気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

時空物語(14)なぜ瞑想が必須か その1

2018-04-25 08:14:03 | 真我実現シリーズ
瞑想とはなんだろうか。

目を「瞑る」ことと、「想い」と書く。

瞑想をしているのを見て、何もせずただ座っているとか、
何をしているのだろうかといぶかるものだし、

忙しい現代人は、
瞑想を、何か非生産的で無駄なことのように思うものだ。
そうではないか?

自分もかつてそう思っていた部分がある。
座禅の姿はどこか知っているという
不可思議な内奥の既知感と同時に、
この世界に生まれ育って身についてしまった、
世俗的合理主義の観念というフィルターによって、
「瞑想など何の価値があるのか?」という思考が幅を利かせている為だ。


「あんたね、瞑想で飯は食えないんだよ・・」
「何かしなさいよ、はい、行動・行動・・!」
瞑想など何の価値があるのか・・、
だってみんなそうしてないんだもの・・、
そういう感覚ばかりを持つ人もいるに違いない。

常に何かを考え、それを行動に表し、具体化し、金を稼ぐ・・、
何か新しい概念を、次から次へと目まぐるしく繰り出すのが、
頭が良い、優秀な人だと・・思っているだろうか。

とにかく「何かをしなければならない」・・という風潮が強いだろう。
さらにそれが、経済という、生きる為に資する方法に特化され、
日夜忙しく立ち働いているのが多くの現代人である。

1日のリセットである眠りも、ただ「体の休息」でしかないと、
ほとんどそう考えているわけだ。
そうやって、365日を何十回繰り返し、
みんなと歩調を合わせているはずの人生が過ぎて行き、
ふと、見れば誰もいない、
離間距離の離れきった個人個人という、
バラバラの集団にいるということに気づくことにもなるかも知れない。
個人主義という、実は西洋的利己主義のドン詰まりである。

そういう無意識の水面下に抑え込まれた、
見えない社会プログラムを見破って意識の洋上に浮上するには、
どれだけの輪廻が必要だろうか?

自らの本質に気づき、そして振り向くまでだ。


実際には現代において、
瞑想ほど価値のあるものはない。

特に物質的顕現に特化され、
生きるためと称してどこか優しげに酷使され、
合理化、効率化という人間の本質を無視した文化・文明、
精神、マインドを忘れるように生きてしまうような
そんな末法の世、あるいはおどろしい表現をすれば、
明らかに黙示録的世界において、
その背後の霊的自己を取り戻すためには、
霊的と言われる知識を、憶えるだけでは全く不十分であり、
その知識を注意深く、自らに応用する行為の、
最も安定した、最も心身に安全な、
物質的なものは全くと言っていいほど不要な、

瞑想ほど価値のあるものはない。

それはまた、
動に対する不動、
騒乱に対する静寂、
消耗に対する充電、
「色」に対する「空」であると言えよう。


言うならば、色即是空を象徴した絵。
空(くう)に動意あり、波動を生じる。I am that・・。
すべては振動であり波動・・究極極微の波動は気づき・意識であり、
あらゆるすべてに遍在している。
すべての<わたし>のことでもある。

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時空物語(13)自我とは・・一者の投影像

2018-04-20 06:43:31 | 真我実現シリーズ
気づき・・意識がある・・ことで
・・そこに世界・宇宙がある・・
すでに・・意識によって・・投影されている・・のである。

それぞれわたしの在ることによって、まんま投影されているのが・・
私たちの世界・宇宙である。
宇宙はどこまで行っても限りがないだろう。
それはすでに、観ているわたしの・・無限性を暗示している。

気づき、認識、観察している者は、その中にいるのではなく、
それを超え、含んでいるからこそなのだ。

とはいえ、わたしが・・私個人、肉体だという信念のまま、
わたしとは肉体自我だという信念のままでいるような、
気づきにくい「幻想感覚」が支配している限り、
どうにもこうにも勘違いのままということにもなる。

また大勢の人々の勘違い、自己忘却の演技の渦の中にいて、
観察対象でしかない、外の世界、他者という
投影個人の中に真実を見出そうとする限り、
これもでか・・!というくらい引きづり回されることにもなる。

人の意識の投影する世界、身近な人生ともいうそれは、
その時々の個人的思い付きという、
表層のマインド・こころ・・で作っているのではなく、

それを生じさせる・・壮大な意識・マインド、
宇宙意識とか神とか言っているそれ・普遍意識の動きで投影されている、
壮大な「時空映画」のようなものである。

そして物語の・・その中に”自己を投入”しているのだ。
成りきっている・・事に・・気づいていない。
そんなことができるのは、その物語の作者以外にない。

I AM THAT I am.

例えば、この時空世界には71億人の人間がいる。
物語に入り込んだ一者は、無数の個体・個人として、時空内・外に現れている。

一者とは・・つまり無限者である。

無限者が物語の中に自己投入し、自己同一化した・・
私個人・・が今、ここにある。
放蕩息子の例えそのままだ。
はるかに長い旅だともいえるし、一瞬のことでもある。

それに気づき始めた存在達は、
わたしは・・実は何だろうか?という疑問が沸き起こってきた人たちは、

例えば自分が、何度も生まれ変わっていること、
あるいはさらに・・実は宇宙由来である・・という感覚をも持つようにもなるだろう。

宇宙スピ系でおなじみの、宇宙人、プレアデス・オリオン・シリウス・・、
あるいは、天空の星々に絡む、無数のこの世以外の世界物語にも気づくだろう。

それらは、この世界物語が唯一のものではないという、
拡大された意識、気づきからきており、
そこにもまたその段階での無数の展開がある。

霊能者の言説やリーディング、夢やふと出てくるビジョンという
様々なチャネルや経験の如何を問わず、
自己に関する”より拡大した自画像”が描かれ始めてくるわけだ。

あなたはどうだろうか?

気づかぬ人は、まったく気づかない・・こういうマインドのレベル、
スピリチュアルなリーダー、超能力者、霊能者を介するとか、介さないとかは関係なく、
例えば、あなたが、
かつてアラビアや中国にいた○○だとか、何百年前の文明の中にいたビジョンとか、
そういう情報・記憶・ビジョンが・・少しづつ”意識内面”に現れてくる。

そこには、妄想や希望的観測、逃避願望、霊的エゴ等という歪みもあるものの、
要は、私とは・・今ここにある「肉体個人」に限っていない・・という気付きだ。

それらは、
一者である<無限なるそれ>が自己投入する世界は、
無限者が自己同一化している、個人達の描く世界は、
当然ながら・・無数にあるという
より拡大された意識から来るのだ。

そう、あの聖書の中にもところどころに、その事実が垣間見える。
例えば、
イエスが言ったとされる言葉、
「わたしはこの世のものではない・」とか、
天には様々な人の子の住まいがある・・」とか。

一者にとっては、<わたし>の中に宇宙がある。

一時の人生を生きるかに見える・・個人、
つまり自我は・・一者の投影像でありながら、
一者の・・自己同一化されたものであることに気付く必要がある。

誰か・・何かの保証を求めてはならない。

なぜならば、自己同一化の公式というべき・・

I AM THAT I am であるからだ。




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時空物語(12)マインドとは何?

2018-04-14 09:08:00 | 真我実現シリーズ
観察することで、対象物の存在を知る。
意識的に気づくことが、事象を知覚することだ。

毎日起きている・・わたしの・・この単純な事実に気づく必要がある。

単に物質が・・あるのではなく、
それがあることを・・知覚することが・・ある。
それを「観察」ともいうが、
知り、覚える、認識する・・ことが、瞬間に行われている。
・・・
世界・物質が目の前に、周りにたくさんあって、
その中で物質としての私たちが住んでいる・・と考えているが、
それは  ちがう! ということを真に理解せねばならない。
何がちがう?・・
物質だけがそこにあるのではなく、
気づくこと・・知覚・知る・認識があるということだ。

逆に言えば、気づき、意識・・知覚・・がなければ、
物質も世界も宇宙もない・ということである。

毎日のこと、
それぞれ、わたしが熟睡しているときに世界は知覚されない。
つまり存在していない・・と言えるのだ。
「えー、馬鹿な・・!」

わたしが熟睡しているときに世界は知覚されない。
つまり存在していない。

ことさら気づいていないだけで、
大勢の他者がそんなこと何も言わないからと言って、
これは、わたしからみた事実である。

熟睡中は無意識と言われるはずだ。
意識が目覚めていない時には、世界も宇宙もない。

世界や宇宙が・・ずーっとそこにあるというのは
「思い込み」であり、決して証明されえないのだ。

あなたが熟睡中、だれかが目覚めていて、
ちゃんと世界があることを見ていたとしても、
そのときあなたは・・それを知らない
後で、・・目が覚めた時にそれを聞くだけなのである。

わたし・・意識がなければ、世界・宇宙はないということだ。
「えー、まじかよ」(笑)だが、事実は小説よりも奇なり。



「え、何言ってんの!」
「宇宙の中に・・私という肉体個人がいるじゃないか・・」

それが常識であるが、
これは・・そう「観察」している結果である。

そうだと・・知覚・観察・思索しているのは・・・誰か?

意識、知覚・そして思索という働きのことを
・・こころ・・マインドと言っている。

マインド・意識がなければ物質、世界、宇宙もない。
逆に言えば、
物質・世界・宇宙は、マインド・意識があるからこそ存在する。

覚者や聖者が簡単にいう言葉、
「世界はこころの産物だ・・」という意味である。

ところが、あなたは・・そんなわけない・・と言う。
なぜならば、
「わたしはこの世界を造った憶えはない、まして宇宙など・・」
そう思うのである。

わたしの・・今の表層のこころが・・そう言うだけである。

あなたが目をつむって「むにゃむにゃ念じて」(笑)、
あるいは手で捏ね上げて作るものではなく、

気づき・・意識が在る・・ことで
・・そこに世界・宇宙がある・・
すでに・・意識によって・・投影されている・・のである。

その時々の個人的思い付きという、
表層のマインド・こころ・・で作っているのではなく、

それを生じさせる・・壮大な意識・マインドによっている。

観察することで、対象物の存在を知る。
意識的に気づくことが、事象を知覚することだ。

毎日起きている・・わたしの・・この単純な事実に気づく必要がある。

この単純でいつも見逃してきた・・深い事実の中に・・宇宙がある。

世界・宇宙は、あなたのマインドの中にある。

実にシンプルではないか。




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時空物語(11)マインド浄化とは

2018-04-10 06:00:55 | 真我実現シリーズ
人は必ずマインド・心の浄化が必要である。
「人によるけどね、・・」ではなく、必ずだ。
マインド・想念の浄化である。

なぜかといえば、
この時空、いわゆるこの世界・地球の共同創造フィールドは、
マインドの幼年期の特徴とも言える、
粗く低位なマインド・こころ・想念形の現象化されたものだからだ。

粗い・・とは、大ざっぱ、粗暴、美しくない、・・という意味がある。
低い・・とは、幼い、理解の少ない、物質偏重、目先だけ・という意味があるだろう。

これを・・
粗い・・「波動」、低位の「波動」とするとわかりやすい。

粗い波動は、より微細な波動を検知できず、
低位の波動は、振動数が低く振動が大まかで、
より振動数の高い、細かいものが知覚できない・・そういう理解が可能である。

マインドも波動であり、そうであるからこそ、
心模様、感慨、感情という情報が乗っている。
そして記憶されるのである。

そうではないか?

マインド、思考、想念は・・「波動」なのである。

現在の電子機械で検知できないといっても、
それが波動であることは、あなた自身がそれを証明している。
どこかの学者・権威に従う必要はない。

毎日、毎瞬・・何かを考え、イメージしている”それ”だ。
それは「波動」と考える以外他にない。
頭に・・浮かぶイメージ・・その連鎖を「思考」とするならば、
身体がそこにありながら、
あなたは目には見えない波動で振動している状態といえる。
人は、目には見えない想念の波動・振動の・・塊・・と言えよう。

マインドは世界を含み、それを超えているという意味は、
すべてを波動として言い表すならば、

想念波動は、いわゆる物質的とされる時空間を含み、超えている。
つまり、時空、あるいは物質形に浸透し、
それを含み、それを造り上げている・・波動と、
そういうことである。

しかしながら、
それに気づくべき・・わたしが、
物質的時空間内部の「肉体個人」だと”思い込んで”いる場合、
それにとんと気づかない。
なぜならば・・そういう想念波動・・だからだ。

言い換えれば、
想念波動が・・自らで肉体自我に収縮・集約・・している。

これは原子、素粒子の世界でいわれる表現
・・波動関数が崩壊して・・粒子として姿を現す・・ことに似ている。




マインドの浄化とは、
その表層を覆った荒い精神波動の微細化、精妙化といえる。

具体的に言えば、
様々なことに対する知識や理解が深まる・・とか、
いろいろな物事に気付くようになる・・とか、
また、当たり前に思っていた事が、
まったく違っていた、あるいは間違いであると知ったりすることだ。
あるいは、様々な想念の枝葉の、其の根元を辿るという事だ。

これらはマインド浄化に他ならない。
自分の頭で考えよ・・!等とよく言われることの、
その方向は正しくは、さらにあれこれ考えを追加するのでなく、
つまり・・自らで・・その本質に気づいてゆく・・ということだ。

より根本に、より本質に・・気づいてゆく。
その方向が意識進化の方向であり、

粗い・低位のマインドを浄化すること、
汚れを振るい落としてゆくことと同義だ。

必然的に・・

あらゆるすべてに浸透し、すべてであるところの
精妙絶後の根源波動に帰順・帰還してゆくことと言えようか。

放蕩息子も、出ずっぱりでは面白くなかろう。
それでは物語にもなり得ない。
汚れる一方では、誰しも嫌だろう。

マインド上に重く重畳されてしまった、
この世的な粗くカルマチックな想念に、
自らで気づき、その意味と理由を理解すること、
そしてそれを解き放つこと・・、
それが悟りであり解放である。


想念はそれ・・来ては去るところの波のようなもの。
波に飲まれて、そこに固まり、自縄自縛、苦労・苦心することから、
自らを開放すべき時である。

自らの想念に言うがいい・・
「だからそれがどうしたのだ?」(笑)
あれが美味い、これがおいしい、あれは怖い怖い・・
こりゃ大変なことだ!・・世界が崩壊だ・・、

「それがどうしたのだ?」・・といえるのは、
それが意識の派生である、歪んだ想念の描く「物語」だと知っているからだ。


どこか不都合な世に無意識に生まれ変わり、
粗い物質的観念の世界中の、小さな肉体生き物として、
小突かれ、小突き返し・・
苦痛と快楽のはざまで右往左往する体験映画もまた、
人として現れた内奥の魂の・・想念の作品である。

波を選び・乗りこなすこと、間違いなくそちらのほうが楽であろう。

何をおいても、何を置いても重要なことは、
波動である思考・想念を・・”観る”ことだ。

それへの自己同一化を外し、それを観る意識の座へ登ること。

観ることで・・それは波動崩壊を起こして、形となる。
また形となって、表れては消え去る・・現象世界。

なぜならば、想念は物質形を表すところの、
より精妙な波動なのだから。

I am THAT I AM.

観ているものは、想念を含み、また超えている・・真のわたし。

観察対象である時空・世界は・・わたしの・・マインドの中にある。
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時空物語(10)世界はマインドの中・その2

2018-04-05 04:54:48 | 真我実現シリーズ
私という肉体個人は世界・宇宙の中にいる。
確かに皆がそう思うのは、その通りだ。
・・
しかしながら・・観察している事に関する「見解」思考である。
そういう「思考がある」ということだ。
確かに”そういう思考、認識が”ある・・ということだ。
ここは、よくよく気づいたほうがいいところだ。

・・あるのは見解・思考・考え・認識とその記憶だ。
人類集合意識というのは、その膨大な思考や認識のことだ。

「えー、だって、目の前に、地上に、天上に様々な物質があるじゃない!」
「月や星や銀河だって見えるし、それら私と同じ物質・マターじゃない」
・・・
そう、しかしながらそれらは・・観察対象だ。
それを見ている者が、観ているわたしが在るから・・
それは、そこに、ここに、はるか向こうに見えている。

それぞれ・・・わたしが観察している・・のだ。

・・・
観察者を・・わたし・・というならば、
それら・・無数の観察対象・・物も含め、
世界をそこに・・存在することを・・示現せしめているのは、
観察する行為者の存在によっているということだ。
世界をその手で捏ね上げて作るわけではない。

観察すること、そこに観察対象があること・・同時創造ともいえる。

あなたが熟睡しているときには、世界が知覚できるか?
つまり世界はあるか?・・っていうと、確かに何も無い。

しかしながら、翌朝目覚めると、また再び世界に目覚める。
昨日と同じような生活に・・だ。
だからその毎日の寝て起きての断続は・・連続としてとらえるために、
ずーっと世界はあるんだと・・錯覚している。



「だって、寝ているんだもの」ふつうはそれだけの見解である。
身体自体は自分で知覚も認識もしていないが、
誰かが、「あなたは寝ていただけだ」というからこそ、
あなたはずーっと存在していたと認識するわけだ。

でも、あなたが熟睡・無意識の時に・・
あなたは身体も世界も宇宙も知覚していない。
つまり・・観察対象が・・消えているということだ。
とどのつまりは・・世界が存在していない・・となる。

人はそれを死んだ状態と・・すでに知っているだろう?
世界はなくなる・・私個人もなくなる。
だから恐怖するわけだ。
誰だって死ぬのはこわいと思っている。
<わたし>が消えることだからだ。「オー、ノー!」
・・
意識がなくなるとあらゆる知覚対象認識ができず、
世界も宇宙も現れない。

意識が没すること、それは熟睡も、死も同じようなものである。
熟睡は次の朝目覚めることを「知って」いるため、
まったく安心してスヤスヤだが、死は違うと思うため、
まー怖いの怖くないの・・!となる。
それはなぜか・・といえば、
<わたし>というものが・・この体だと思っているからだ。

あらゆる事象、世界、宇宙の観察対象者は・・この体だ・・と、
勝手に定義している”からだ”。(ダジャレみたいな・・笑)

視覚、聴覚、味覚、臭覚、触覚という観察機能があるのはこの「体」である。
そして神経中枢、頭脳でそれらの情報収集・記憶・整理している。

なので、訳知り顔の学者や識者が・・
その中枢の”頭脳こそ”が・・私だ・・と言うのだ。
「どうだっ・・これ以上はなかろうもん」・・

臨死体験も、瞑想のサマディーも、時空を超えた経験も・・、
幽体離脱経験者が、自分の肉体を上から見下ろしていることも、

何もかも・・頭脳が起こしている・・イメージだ・・と”言う”わけだ。
わたしとは体だ・・という”見解・認識”の「果ては」ここにある。

1つ言えることは、
結局・・あなたはどう思う?・・になる(笑)。

もうひとつ言えることは、
これらすべては・・やはり・・どこまで行っても”観察対象”なのである!!
環境事物、部屋も他人さまも、自分の身体も、神経も頭脳も、宇宙もだ。

さらにもう一つ言えることは、
観察対象に関して湧き上がる思い「・・結局どう思う?」の想念は、

肉体の中に生起するように・・見えるが・・、
(実際に目で、見ているわけはないが・・)
肉体、時空を超えていることろから来るということだ。
”ところ”といっても・・ある所でも、ある人でも、ある星でもない。

それをこころ・・マインドといえば、
物的欲望を強くインプリントしている現代人は、
なんだ・・心・マインド・か、
お金や安楽さに関係あるの?・・ということになるが・・、

そのマインドは・・とどのつまり・・世界・宇宙を超えている、
それを含み、それを超えている・・のである。

あなたは今、人の話を聞いている、周りを見ている、そして宇宙を観ている、
それらすべてに気づいている・・意識している。

すべてにあるのが・・根源の・・気づきである。
気づきが、意識・マインドを生じ、観察対象を投影する。

多くの賢者たちが、
人生を有意義にするならば、こころを入れ替えよ・・というのは、
まったくその通りである。

「あなたはどう思う・・?」

そのことがすべてをすでに示している。


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