(前回からのつづき、)
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だれもが今ここで(周囲を)見ています。
あなたはまったく努力なく見ています。
見ることが進行しています。
また誰もが(何かの音を)聞いています。
見ることが起こっていて、聞くことが起こっています。
自分自身に尋ねてください。
「私の目が、私に見るように言っているのだろうか?」と。
さて、私の目は、「ボブ、ほらこれを見ろ、あれを見ろ」とは言っていません。
目を通じて見ることが起こっているのですが、
それが思考によって、「私は見る」「私はあれを見る」と翻訳されているのです。
聞くことが耳を通じて起こっています。
耳は、私に、「私が聞く」とは言いません。
再び、それは思考によって「私が聞く」と翻訳されるのです。
ですから、
眼は「私は見る」とは言わず、耳は「私は聞く」とは言わないのに、
思考が湧きおこってそれを翻訳します。
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では次のことを自分に尋ねてください。ーーー
「私は見る」という思考は、実際に見ることが出来るのか?
注意して観察してください。
そうそれば、思考が見ているのではないことを、あなたは理解するでしょう。
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「私は聞く」という思考が、実際聞くことが出来るでしょうか?
思考が行うのは・・ただ翻訳することだけです。
このエゴとは考えられたもので、見たり、聞いたり、気づいたりするパワーを持っていないのです。
「私は選ぶ」という思考(自体)は、(何も)選ぶことが出来ません。
「わたしは気づいている」という思考は、あなたの気づきではありません。
このように、この虚構のエゴとは、私たちが長年束縛されてきた1つの思考なのです。
エゴとは、選択ができ、自分の意志を持っており、たまに悪運に見舞われることもある1つの実体である、‥という信念は、ただの思考に過ぎません。
それが作り話であるあると気づくとき、いったい何が起こるでしょうか?
自然に生きることが、今までとにかくやってきたように続いていくのではありませんか?
それが、あなたを呼吸させています。
それがあなたの心臓を鼓動させています。
それがあなたを呼吸させています。
それがあなたの髪の毛や爪を成長させ、食べ物を消化し、細胞を新陳代謝させ、
考えること、感じること、感情、
あらゆることが、まったく努力なく起こることを可能にしています。
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以上、「ただそれだけ」ナチュラルスピリット刊、・・より抜粋。
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(補足解説)
賢者は・・外の世界ではなく、
自分自身のあり様をしかと見るように繰り返し促してきた。
思考は起きるが、思考によって作られたものは実体ではない。
特に歪んだ思考によって作られた自我を「エゴ」といって良い。
思考で出来た虚構の信念体系・あるいは常識というものも、また、
まったく、実体を持たない。
そう、エゴ・自我というものも含め、
思考の体系は・・変幻自在のマインドによる作品・作り話である。
だから、この世界も映画のようだと言われるのだ。
それは楽しみ、学び、味わうべきものであって、
それに血道をあげ、執着し、追いすがる・・ことの可笑しさに気付けるだろう。
それを行う「エゴ」は、実は・・・存在しないのである。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。