気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

人類意識の浄化の波

2022-04-28 09:02:48 | 今起きていること

多くの人たちにまったくその気はなくても、

人類の一部では、

世界を混乱におとしいれ、

カオス状態、無秩序状態にすることで、

新しい支配秩序を構築しようとしている者たちがいる。

 

そのために、様々な事変を起しつつ、

人類の集合意識に刺激を与えながら

一定の方向に持ってゆこうとしているのがわかるだろうか。

 

この人類世界に発生する事象・現象・事変は・・

すべて人工的・人為的なものであり、

 

意図的・恣意的・確信的な原因がある。

この3次元的物質世界といえども、

物質や次元さえも意識の反映、

現象・・・、現(うつつ)の象(かたち)以外の、

何物でもないことを知らねばならない。

 ましてや、人の世界をや、である。

 

以下のすべても人の想念の具象化したものだ。

人工的なコロナパンデミミック、遺伝子ワクチンの災禍、

メジャーなメディアによる自信満々の嘘のオンパレード、

常識かのようなあからさまな選挙の不正、

勝手に制御される経済の停滞と減速、

起されるエネルギー危機、紛争の拡大、食料事情の悪化

第三次世界大戦なる概念への誘導・・等・・・

すべてそのストリームで起きている。

いや、起こされているのだ。

 

そしていつもながら、

何も気づかず知らずの群衆が、

気付かないが故に、常に想定外に巻き込まれ、

結局は事態に加勢してその火に油を注ぐことになる。

 

光と闇は戦うのではない

闇とは無知、無明のことであり

光があるところに闇は無いということだ。

 

何も知らない無知な大衆がいなければ、

謀(はかりごと)で飯を食う支配者は、

存在すらできないのである。

 

 

とかく陥りやすい巧妙なエゴの罠・・、

自分たちを、善良で何も知らないでいい、

弱く、保護されるべき無辜の民であると自認し、

見ざる、言わざる、聞かざるのこころの姿勢のまま、

気付くべき真実を探そうとせず、

正すべきこころの歪、感情の汚れを放置しつつ、

与えられる刹那の快楽の中に我を忘れつづけることが、

いつの間にか、カルマを膨れ上がらせ、

その反動は、誰あろうそれぞれに自らに返ってくる仕組み。

動・反動、作用・反作用、

人生では与えたものだけが返ってくる仕組みを

想い出さねばなるまい。

 

自らの意識体験世界は、

全て自らの意識の投影像であることを知らねばなるまい。

 

自分にはどんな責任もないと決めつけ、

常に何か、誰かのせいに仕立てあげることは、

もう許されない時節が来ていると、

気付かなければなるまいに。

・・・・

今人類の一部では、世界を混乱におとしいれ、

カオス状態、無秩序状態にすることで、

過去の負債や負い目を無視し放棄し、

新しい支配秩序を構築しようという動きがある。

 

そのために、様々な事変を起しつつ、

人類の生存の危機を煽ることで

集合無意識に刺激を与えながら

一定の方向に持ってゆこうとしているのがわかるだろうか。

 

ご勝手にどうぞと言いたいところだが、

しかしながら、

多くの人類にとって由々しきこと柄は、

そこでは、多くの人類が不要となるということだ。

 

 

80憶人みんなに富や幸せを上げますよ・・

じいちゃん、ばあちゃん長生きしてね・・

困ったらタダでお金を上げますよ・・

国民の代表である政府が何とかしてくれますよ・・

ネサラ・ゲサラで万々歳・・・?

そんなものではない!

それは漁において魚群を誘い込む為の「餌」に他ならない。

 

切羽詰まった環境論者の最終結論はどうかと言えば、

地球の惨状の元凶は人類・・であるがゆえに、

その人間の絶対量を減少させ、

自由奔放から従順さへとマインドプログラムすることのようだ

そうすれば、地球環境は一気に改善し、

持続可能な成長が出来ると・・・・・?

 

何のことはない、

物量や数の論理によるプラグマティックな解決方式に過ぎない。

 

今噂されるグレート?リセットなるものは、

それを人工的に短期間で行うという、

壮大なプロジェクトのようなものだろうが、

いかに騙しだまし進めていこうとも、

このプロセスは多くの人間の生と死の、

差し迫った問題を次第に増幅させ、

膨大な数の人類の恐怖や混乱を招くことになるだろう。

 

なぜならば、

人間誰でも死にたくないという想いが根幹にあり、

全体の危機的状況が大きく進むにつれ、

人類に普遍な、自己生存の強烈な欲望が、

集合意識に莫大な波紋を生じさせるだろうからだ。

 

そうなったときには、どのようなコントロールも効かず、

先に挙げた、尤もらしい持続可能な成長という題目の、

人類削減、環境改善計画をも崩壊させるだろう。

 

人類の頭数?・・

本質はそんなところにあるわけではなく、

魂の浄化と進化のプロセスにあるのだから。

 

・・・

人類のそれぞれの蓄積したカルマ、

それぞれの内面意識を観察・浄化せざれば、

習慣となった歪んだ想念と行為の放出・現象化と相まって

今後増幅しつつ、次第に激しい様相を呈しつつ、

そのエネルギーを吐き出すまで続くだろう。

 

今この地球という波動帯に注がれている、

より精妙・微細なエネルギーの波は、

人類の意識層に大きな影響を与えつつ、

それぞれの内面・意識の歪を強く刺激しながら、

その歪の現象化・具象化による”解放”を促している。

 

そして今、その開放の波の振動がどんどんと粗くなって

物理現象化の方向にシフトしてきているということだ。

 

これはつまり、

カルマ・・の浄化・解消プロセス、

習慣化した歪んだ集合的想念の具象化による放出と解放である。

 

翻って、それぞれの「わたし」において・・

人々は自らのマインドの流れを観察しているだろうか?

それを起きては消える対象として観ることができるだろうか?

それとも、気付かずそれに同調し、

感情もろとも巻きこまれていくのだろうか?

 

何度も言うが、平静を装った日常の背後には、

覚悟すべき状況が、今はもう訪れているのである。

 

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、

誠に有難うございました。

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意識はどこにある?

2022-04-19 07:02:03 | 意識の科学(総合編)

多くの人はこの世界のことを非常に気にする。

自分が生きているこの世界がどうなるのか、

自分に直接関係する重大事であるからだ。

 

目先の生活、人間関係、経済状況に埋没している、

小さな世界に閉じ込められている人を除き、

意識の広がった人ほど世界の動きを気にするものだ。

この先、世界はどうなってしまうのか?

・・・

しかしながら、そこにある信念はどうかというと、

自分はこの世界の中に生きている生命・人間・生物であり、

世界という圧倒的な物質環境の中に従属しているというものだ。

だから、世界がどうなるということが、

自分がどうなるということに先行する

最重要問題であると考えているのだ。

・・・

しかしながら、朋よ・・、

あなたは世界の中にいるのではなく、

あなたの中に・・・世界があるという事を知らねばならないのだ。

 

そんな馬鹿な、そればっかりはあり得ない。

そう想うものである。

 

わたしはこの肉体であるという信念であれば、

この肉体の中に世界があるわけはなく、

ましてや、あの天空に輝く星々のある宇宙が、

わたしの中にあるわけがないじゃないかとなる。

馬鹿言うんじゃない、

 

しかしながら、それは観点の違いなのだ。

観点の違い?・・・

どこをどう見たって、どう考えようとも、

世界や宇宙がわたしの中にあるものか!

そう言ってはばからない。

またこんなことが思考されることもほとんどない。

・・・

確かに・・そう、

あなたが肉体・個体であれば、

あなたは、

それらを含む個体、生命体・物体の集合する世界・宇宙の中にある。

 

ところで、あなたが肉体でないとしたらどうだろうか?

わたしは・・肉体ではない?・・・

どういう意味だ?

怖いから、やめてくれ。

 

そう、

肉体そのものではなく、意識であるとしたらどうだ?

意識・・何度も何度も出て来る言葉だが、

意識は・・何かに気付いていることを意味する。

さらに、

何かを知覚することを意味する。

知覚とは・・存在を認識することだ。

山あり、川あり、空あり、目の前の機械あり、

町には人あり、犬が散歩している。

それらすべては、あなたの知覚に映し出されている対象であり、

あなたが・・気づいている対象としての存在形なのである。

そして、あなたはあなたの肉体をも意識する、

それは、あなたが気づいている対象物なのである。

いかに高性能・精密・精妙であろうと、

それをそうであると認識する・意識する・気づいている、

その事が無ければ、あらゆるすべては存在しないのだ。

・・・

つまり、あなたは肉体ではなく、意識である、

・・と、こういうプロセスで進んできたが、

あなたはどう思うだろうか?

 

自分はこの肉体である・・という今までの観念、

こんなことも考えたことすらない観点、

自分が気づいている・・意識である・・そういう観点は、

しっくり馴染まないだろうが、

これが真実であると感じないだろうか?

 

今までは肉体以外の・・わたし・・という、

そういう観点がなかったし、

探そうともしなかったし、

大勢の人がそんな話もしてこなかったし、

疑いも持つことさえも・・遥かかなたの圏外だったとしても、

いまはもう、気付いただろう。

 

その根本にあるのが、「意識」・気づいている・・

というキーワードである。

肉体・物体・環境・世界・宇宙に気づいていなくて、

肉体・物体・環境・世界・宇宙は存在しないのである。

 

日常で常にこの状態にあるのだが、

全く深掘りがなされず、世界の動く様に圧倒され、

その中で肉体が翻弄され、快感を味わい、痛手をこうむり、

あるいは棄損し、破壊され、

その知覚の激しさに注意を奪われつつ、

意識がそれに完全移入してしまい、

同じような肉体生を繰り返してきたということに、

あなたはもう、気付けるだろうか?

 

気付いていること・意識・・は、

肉体・物体・の次元では語れない。

なぜならば、肉体・物体・世界・宇宙・・

それらは、意識によって対象物とされたものである。

 

意識が様々な事物・肉体・世界・宇宙を対象化するのだ。

その逆ではない。

今までは、それが真逆とされていたのである。

 

意識はこの世界のどこにも・・形はない。

頭脳が意識を創り出す・・という医学・科学的な認識も、

単なるもっともありそうな仮定・・に過ぎない。

将来はそれが発見されるだろう?・・

どこに・・発見されるのだ?

頭脳のどこにある?

意識は・・どこにある?

どこに?・・というのは場所だ・・

 

意識はどこにもない・・。

あらゆるすべてに気付いている・・それだから、

どこかに、あそこに、肉体の中に・・

あるわけはないのである。

 

よく言われるように、この次元世界のどこかにあるわけはない。

この次元世界の上位の高次世界に・・というのも、

誤解を招く言い方である。

 

簡単に言えば、

わたしは・・すべてに気づいている者である。

気付いている様々な対象物は真のわたしではなく、

気付いていること・そのものである。

意識・気づいていることから全てが生じている。

 

それ・・である!

 

出来得れば、その意識・認識・理解を深くし、

あなたがいつか入り込んだ

3(4)次元の粗く不自由な体験ワールドから、

次元浮上すべき推進力を得る時であろう。

 

意識する内容、認識・理解の変化は、

無限性の中からの具体性の方向、

気づく方向性を明らかに変えることになり、

知覚対象世界・タイムライン、体験世界の変化へとつながってゆく。

 

変えるべき、帰るべきは・・意識である。

 

 

 

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、

誠に有難うございました。

 

 

 

 

 

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浄化の時 (2)自己浄化

2022-04-10 06:16:32 | 今起きていること

浄化とは、汚れを洗い流すことだ。

なんの汚れか?

それは「こころ」の汚れだ。

 

お風呂や家の中の床の汚れ、

眼に見える生活上の汚れを落とすのとは次元が違う。

 

人類の浄化とは・・・

人類のマインドの浄化・歪の解放であり、

あくまでも・・それは一人ひとりが、自覚的・自主的に行うものであり、

集団で、まとまって皆で一緒・・もあり得ず、

人類個体数の削減が浄化だという悲惨な嘘も全くの見当違いである。

見当違いどころか、さらにカルマの歪を蓄積することになる。

・・・・

浄化とは何か特別なところで行われるのでもなければ、

お金を出せば誰かが代わりにしてくれるものでもない。

どこか良い世界に飛んでいくことでもない。

何もせずそのままいつか自然に良い世界に住むわけでもない。

 

普段の生活こそが、そのこころの浄化の道場だ。

こころの浄化プロセス、実はこれがアセンションの階段である。

どこに行っても、在るのは・・わたし・・なのだ。

そのわたし・・の次元が上がるのである。

次元が上がるという事は、はるかに視野、観点が拡大し、

今まで見えなかった領域が、今ここで観えてくるようになる様を言う。

 

例えば身近な話、

マインド、こころ、思考上の歪(ひずみ)をそのままにしている場合、

人間関係が常にギクシャクするだろう。

気付かないエゴの汚れが染み出している場合、

いつも誰かと大なり小なり諍いになり、

不愉快で不利益な状況が現れる。

しかしながら、そういう時は、

通常は、絶対相手が悪いからだ・・の一点張りになるもので。

「ムムム、あの人、何よ!、絶対許せない!」

「これは、どう考えてもあいつが仕掛けたことだ、そうだろ?」

何をどう考えても、自分は悪くない・・と思うものだ。

そして怒りや憤りの感情の振動波で震えることになる。

そうではないか?

 

じぶんは絶対に正しい、どこをどう見ても絶対に正しい。

悪いのは相手以外にない・・・多くの場合そう思うのである。

これは絶対といって良いほど、多くの人が信じていることだ。

しかしながら、それは

自分の利己的、あるいは防御的な観点でしかない。

このままでは自他のバトルフィールドにからめとられたまま、

感情エネルギーのもつれが増大し、

そこから決して浮かび上がれない。

・・・

「あー、しまった、自分も悪かった・・・」

そういう瞬時の反省や後悔、謝罪などが出来る人は希少である。

そういう人は、相手にまで、

少なからず観点(意識)が広がっている人であり、

自分のこころのエゴ的歪み、こだわり、葛藤が少なく、

すなわちかなりな部分浄化出来ている人である。

こころの頑なさ、塊がほどけて開放が進むと、

浄化され意識が広がるのだ。

この世で培った利己的思考・感情の闇が浄化され、

様々なことをよりよく理解することが出来るということだ。

 

人との葛藤の場合ならば、

”ひょっとして相手の観点” ならどうか?・・そういう風に、

「自分「の居る‥意識のポイントを「相手」にまで拡張すべきなのだ。

そうすることで、相手の視点が垣間見えてくる。

それは、自分と相手とを同時に見える立場ともいえるし、

また自分が相手へと(意識的に)拡張したともいえるのだ。

これはつまり、「意識の拡大」なのである。

 

わたしが・・・相手を含む、より大きなレベルまで意識を拡大する。

 

意識が・・自分を超えて相手の周囲にまで及ぶのである。

肉体が相手に及ぶ?のではなく、

意識が自己と相手を含んだ、より高い視座に移行するということだ。

 

それは(意識の)次元上昇の大きな要素となる。

高次の真実の面では・・あなたは・・わたし・・なのだ。

・・・・

(新約聖書 マタイ伝 25章34~36)

さあ、わたしの父に祝福された人たち、

天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。

お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、

のどが渇いていたときに飲ませ、

旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、

病気のときに見舞い、

牢にいたときに訪ねてくれたからだ。

・・・・

イエスの言うわたしとは、個人のことだけではなく、

すべての・・父・根源・わたし・・であり、

その観点であれば、他者にした施しや善意、理解は・・、

すべてわたし・・自身にしたことに他ならない。

 

他者への攻撃は、自己への攻撃であり、

他者への善意は、自己への善意ということだ。

これは生易しい感傷論ではなく、

思いや行為が、常に自分に降りかかってくる

いわゆるカルマの法則としても現象化する。

 

・・・

日常でも、

「あー、しまった、自分も悪かった・・・」

そういう瞬時の反省や後悔、謝罪などが出来る人は希少である。

そういう人は、相手にまで観点(意識)が広がっている人であり、

自分のこころのエゴ的歪みが少なく、

すなわち、かなりな部分浄化出来ている人である。

こころの頑なさ、塊がほどけて開放が進むと、

浄化され意識が広がるのだ。

 

 

この世に、何も問題ない聖人君主など、そうそういるはずもなく、

マインドと行為の歪が直ちに観察され、

大局的な見地から察知、反省などの必要な行為・行動の出来る人は、

スピリチュアルで言う「アセンション」を達成している人である。

そう、

アセンションとは、

どこかのストレスのない天国に行くことだとか、

お金の苦労のない世界に住まうだとか、

悪人の支配しない世界になるだとか、

漠然と思っている人もいるかもしれないが、

そういう自分の知覚する対象世界が、

自分と無関係に改善されるということではない。

 

知覚する・・主体である・・それぞれのわたし、

発信源・光源の覆い、歪、汚れが除去されることで、

必然的にその投影・知覚する世界が変化するという事だ。

 

主体たる意識が変わらずして、決してその住まう世界、

知覚される現象世界は変わることはない。

 

高次の思考・マインドを駆使して、

歪(ひずみ)いわゆる闇のエネルギーを無意味に蓄積しないこと。

エゴで歪んだエネルギーが少ない人、

逆にポジティブな結果を具象化できるエネルギーが多い人

そういう人が集まってこそ、

いわゆる楽しく嬉しい生活圏が出来るのだ。

そして、それは1つの天界、天国と言っても良いだろう。

・・・

しかしながら、

3次元的認識レベルのままの集合体においては、

個々が別個の単独の実体としてとらえるため、

その個々の己だけの生き残りが最重要な課題となり、

そのバラバラの利害ある個々の間のぶつかり合いにより、

歪んだ感情エネルギーを昇華せず、溜め込むことで、

膨大な歪(いわゆる闇)エネルギーが蓄積されることになる。

 

そして、そのひずみに歪んだエネルギーは・・

溜まりにたまったエネルギーは、

いつか必ず解放されなければならないのだ。

 

従って、人類文明がいわゆる3次元的認識レベルのままで、

行き着くところまで行った場合には、

その歪んだエネルギーが爆発的に開放される時が、必ず訪れるのである。

それは必然的に様々なネガティビティ―の解放となり、

すなわち蓄積された歪んだエネルギー(カルマ)の、

一時期でのカタストロフィー的な現象化となるものだ。

 

ここでは、それが起きる時のことを「浄化の時」と言っているのである。

・・・・

人に惑わされないように気をつけなさい。

わたしの名を名乗る者が大勢現れ、

『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。

戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、

慌てないように気をつけなさい。

そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。

民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。

しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。

そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。

また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。

そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。

偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。

不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。

しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

そして、御国のこの福音はあらゆる民への証として、

全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。

(マタイ伝24章3~14)

・・・

いちじくの木から、この譬を学びなさい。

その枝が柔らかになり、葉が出るようになると夏の近いことがわかる。

そのように、すべてこれらのことを見たならば、

人の子が戸口まで近づいていることを悟りなさい。

 

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、

誠に有難うございました。

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浄化の時 (1)イチジクの木は実ったか

2022-04-05 07:49:14 | 今起きていること

 

今は浄化の時代である。

断言して良いだろう。

 

本来浄化とは清めることであり、汚れを洗浄することである。

 

人生においても組織においても、国家・世界においても、

この時期は必ず訪れる。

これは清算時期という意味もある。

いままでのつけの返済、不正や歪の廃止、

霊的なレベルでは「カルマ」の解消である。

人生も組織も社会・国家も試行錯誤を繰り返し、

その経験を通して、いつの間にか様々な歪や汚れを身に着ける。

 

常に完全なもの等あるわけもなく、必ず過ちを繰り返すものだ。

過去の「過」の文字に・・・すでに「あやまち」の意味がある。

それを無視して進んだ先にあるのが、必然的な「浄化」である。

 

浄化は洗浄であり、洗濯であり、

また歪や腐敗・腐乱の削除・消滅である。

従って、ある意味では大きな削減であり、

枝葉の伐採であり、崩壊と再生である。

今はもう狭くなった地球においても、

その浄化の時が来ているのだ。

狭くなって一体化してきた地上であるがゆえに、

その浄化も世界的な規模で起きて来ることになる。

いやもう始まっているのだ。

 

多くの人は自分に無関係と思っている

かもしれないし、

耳に心地よい物だけを選んでいる

かもしれないが、

この3(4)次元的世界に生きているからには、

肉体の生きるの死ぬのはこの際関係が無く、

多かれ少なかれ、

この浄化の時を通過しなければならないだろう。

地球というくるくる回る、回り舞台の演目の、

ある1章の最後のくだりが上演されているようなものだ。

 

いったい何が行われているのか?

知らないで次には行けないはずであろう。

 

宇宙全ては意識によって顕現したものであり、

全ての生命は、意識的宇宙に存在しているため、

その最たる意識の顕現形態を保持する人間は、

意識の進化・発展の道を旅する存在形であるため、

浄化せず、清算せず、自省せず、振り返らず、学びを確認せず、

魂の新たなるステージ(人生舞台)に移行することはない。

 

仮に、それに気づかず、それを回避するという事は、

その旧来のステージがまた続くという意味である。

確かに、それもまた・・

それぞれの 魂・意識・・・の選択である。

 

繰り返すが、今とうとう、人類の浄化が起きている。

 

コロナもワクチンも戦争と戦争のうわさも、

通貨のリセットも、

世界の多くで町中の人たちが、深いわけも知らず、

メディアの言うがままに

不健康なマスクをしながら歩いているのも、

人のあいだ心の分離と荒廃も・・、

多くの組織・政府・機関の腐敗も・・

すべて・・浄化せざるを得ない状況を示している。

それらが世界的に起きてきた今・・・、

嗚呼・・、時は・・満ちた・・ことになるだろう。

・・・

マタイによる福音書24章の中で、

終わりの日の前兆について、

イエスの言葉とされるものが残っている。

 

24章32~33節

いちじくの木から、この譬を学びなさい。

その枝が柔らかになり、葉が出るようになると夏の近いことがわかる。

そのように、すべてこれらのことを見たならば、

人の子が戸口まで近づいていることを悟りなさい。

 

 

尚、イチジクの木は1年で”2回”実る植物であり、

大きなことが2回出てきた後、

さらに他の予兆とされる事象が起きた後に・・

その時が訪れる・・と解釈できるだろう。

 

あなたはどう感じるだろうか。

仮に、浄化がごく近いと感じたならならば、

どうすべきなのか?考える・・のではなく、

創造者としての自己覚知を過ぎ・・

わたしは・・こう在る・・・、

 I AM THAT I AM へと、

すでに移行しているべきではないだろうか。

 

 

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、

誠に有難うございました。

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