宇宙意識の全包容的知覚に対して、
無数の部分部分から知覚している個々の意識(魂)がある。
個々の意識はつまり、あなたや私たちという、
個人という感覚のある・・宇宙意識のことだ。
そう・・あなたや私たちは、個別化した”宇宙意識”である。
宇宙意識、根源意識・神意識・創造主・ソース、呼び方は何でも良い。
言い換えれば、
根源意識と完全に繋がっているからこそ、わたし・・意識があること、
このことを能々(よくよく)理解する必要があろう。
それを観ている自己自身に・・気付きやすくなったこと以外、
騒ぎの増大した知覚対象世界をいくら眺めても知ることは出来ない。
頭であれこれ、知覚対象物のことを考えることではなく、
単純に、無限と繋がっている自己イメージに、
自分の好む理想イメージでも良いと思われるが・・
それに意識、気づきの焦点を合わせることだ。
カメラの画像のピントを合わせるのと変わらない。
要は、
いま時間を掛けてでも・・その最善と思われる自己イメージに
集中・フオーカスすべきであるということだ。
いわゆる、つい恐怖で誘われてしまうネガティブ想念ではなく、
誰でもそれを望んでいるところの、・・
愛、知恵、幸福・・充実・安心・・、そういう類の想念を、
集中し、持続し、自己内面に築き上げ、保持することである。
今までは、外からいじくられっ放しだったことに気付いているはずだ。
これからもそれをやるのかということだ。
ここで、今・・・リセット・リスタートする時なのだ。
肝心なのは原因のほうであり、
因とはその人の方向づける主たる意識、体験の基本となる想念形だからだ。
上から目線、余計なお世話!と感じる向きもあるだろうが、
今までの様に、スピ系概念をさっと、サラサラと、
好んで何度も通り過ぎるのではなく、
最善イメージの定在化への意識的実践が必要ではないだろうか。
どうなるかわからない・・では恐怖が先に立ち、
みんなと同じでは・・危ぶまれることばかりと気づけば、
どういう方向に歩くのか・・結局自己自身で決めるしかないわけで、
でも結局、これは当たり前のことなのであるが、
ただ、こころ、意識的方向づけ・・
そのパワーに気づける段階にならなければ、
なかなか理解・実践できないものでもある。
「わたしは魂(意識)であり、無限の(宇宙意識)とつながっている・・」
あるいは、オーソドックスに、「わたしは・神と一体である」とか・・
表現は色々あっていいが、
無限意識という創造の根源への帰一というか、
主たる”想念形”を・・高次へ顔を向けて、あらたに再構築するというでもある。
高次元、低次元等ともいうが・・それは、
我々・・無限の意識内面の・・・無限の展開様式のことであって、
気付いているその”意識レベル”に応じた知覚世界が展開するだけのことだ。
今までの様に、3次元的刹那的生命観からくる
「私は死んだら終わりの肉体個人である」という主たる想念形、
肉体個人の存続だけが主目的、淘汰される個人・・というような想念形とくらべ
驚天動地の差が生じることは、あなたならば理解できるだろう。
わたしとは・・実は・・根源・宇宙意識であると”思い至る”ことは、
それが何となくであっても、
自らで自らの在り方の最高の可能性に関わるイメージを想起することであり、
その無限へと続くイメージにそって、常にその軌道にそって自身の在り方が展開する。
花や植物が・・種によって自然と開花するように、
動物の構造体がDNA・遺伝子によって形作られるように、
さらに、
意識としての自己に気付いている存在は、
その無限の可能性を表現する、創造のための、
マインド・想念を意図的に想起することが出来るのだ。
肉体の在り方によって・・人生が展開するのではない。
わたしたちは肉体ではなく”意識”であるから、
イメージ・思考・想念・信念によって展開するのである。
例えばコンピュータは、コンピュータのプログラムに沿って動作するが、
そのプログラムは・・設計者が意図的に書くものだ。
人間において、頭脳が勝手に想いを創造している・・と考えるのは、
コンピュータが勝手に偶然にプログラムを書いていると考える様なものだ。
コンピュータの設計者は、その設計思想を完全に反映させているが、
決してそのコンピュータの物理的空間内にはいないように、
あなた(魂・意識)もまた、肉体の中のどこかに・・何かの「形」で入っているのではない。
あなたが肉体の眼を通して見ているから、肉体の中にいるのではなく、
敢えて、全体から全体を観ること(宇宙意識)だけではなく、
どこ・ここも・・無限であることを確認するかのように、
ある時間・空間の・・部分・個別から・・全体方向を観る・・、
無数の個々としての意識的・存在・・人・・のひとりとして現れているのだ。
意味不明だろうか?
一は多なり、多は一なり・・・、
あなたはわたしであり、わたしはあなたでもある。
全体は不可思議にも部分に含まれ、部分は当然全体に含まれる・・、
この一瞬に・・すべてが展開している、
今とは・・過去・未来のを含む・・すべてである・・・
理解可能だろうか?
あらゆる個別の中に、無限があることを確認する・・
無限の喜び・・楽しさ・・それが、魂の進化と言われるもので、
一見、個々としてあるように・・見える「わたしたち」の無数の在り方である。
つまり・・すべては・・無限なのだ。
無数の部分部分から知覚している個々の意識(魂)がある。
個々の意識はつまり、あなたや私たちという、
個人という感覚のある・・宇宙意識のことだ。
そう・・あなたや私たちは、個別化した”宇宙意識”である。
宇宙意識、根源意識・神意識・創造主・ソース、呼び方は何でも良い。
言い換えれば、
根源意識と完全に繋がっているからこそ、わたし・・意識があること、
このことを能々(よくよく)理解する必要があろう。
それを観ている自己自身に・・気付きやすくなったこと以外、
騒ぎの増大した知覚対象世界をいくら眺めても知ることは出来ない。
頭であれこれ、知覚対象物のことを考えることではなく、
単純に、無限と繋がっている自己イメージに、
自分の好む理想イメージでも良いと思われるが・・
それに意識、気づきの焦点を合わせることだ。
カメラの画像のピントを合わせるのと変わらない。
要は、
いま時間を掛けてでも・・その最善と思われる自己イメージに
集中・フオーカスすべきであるということだ。
いわゆる、つい恐怖で誘われてしまうネガティブ想念ではなく、
誰でもそれを望んでいるところの、・・
愛、知恵、幸福・・充実・安心・・、そういう類の想念を、
集中し、持続し、自己内面に築き上げ、保持することである。
今までは、外からいじくられっ放しだったことに気付いているはずだ。
これからもそれをやるのかということだ。
ここで、今・・・リセット・リスタートする時なのだ。
肝心なのは原因のほうであり、
因とはその人の方向づける主たる意識、体験の基本となる想念形だからだ。
上から目線、余計なお世話!と感じる向きもあるだろうが、
今までの様に、スピ系概念をさっと、サラサラと、
好んで何度も通り過ぎるのではなく、
最善イメージの定在化への意識的実践が必要ではないだろうか。
どうなるかわからない・・では恐怖が先に立ち、
みんなと同じでは・・危ぶまれることばかりと気づけば、
どういう方向に歩くのか・・結局自己自身で決めるしかないわけで、
でも結局、これは当たり前のことなのであるが、
ただ、こころ、意識的方向づけ・・
そのパワーに気づける段階にならなければ、
なかなか理解・実践できないものでもある。
「わたしは魂(意識)であり、無限の(宇宙意識)とつながっている・・」
あるいは、オーソドックスに、「わたしは・神と一体である」とか・・
表現は色々あっていいが、
無限意識という創造の根源への帰一というか、
主たる”想念形”を・・高次へ顔を向けて、あらたに再構築するというでもある。
高次元、低次元等ともいうが・・それは、
我々・・無限の意識内面の・・・無限の展開様式のことであって、
気付いているその”意識レベル”に応じた知覚世界が展開するだけのことだ。
今までの様に、3次元的刹那的生命観からくる
「私は死んだら終わりの肉体個人である」という主たる想念形、
肉体個人の存続だけが主目的、淘汰される個人・・というような想念形とくらべ
驚天動地の差が生じることは、あなたならば理解できるだろう。
わたしとは・・実は・・根源・宇宙意識であると”思い至る”ことは、
それが何となくであっても、
自らで自らの在り方の最高の可能性に関わるイメージを想起することであり、
その無限へと続くイメージにそって、常にその軌道にそって自身の在り方が展開する。
花や植物が・・種によって自然と開花するように、
動物の構造体がDNA・遺伝子によって形作られるように、
さらに、
意識としての自己に気付いている存在は、
その無限の可能性を表現する、創造のための、
マインド・想念を意図的に想起することが出来るのだ。
肉体の在り方によって・・人生が展開するのではない。
わたしたちは肉体ではなく”意識”であるから、
イメージ・思考・想念・信念によって展開するのである。
例えばコンピュータは、コンピュータのプログラムに沿って動作するが、
そのプログラムは・・設計者が意図的に書くものだ。
人間において、頭脳が勝手に想いを創造している・・と考えるのは、
コンピュータが勝手に偶然にプログラムを書いていると考える様なものだ。
コンピュータの設計者は、その設計思想を完全に反映させているが、
決してそのコンピュータの物理的空間内にはいないように、
あなた(魂・意識)もまた、肉体の中のどこかに・・何かの「形」で入っているのではない。
あなたが肉体の眼を通して見ているから、肉体の中にいるのではなく、
敢えて、全体から全体を観ること(宇宙意識)だけではなく、
どこ・ここも・・無限であることを確認するかのように、
ある時間・空間の・・部分・個別から・・全体方向を観る・・、
無数の個々としての意識的・存在・・人・・のひとりとして現れているのだ。
意味不明だろうか?
一は多なり、多は一なり・・・、
あなたはわたしであり、わたしはあなたでもある。
全体は不可思議にも部分に含まれ、部分は当然全体に含まれる・・、
この一瞬に・・すべてが展開している、
今とは・・過去・未来のを含む・・すべてである・・・
理解可能だろうか?
あらゆる個別の中に、無限があることを確認する・・
無限の喜び・・楽しさ・・それが、魂の進化と言われるもので、
一見、個々としてあるように・・見える「わたしたち」の無数の在り方である。
つまり・・すべては・・無限なのだ。