気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

(15)無限の想起

2020-03-29 09:34:08 | 意識の科学
宇宙意識の全包容的知覚に対して、
無数の部分部分から知覚している個々の意識(魂)がある。
個々の意識はつまり、あなたや私たちという、
個人という感覚のある・・宇宙意識のことだ。

そう・・あなたや私たちは、個別化した”宇宙意識”である。
宇宙意識、根源意識・神意識・創造主・ソース、呼び方は何でも良い。

言い換えれば、
根源意識と完全に繋がっているからこそ、わたし・・意識があること、
このことを能々(よくよく)理解する必要があろう。

それを観ている自己自身に・・気付きやすくなったこと以外、
騒ぎの増大した知覚対象世界をいくら眺めても知ることは出来ない。

頭であれこれ、知覚対象物のことを考えることではなく、
単純に、無限と繋がっている自己イメージに、
自分の好む理想イメージでも良いと思われるが・・
それに意識、気づきの焦点を合わせることだ。

カメラの画像のピントを合わせるのと変わらない。

要は、
いま時間を掛けてでも・・その最善と思われる自己イメージに
集中・フオーカスすべきであるということだ。

いわゆる、つい恐怖で誘われてしまうネガティブ想念ではなく、
誰でもそれを望んでいるところの、・・
愛、知恵、幸福・・充実・安心・・、そういう類の想念を、
集中し、持続し、自己内面に築き上げ、保持することである。

今までは、外からいじくられっ放しだったことに気付いているはずだ。
これからもそれをやるのかということだ。
ここで、今・・・リセット・リスタートする時なのだ。

肝心なのは原因のほうであり、
因とはその人の方向づける主たる意識、体験の基本となる想念形だからだ。

上から目線、余計なお世話!と感じる向きもあるだろうが、

今までの様に、スピ系概念をさっと、サラサラと、
好んで何度も通り過ぎるのではなく、
最善イメージの定在化への意識的実践が必要ではないだろうか。

どうなるかわからない・・では恐怖が先に立ち、
みんなと同じでは・・危ぶまれることばかりと気づけば、
どういう方向に歩くのか・・結局自己自身で決めるしかないわけで、

でも結局、これは当たり前のことなのであるが、
ただ、こころ、意識的方向づけ・・
そのパワーに気づける段階にならなければ、
なかなか理解・実践できないものでもある。

「わたしは魂(意識)であり、無限の(宇宙意識)とつながっている・・」
あるいは、オーソドックスに、「わたしは・神と一体である」とか・・
表現は色々あっていいが、
無限意識という創造の根源への帰一というか、
主たる”想念形”を・・高次へ顔を向けて、あらたに再構築するというでもある。

高次元、低次元等ともいうが・・それは、
我々・・無限の意識内面の・・・無限の展開様式のことであって、
気付いているその”意識レベル”に応じた知覚世界が展開するだけのことだ。

今までの様に、3次元的刹那的生命観からくる
「私は死んだら終わりの肉体個人である」という主たる想念形、
肉体個人の存続だけが主目的、淘汰される個人・・というような想念形とくらべ

驚天動地の差が生じることは、あなたならば理解できるだろう。

わたしとは・・実は・・根源・宇宙意識であると”思い至る”ことは、
それが何となくであっても、
自らで自らの在り方の最高の可能性に関わるイメージを想起することであり、
その無限へと続くイメージにそって、常にその軌道にそって自身の在り方が展開する。

花や植物が・・種によって自然と開花するように、
動物の構造体がDNA・遺伝子によって形作られるように、
さらに、
意識としての自己に気付いている存在は、
その無限の可能性を表現する、創造のための、
マインド・想念を意図的に想起することが出来るのだ。

肉体の在り方によって・・人生が展開するのではない。
わたしたちは肉体ではなく”意識”であるから、
イメージ・思考・想念・信念によって展開するのである。

例えばコンピュータは、コンピュータのプログラムに沿って動作するが、
そのプログラムは・・設計者が意図的に書くものだ。
人間において、頭脳が勝手に想いを創造している・・と考えるのは、
コンピュータが勝手に偶然にプログラムを書いていると考える様なものだ。

コンピュータの設計者は、その設計思想を完全に反映させているが、
決してそのコンピュータの物理的空間内にはいないように、
あなた(魂・意識)もまた、肉体の中のどこかに・・何かの「形」で入っているのではない。

あなたが肉体の眼を通して見ているから、肉体の中にいるのではなく、
敢えて、全体から全体を観ること(宇宙意識)だけではなく、
どこ・ここも・・無限であることを確認するかのように、
ある時間・空間の・・部分・個別から・・全体方向を観る・・、
無数の個々としての意識的・存在・・人・・のひとりとして現れているのだ。

意味不明だろうか?

 一は多なり、多は一なり・・・、
  あなたはわたしであり、わたしはあなたでもある。
   全体は不可思議にも部分に含まれ、部分は当然全体に含まれる・・、
    この一瞬に・・すべてが展開している、
  今とは・・過去・未来のを含む・・すべてである・・・

理解可能だろうか?

あらゆる個別の中に、無限があることを確認する・・
無限の喜び・・楽しさ・・それが、魂の進化と言われるもので、
一見、個々としてあるように・・見える「わたしたち」の無数の在り方である。

つまり・・すべては・・無限なのだ。





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(14)マインド使い

2020-03-21 12:12:03 | 意識の科学
ここ急に、人類集合意識の表面全体に恐怖が拡散的にまき起こっているようである。

もちろん人類の集合意識に起こることは、ほとんどが人為的・人工的なものであるわけで、
起こっているというより、起こされているということが適当な表現だろう。

マスコミは原因追及などお構いなく、さも当たり前かのように、
コロナウイルスによるとされる感染病の危機・リスクだけを前面に押し出しているため、
あっという間に”恐れ”の波紋が広がっていることがわかる。

これら今起きていることの背後にあるのは・・「恐れ」の顕在化といえようか。

誰がどうした、こうした、ばらまいた、撒かれたとか、
実は水面下で戦争しているとか、致死率やらなにやら、
そういう関係の無数の事柄を・・・さて置いて、

これらすべての背後にあるのは・・恐れ・・という想念形である。

つまり、いま人類の集合意識の表面には、
普段潜在下に隠し通していた「恐怖」が浮上しているということだ。

こりゃ大変だ~・・という恐怖、マインド上の騒ぎが起きているわけで、
そのマインド上の大騒ぎが、当然ながら人間の思考や行為に波及し、
連鎖的に生活・物質環境レベルまで悪化させてしまうことにもなるし、
何らかの形でその恐怖が無くなるまでは、その騒ぎの影響は続くことになる。
それが今までも起きた、そして今起き(始め)ている恐慌・・ということになる。

それでこの際すべてリセットされるのが良いとか、
そのほうがせいせいするという向きもあるだろうが、
リセットされて、・・その後どうなるのか?
問題先送りだけが残っては、またいつか来た道にいることに気付くはずである。

ここで肝心なことは・・恐怖それ自体・・が問題だということだ。

何かの悪しき出来事、事象自体が起きたことが問題なのではなく、
その事象に対するマインド・こころの反応、この場合は恐怖なのである。

また、自分以外の国家か、学者か・何かが、
この自分のことを含めて、そのうち何とかしてくれるだろうという責任転嫁は、
要するに、甘んじて他者の為すがままに従うという幼児的状況に陥るだろう。
しかしながら、多くの魂の・・いつか来た道は、もう閉じられたと心得るべきであろう。

内にある恐怖自体・・を・・いったい全体、
自分以外の誰が解消するというのか
・・・・・ここに、意識進化の分岐点があると気づかないだろうか。

その集合意識、不特定多数のマインドを、
力づくでどうしようも、こうしようもあるわけもなく、
ただ自分はどう在るのか?何が出来るのかが、
これが、いつでもどこでも重要なことなのだと気づけるだろうか。

であれば、例えば、
何かに悩んだ・困ったときには、問いかけてみればいい、

「だから?それがどうしたのだ?」・・と。

でも、マインドが賢しらに、何事か色々上げてくるだろう、
「あーそうか、大変だな・・いやあ・・実に困った、困った・・・
こういう問題があって、その原因が解らないので、あいつが悪いので、
・・あれが、これが・・・・・」
と、尤もらしく問題提起してくるはずだ。

そこで、(笑)
「・・で、それがどうしたの?」 と何度でも言ってみようか。


これはマインドを鎮める、ちょっとしたノウハウのようなもので、
意識が・・現象・対象・出来事のほうに巻き込まれていることに気づき、
こちらが・・現象・対象を観ているのだ・・という事実に引き戻す効果がある。

意識は・・その知覚対象を「真実」とする性質があるために、
そこに・・リアリティ(現実性)が生じるのである。

宇宙意識は・・ただ世界・宇宙を知覚・現象投影し、
それに含まれる個々の魂・意識は、それぞれの身体経由から知覚・投影している。

その意識的な知覚に対して、さらに色々な思いや思惑が二次的に起きるために、
人は主にこの2次的なマインドで(嘘の)リアリティを感じてしまうのだ。

昨今は欲得マインドが腐敗の限度に達してフェイク(ウソ)だらけになったが・・。

意識は・・その知覚対象に自己を投影・投入する・・・とも言えよう。

例えば、あなたが眠って夢を見ているときに、
普通なら「・・これは夢・・だ」と思っていないはずで、
ただリアリティそのままで、夢を観ているはずである。


その時には、自分が夢の中の住人とでも思っているだろう。

意識は・・知覚対象世界に疑いを挟まない性質があるということだ。

あなたは次のようなことを聞いた事があるだろうか。
 ”潜在意識は無限のパワーがあるが、良し悪しの判断をしない”
 ”顕在意識、つまりこころと言っているものが方向づけ、指令する”

まさに、このことなのだ。

つまり意識は・・嘘も真実もない・・純粋な知覚創造のようなものなのだ。
それに尾ひれ・・マインド・想いが色々派生し、
かつそのマインドは人によって様々な模様を描き出すため、
まったくの個人主観世界という事にもなる。

そのマインドの他者による方向づけの技術が、いわゆるマインドコントロールだ。
マインドコントロールは、本来ならば他者からでなく自分で自分に行うものである。
いつまでも他者に依存、支配、翻弄される幼児のように無知であってはなるまい。

「あー現実が、大変だ・・いやあ・・実に困った、困った・・・」
も良いかも知れないが、
実際にはマインドコントロールが席巻している現代社会の有様に気付ける人ならば、
もちろん、人事を尽くしたあとで天命を待つことが大切ながら、



・・で、それがどうしたの? 
と言ってみようか。(笑)

その瞬間何かが変わる・・のである。

視点・観点が一瞬で変わるのだが、それに気づかないだろうし、
またいつもの意識に戻ってしまうのだが、
この思い切った観点の違いが、呼び寄せるマインドの違いとなって、
意識が知覚する世界の色付けが大きく変化するのである。

マインド・思い・感情の色付けが大きく変化して持続するならば、
その先の想いや行為がその方向に展開することになって、
その意識から創造される世界は大きく変化することになるのだ。

もちろん、諸現象にも意味があるから起きているわけで、
都合よく、不都合な現実?がすぐに消えるとも限らないが、
それら現象の渦から出てくる恐怖とその波及現象に巻き込まれることはないだろう。


・・で、それがどうしたの? 

と言ってみようか。

そして、

わたしは・・どう在りたいのか?

それが問題、つまり問われているテーマなのだ。



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(13)I AM THAT・・

2020-03-17 05:38:29 | 意識の科学
自己覚知とは、”自己に気付いている”ことだ。

これは、わたし達にとって、第一義的に重要なことである。

わたしとは意識的存在、つまり意識・であり、

そうであるがゆえに、

自己自身に気付くと同時に、世界・宇宙が現れる・・

創造・・そのもののことだ。

つまり・・本質のわたし・・自己自身とは、
意識であり、その知覚する世界・宇宙のことでもある。

真我・・と言うべき、真のわたし・・が、
自己自身に気付くと同時に、世界・宇宙が現れる

I AM THAT・・
(I・・は真我、THATは・・無数のあれこれ・宇宙)

いわゆる宇宙創造原理そのものを端的に表わしている。

I AM・・

これ以上重要なことが、「どこに」あるだろう?

繰り返すが、意識といわれるもの、気付きの働きそのものが、
知覚対象としての世界を投影する。

あなたがいま、存在していること・・そのものだ。

著名な科学者・哲学者であるアービン・ラズロは
宇宙は意識的だと言ったが、まったくその通りだと言わねばなるまい。

一般には、
宇宙創造とは、極限に凝縮されたエネルギーが爆発して、
物質宇宙として創造されたというビッグバン理論のようなイメージがあるため、
それは我々とは関係ない・・あの宇宙のことだと思っていて、
それぞれのわたしたち自身が、創造の原理そのものだと言われても、
今一どころか、ほとんどピンと来ないかもしれない。

しかしながら、膨大な宇宙の話をしなくても、
どんな現象だろうが、現象だけで勝手に存在などできない事、
何かに気づかなければ、知覚しなければ、その”何か”は存在としてあり得ない事、
このシンプルな事実に気付くべきなのである。

あなたの見ている物質・形、環境・創造物は、
あくまでも知覚のその対象物であるが、
知覚している者、つまり存在を存在として有らしめている者が、

それに気づかされず、知らされず、自らの投影している、対象物・現象が、
自分とは関係なく・・・勝手に・・そこにあると・・思っている、
その可笑しさ・愚かさに気付くべきである。

あなたが・・”あなたの世界を創っているのだ”と言われて、
それはちょっとしたこころの、マインドの持ち方の反応の事だとか、
あるいは脳内のイメージ世界の中でのことだとか、そう思っているかもしれないが、
それでは足りず、さらにその線上に浮かび上がる、
”こと”の重要さの本質に気付く必要があるだろう。

意識(本質・魂)といわれるもの、気付きの働きそのものが、
知覚対象としての世界を投影するということ。
”わたし”の気付く・知覚する対象世界は・・それぞれ”わたし”自身だということだ。

「あなたはひとりの創造者だ」と、たまに聞いたことがあるかもしれないが、
この世的な欲望がアワよく形にならないために、
あるいは思うとおりにならないために、
自分が1人の創造者などと、そんな事あるわけないと思ってしまい、
「馬鹿言うんじゃないよ!」・・で終わりになる。

それは、自分が肉体でしかないという、
固定されたこの世的、3次元的信念体系の中において、
その都度のマインド・こころ・欲望がすぐに形にならないがゆえである。

もし、創造が個人の欲望の具現ならば、宇宙などとうの昔に存在しない。
マインド・想いの具現化や人工的な創造は、
普遍意識の上に起きる個人的な想い、2次的な波のようなものだ。

自分とは、偶然生まれて、死んだら終わりの肉体個人であるという、
この3次元的信念体系から解脱し、
肉体も環境も・・意識の”知覚対象”でしかなく、
意識(魂)によって知覚展開されているものだという、
高次の理解、意識(魂)レベルに至る必要がある。

今・・だ。

これを昔から・・”さとり”という。
覚醒とは、目ざめることであり、自分が魂・意識であること、
創造の原理そのものであることを知ることなのだ。

---
わたしたちが、この世界に生まれたということについての話を、
意識の視点から見てみると・・・。

あなたが子供の時のいつからか、自分が存在しいていることに気付いた。
あなたが、ある家庭環境のなかの子供だと・・知った時期。
まず母親がいて父親がいて、あるいは兄弟もいたかもしれない。

自分が在る・・という漠然とした存在感に・・気付いたのは、
あなたの意識が次第に明確になってきて、
自分が子供であるという感覚に気付いたころだ。

これはどういう事だろうか?

つまり、これは意識が肉体を通じて ”目覚め始めた”という事だ。
あなたを中心とする・・1つの宇宙・世界が生じ始めたとも言えよう。

人間は肉体存在でしかないという3次元的世界認識では、
生れるとは、赤ん坊の肉体が親の肉体から出てくるという感覚でしかない。
これは、他者の視点からみた肉体観察でしかなく、

わたし・・意識・・の観点が欠落しているのだ。

つまり、生命も動く物質であるというような3次元認識レベル・・そのものだ。

普通一般には、赤ん坊が成長して大きくなるに従って、
ものを喋りもする様になって、人間らしくなるというような、
漠然とした成長の経過をイメージしているだろうが、
これは親の目線から見たもの、

つまり、肉体生命である赤ん坊を観ている親の目線のことである。

母親の目線は、普通は愛しく親密ではあるが、
あくまでも不可思議な肉体生命を観る目線に違いない。

あなたが・・”あなたの意識から”眺めたものではない。
何を言わんといているのか・・理解可能だろうか?

あなたが・・あなた自身に気付いたのは
意識が芽生え、あるいは目覚めたのは・・幼少期のいつか・・である。

それまでは、あなたの肉体は、親の目線上では存在しているが、
他者の目線上で観察される肉体生命としてだった。

親の話を聞いた事があればわかるように、
特にお腹を痛めた母親はお腹で動く生命感覚や、
この世界にオギャーと生まれるまでのことまで憶えている。
そして、成長して物心つくまでの記憶やら写真やらを披露してくれるはずだ。

しかしながら、あなたはその時までのことを憶えていない。
親がいて、自分が赤ん坊であることなど・・気付いていない。

他者があなたの肉体を知覚しているだけで、
あなたの意識は存在していない、あるいは眠っているようなものだ。

そして、
あなたが、あなた自身に気付く・・までは、
親がどうだろうが、・・
あなたにとって・・世界・宇宙は存在していない。

なぜならば、
自分自身に気付くこと、
これはまず自己自身を知る・知覚することであり、

それからすべてが生じるからである。

あなたがこの世界を知覚している、宇宙をも観ているのは、
自己自身に気付くことが出来る、”意識”があるからである。

肉体に意識がある・・のではなく、
肉体が意識を偶然に生み出したのではなく、

わたしは意識であって、肉体を通して知覚しているもの
いわゆる「魂」であるということだ。

肝心なことは、

世界や宇宙がまずあって、”そのあとで”・・意識が偶然生まれて、・・ではなく、
意識があるからこそ、世界や宇宙がある・・ということだ。

あなたがこの世界に生まれたということも、それを如実に示している。

この次元世界において、親の行為によってほぼ自動的なプロセスで子が生まれ、
その子供という生命の中から・・後で・・意識が生まれたということだが、
それは親、他者の目線からの言いぐさであって、
わたしという存在の肉体次元の観察なのである。

わたし・・意識から観れば、
わたしに・・気付いた瞬間から・・
わたしの臨在するこの世界が展開しているということだ。

自己覚知とは、”自己に気付いている”こと。

多くの人たちは、この宇宙で第一義的に重要なことに気付いていない。

なぜならば、自己自身に気付くと同時に、世界・宇宙が現れる。

いわゆる宇宙創造原理そのもの。

これ以上重要なことが、どこにあるだろう?

簡単に言えば、意識といわれるもの、気付きの働きそのものが、
知覚対象としての世界を投影するということだ。

もちろん、親も他者も、意識・生命であることに変わりがないし、
この世界も集合意識で創られているわけであるし、
さらに地球・宇宙へと意識的創造が展開しているわけで、

わたし・・意識から観れば、
わたしに・・気付いた瞬間から・・
わたしの臨在するこの世界が展開しているということは、

宇宙の中には・・私個人だけがいるという意味でもない!

しかしながら、よく観てみよう。
こちら側・・の・・わたし・・は、わたし・・しかいないのだ。

わたしは・・わたしである・・が全てであり、
わたしという意識は・・ただひとつでありながら、
また同時に、無数のわたしが存在するという無限性の示現をあわせもつもの、
それがあなたや私という、個人の姿(肉体形)をもつ存在なのである。





追記:
こことは違い、知っている人は知っている有名なブログだが、
”INーDEEP”というサイトに、「量子脳」理論という興味深い記事が載っている。

いわゆる人の本質・魂の普遍性・不滅性を、物理学や脳科学から論じたものの紹介だが、
すくなくとも、人間が単なる肉体個人だという固定観念は、すでにもう終りかけていると心得るべきであろう。

ここで題して、
魂・意識の科学的知見について


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(12)自己覚知

2020-03-15 05:46:02 | 意識の科学
自己覚知とは、自分自身に判然と気付くことだ。
これは「わたしとは何か?」という疑問を、
真剣に自己自身に問いかけることでもある。

普通、多くの人はここまでは行かない。
誰もそうなのだが、
わたし・・という自意識感覚はあるものの、
人生そのままの状態のまま、
ことさら、わたしとは・・何か?・・
という自己への真剣な問いまで行かない。

あなたはどうだろうか?・・・あなたとは何だろう?

往々にして、
解りきったこと聞くんじゃねえよ!とか、
それが何の役に立つんだよ!とか、
そういうマインドに遮られて、大体終わりになってしまうのかもしれない・。


普通、自分とは何か?と問われて、
私は「〇〇・・です」というのは、
あなたが肉体として生まれてからの記録、経歴のことだ。

何年生まれ、現在の歳、性別、性格など諸々のことである。

あなたは誰か、何か?と問われたら、皆と同じようにそう答えるし、
それがすべてである・・と想っている。

ここで大事なのは
・・そう思っている・・認識しているということだ。
それが事実だ、現実だ・・ではなく、
事実だ、現実だ、経歴だと・・そう”認識している”という事だ。

この先にサラサラと急いで素通りせずに、まずこれに気付く必要がある。
そう”認識”している・・ということを・・。

認めること、・・そうだと、それが事実だと認識、
・・是・・だと、”意識している”ということだ。

あるのは・・それだけ、認識・・だけがある。

ここまでが、なかなか気づかない。
簡単すぎて・根本で、見失っている、迷っていることに気づかない。

物がある、事実がある・・現象がある・・のではなく、

知覚することがある、あるいは認識がある・・ということだ。

それがどうした?と・・、表面的利得効果がないため素通りする。

わたし達は・・観たものを「事実」だとしてしまうが、
事実だと・・いう--『知覚”認識”』に過ぎないということに、
気付かなければならない。

---

わたしたちの普通の自己認識とは、
過去の記憶イメージによって創られている。

生まれたのち、赤子から成長し、現在に至るまでの、
肉体とマインド・思考・感情などの「記憶」である。

幼稚園、小学校、中高大、社会生活などでの、
ざまざまな経験と思考・感情の「記憶」である。

その様々な記憶の総体・・を「わたし」と言っている。
そしてその記憶は「頭脳」に蓄積されていると教わっている。

なので、科学的な知見までも考慮すれば、
わたしはこの肉体単体であると・・そういう事になる。

そういう事、と言っても、
これ自身・・そういう”自己認識”であることに違いは無い。

どこまで行っても・・認識・・なのだ。

それが様々な実験と検証を経て来た・・事実”認識”なのである。

意識的な働き無くして、
事実・現実単体で・・・
存在などできないことに気付けるだろうか?

それは・・肉体の頭脳が行っている・・
という”認識”があるということだ。

ただ・・ある、在るのは・・意識だと・・言われる所以だ。

わたし・・が在る・・から世界・宇宙がある。

---

さて、あなたがこの世界に生まれたということは、
どういう事なのか・・
わたしは・・意識である・・という観点からみてみよう。


わたしたちの普通の自己認識とは、
過去の記憶イメージによって創られている。

生まれたのち、赤子から成長し、現在に至るまでの、
肉体とマインド・思考・感情などの「記憶」である。

幼稚園、小学校、中高大、社会生活などでの、
ざまざまな経験と思考・感情の「記憶」である。

その様々な記憶の総体・・を「私個人」と言っている。


ところで・・、あなたはいつ・・自分に気付いただろう?
多分幼いころだと思うが
・・いつの時点で・・自分自身に気付いただろうか?

わたし・・意識に気付いたのは、いつ頃かという問いかけだが、
想い出せるだろうか?






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(11)集合意識の擾乱

2020-03-13 06:26:32 | 意識の科学
今、人類の融合意識の現象面に擾乱が起きてきている。

もちろん多次元的に複雑にからんだ想念形が原因であるし、
いままで押し隠され、歪に歪んだ人類の想いが現象化しているということだ。

人類の集合意識での出来事に、偶然というものは存在しない。
ハプニングなどは無く、すべて・・意識的・あるいは意図的である。

原因と、必然たる結果にまったく気づかず無頓着な場合は、
大きな現象・事象が出てくる毎に、慄き・慌てるものである。

そうではないか?

昨今増えて来た何々パニックの類も、
すべて人為的・人工的なものであると気づかなければならない。

しかしながら、出来事・現象の1つ1つを、
もぐらたたきの様に追及すること、誰が、何のためにという犯人捜し行為自体も、
この期に及んでは、実に対症療法的な考え方なのだ。

例えば、大自然による災害や被害などと言われるものも、
大自然との調和を考慮しない意識的姿勢、人為的な要因があるがゆえに、
結果として不都合で想定外の事象、
災害や被害になってしまうという事に気付く必要がある。

大自然との調和を無視する・・という行為も、人間の意識的行為なのである。

すべての人々がよって立つはずの大自然との調和を第一に模索するような
古代からの民族がとっている意識的姿勢を維持することよりも、
それらはコストがかかるといってあざ笑い無視してきた行為の
いわばその負債こそが実に膨大なものだと気づかなければなるまい。

自分たちだけに好都合な、設備・機械、地域・社会の崩壊した後で、
茫然と立ち尽くすことは誰でも出来るのだ。

知らなかった、知らされなかった・・という間接的な無責任さも、
その後に及んでは、何の役にも立たないだろう。


文明世界のあらゆる仕組み、建物・製造物・文物、ありとあらゆるものが、
人工的、人為的であることを知れば、あらゆる出来事の背後には”意識”、
この場合は個人的・自我的、利己的な特定の想い・・と言う意味だが、
形・現象として現れる背後には、かならずそれがあることを知っているだろう。

今起きているのは大きな流れで言えば、古い価値観念の崩壊である。

変化を嫌い、意識での進化の必然たる方向性に気付かず、
肉体の安楽・維持に特化した感のある現代機械文明の、
長きに渡って、あまりにも増幅され、かつまた巧妙に抑え込まれた想念の歪が、
隠され誤魔化され続けてきた歪が、
とうとう・・人類意識の表層・大衆意識にも現れ始めた、
多くの人が何ごとかの異常を知覚し始めたとも言えよう。

不安の増大、余裕のなくなった歪んだ肉体自我のあがき、
そのエゴ同士の闘争が、水面下から次第に表面上に現れて来たともいえる、

大衆意識に擾乱が生じるとどうなるかと言えば、
多くの人が何ごとかの異常を知ると、普通はまず「恐怖」が先に立つことになり、
多くの人が、怖れ・慌て・慄く、あるいは戦(おのの)くような、
今度はそういう想念形がつくられて来る。

それが集合・常識意識として右習え式に連鎖すると「恐慌」ということになる。

難しい話ではなく、エゴ的思考・想念、
自分さえ良ければ・・という想いが、その許容限度を超えたため、
個々人、社会・組織、国家、超国家組織レベルにおいて、
破裂する泡(バブル)という形で現象化しているのだ。

とはいえ、
われわれはこの世界に身を置いているわけなので、
何もありません・・と言う事にはなりそうもない。

出来得る限り、必要と思われる自助努力は行いつつ、
歪んだ想いの崩壊や恐慌に飲み込まれることなく、
人生のその時限まで「覚悟」して生きる必要があるだろう。

ちなみに「覚悟」・・どちらも・・さとる・・と読む。
常識的な・・覚悟せよ!・・ではない。
もう、覚る・・悟る・・それ以外にない時期であるということだと
気付いたほうが良いだろう。

そう、我々が目にしているこの”3次元的世界”、
あるいは個人我・エゴ主体の意識体の創る集合世界は、
あとどれくらいという想いはこの際さておいて、
すでに最終章に差し掛かっているとも言えるだろう。

----

さて、わたしたちは・・
この3次元的世界の単なる肉体個人、肉体自我ではなく、
この集合意識世界に参入しているより普遍的な魂・意識であるという話に戻そう。




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