに対して、その次に位置する人間野意識領域では、死んだ人達は集団が作り出した世界に囚われている。(P228~229から抜粋)
特定の集団的な信念、例えば宗教や思想に固まった観念が作り出す世界であろう。○○教だとか、××民族意識だとか、狂信的イデオロギーだとかの共通信念やこだわりで同調集合する意識領域のようだ。
なかには地獄のような囚われかたを選択している世界も、天国のような囚われかたを選択している世界もあるようだ。
ある意味では、相対的な信念領域の、ピンからキリまでの意識の周波数帯域ともいえるだろう。どちらも善悪、好き嫌い、上品下品、光と闇のような2元的な世界に変わりがないといえるだろう。
○フォーカス 27
人間の死後の意識のうち、最後の領域。
BST(信念体系領域)を取り囲む次の層の領域。この意識層の住人は、特定の信念に固執せず、囚われず、想像しうるかぎり、どんなふうにでも自由に存在することが出来る世界。(P230)
ある意味でここは地球という生存フィールド・次元へのプラットホームのようなものだろう。本来の高次の自己が居る次元領域でもあろう。例えばあなたが複数の過去生を思い出すということは、より高次の自己に気づき始めたということだ。
「わたし」は常にわたしであるところの者なのだ。卑小に感じる段階の「わたし」も、より高次の「わたし」も、常に「わたし」であることを忘れるはずもないのだ。
○フォーカス34,35
モンローによると、フォーカス27を超えたところには、人間でないものの意識領域があるという。モンローはOBE(体脱)による初期の探索で訪れたそういう領域のひとつを「大集合(ギャザリング)」と呼んでいる。・・中略・・ここで私たちは、他の惑星や、他の宇宙や、他の次元から来た知性体たちとコミュニケートすることができる。(p230~231)
ここでいう人間・・というのは我々人類を示し、地球で生きている、意識をもっている知性体という意味であろう。確かに宇宙は無限であり、その中には様々な段階の世界と知性体がいる。その知性体は地球の意識周波数の外れにいるということも理解が可能だ。
これを例えれば、1つの学校に乱入する他校の生徒がいないように、地球にはその仕組みと学習教科のようなものがあり、例え親族、友人といえども勝手に干渉移入等は出来ないようなものだ。
あるいは、またそのようなフォーカスレベルの位置には、だぶん、高次といわれるあなたと、それを取り巻く数限りない友もいるのかも知れない。
これは驚天動地の考えではなく、また別段不思議でもなんでもないような気がするのだが。
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●真実は一面だけでは見えないもの
古来から伝えられてきた世界の諸相、地上界、霊界、天界等は、我々の意識の段階に応じて現れている世界を示す。地球においても多層の世界が、ある意味でその波動の位相や周波数の違いだけで共存しているといえるのだ。宗教くさく色づけされてしまった感がなきにしもあらずだが、時空の多層構造はウソも隠しもなくまさにその通りだといえるだろう。
簡単に言えば、我々の認識するこの地球という惑星の時空構造は、我々の今なじんでいる物質レベル、すなわち三次元レベルだけではなく、多層の異なる存在次元で構成されているということである。
その根幹にあるのが「意識」という存在形態である。我々の意識の内容すなわち周波数によって同調する世界が複数あるということだ。
我々がこの世界に周波数的に同調しているのは、すなわち生きているのは、我々の三次元的な肉体による同調、チューニングのお陰である。当然頭脳も高度な情報変換機能をもっているのだが、しかし頭脳それ自体が世界認識を生ぜしめているのではなく、意識的存在たる魂の波動の送受変調を行なっているものだろう。
電波の例でもわかるように、全ては波動の伝播・同調・干渉によるものであり、我々はその無限の意識の大海に生じる様々な波紋を個性的に表現している者ともいえるだろう。
あなたもわたし達も、今は、主として、地球という存在時空の1つの次元、いわば物理層に意識的に「居る」ということなのだ。我々の多くが馴染んでいるこの物質的世界、いわゆる三次元認識の世界が全てなどということはなく、それはただ単に1つの意識的な存在層でしかすぎないということなのだ。
我々の世界はこのように無限に広く見えていたとしても、それはただ1階層だということなのだ。現代の宇宙探査はその1階層の奥行きを探査しているだけのことだろう。見つかるのは三次元的世界でしかないだろう。
●人は高次元から次元降下している者
また本来の高次の自己は、この地球という存在フィールドで体験をするために、もっと高い次元からこの地球に転入してきたものであり、いづれはその広く高い意識の位置に還らなければならないのだ。
地上での体験、それを例えれば、ディズニーランドでクマの厚くて重い縫いぐるみを着て遊ぶようなものかもしれない。遊びがそのうちマジになってしまい記憶を忘れてしまったようなものだ。
そのうち縫いぐるみの中で生まれ、縫いぐるみの中で死ぬような体験になったのだろう。記憶を忘れるというゲームなのかもしれない。
生と死を超える意識を再び取り戻すためには、R・モンローやブルース・モーエン達に限らず、様々な先覚者の探求報告や教えを知るべきであろう。彼らは、目くるめく豪華でまた悲惨な遊技場や賭博場もあるこの体験ワールドで、眠りこける人々を目覚めさせるという、結構な仕事人なのかもしれない。
私なりに言えば、彼らも愛すべき教師達であろうし、次元降下している大勢の我々が、その時代時代に見失いかけそうになる「灯り」を思い出させるための光のガイドともいえるのだ。
●人類、思えば遠くに来たもんだ
武田鉄也の歌ではないけれど、人々のカルマや人生の難しさとは、本然の自己の自由さと無限の楽しさを真に判る為の反面教師のようなものであり、そのための仮の、また刹那の苦労と艱難にすぎないのだ。
この地上での体験は、何がどうであろうと、どうってこともないものだし、実に楽しい嬉しい遊びなのである。
それに気づくかどうか・・ただそれだけのことなのだ。
人生は闘い?・・・だから、それがどうしたというのだろうか。
我々は、額にしわ寄せての小難しい演技はもうやめにしたがいいだろう。争いも競争も物欲もどうってことはないのだ。多生を通じて繰り返して疲れるまでの遊びのようなものだ。
生存競争?・・・だから、それがどうしたというのだろうか。
競争しないほうが遥かに生きやすい大自然を見ればいい。我々は大自然の有り方を誤解していることに気づくべきではないか。捕食による弱肉強食だけを抽出し、それを信じ込んで様々な不都合を勝手に創出しているのは、確かに人類だけだ。
世界が悪くなっている?・・・本当にそうなのだろうか。
ただそのような想いに同調して「不安」や「恐怖」を楽しんでいるだけなのではないか。
地球の環境は人類の所作・想念に応じても様々に変化してゆくが、地球自体は自己フィードバックの効く自動調節機能があり、何も困るわけではないのだ。そういう不安な想いや人類の欲得の所業によって世界を悪くして困るのは当然ながら人類のほうなのだ。
ここが肝心要(かなめ)ではないか。
数十年の人生も、全てはあなたやわたし達の心模様の作り出す影絵なのだ。
影絵芝居の主人公は他者ではなく、常にあなた自身の手であることに真剣に気づけばいい。
そうすれば他者にせり勝とうとか、怖れるとかは単なる1つの物語でしかないと大悟できるだろう。弱肉強食、生存闘争、・・・大勢で信じ込むような、そんな立派な物語でもない。
本来、真・善・美・楽々・豊富。
幸せは追い求め続けるものではなく、
いつもここにあり、
いつも、永遠の今にいるということにある。
宇宙・大自然に生かされている事実に気づけば、
生きていることにどうしても感謝せずにおられないのだ。
・・・
また、皆々もそうだと気づけば、
皆々にもこころの底から感謝せずにおられない。
嗚呼・・
ここが 肝心要(かなめ) なのではないのか。
まさに、この今の瞬間の有り難さに驚く他はない!
一切唯心造
(いっさいゆいしんぞう) 「華厳経」
本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。