気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

あるヨギの自叙伝より(4)幽界の話

2020-06-30 06:06:05 | あるヨギの自叙伝 抜粋解説

幽界宇宙という言葉には、天国・地獄などのような古いイメージがあると感じられようが、今のスピリチュアル系の言い方だと、多次元、高次元世界、あるいは平行宇宙というような意味合いで良いだろう。

ただ幽界(宇宙)は地上(地球)界より幸福度・自由度が格段と拡大していると位置づけられている。簡単に言えば、幼稚園と小学校の違いのようなものだ。幼稚園も無数にあり、小学校、中学校も無数にあり、学ぶ内容からしてその上下間の生徒の行き来はなかなか難しいのと同じようなものだ。

 

(あるヨギの自叙伝 本文・p430)

幽界の宇宙は、色々な色彩に輝く精妙な光の波動から出来て(注釈1)いて、その大きさは、物質界の宇宙の何百倍もある。物質界全体は、幽界という大きな光輝く気球の下にぶら下がっている小さな固形のバスケットのような(注釈2)ものだ。

物質界で多くの太陽や星が宇宙空間を動き回っているのと同じように、幽界の宇宙にも無数の幽質の太陽系や星座がある。幽界の宇宙にも太陽や月(補注:恒星や衛星)があり、それらは物質界の太陽や月(補注:恒星や衛星)よりもはるかに美しい。

---中略

ヒラニャローカのような高い幽界ではない普通の幽界には、地上から来たばかりの何百万という人間と、無数の妖精、人魚、動物、妖鬼、小人、魔人、精霊など(注釈3)が、それぞれのカルマによる資格(注釈4)に応じて、異なった遊星に住んでいる。

そして善霊と悪霊は、その程度によって、いろいろな波動の領域をそれぞれのすみかとして与えられている。地球では、人間は地表に、虫は地中に、魚は水中に、鳥は空中に住んでいるが、それと同じように、幽界の生き物もそれぞれの階級に応じて適当な波動領域を割り当てられている(注釈5)のだ。

他の世界から追放された悪魔(地獄に落ちた天使)たちの間では、ライフトロンによる爆弾や呪文という精神光線による戦い(注釈6)が繰り広げられている。これらの人々は陰惨な下層幽界に住んでいて、邪悪なカルマを遂行している。

こうした一部の暗い牢獄のような区域を除いては、全てが広大な光の領域で、そこではあらゆるものが美しく輝いている。

----

 

言葉が多少宗教がかっているため、おどろおどろしく聞こえるかもしれないが、こういう時代や地域、宗教的な色合い・塗装をちょっと落としてみればよく理解できるかもしれない。

注釈(1)幽界宇宙は精妙な光の波動でできている・・
 物質宇宙つまり、現状の地球の科学的認識でも、原子はクオーク・電子などの素粒子で出来ているとされ、素粒子は電磁波エネルギーに変換されることを知っている。光は・・電磁波の一種であり、波動である。つまりこの世界宇宙の物質はやはり光で出来ているといってもおかしくないのだ。光といってもより精妙(幽質)か粗雑(物質)か・・の違いのようだ。

注釈(2)気球(幽界)の下にぶら下がっているバスケット(地上界)
 大きく軽く、浮力があって自在に動き回れる・・気球に対して、 地上界(物質界)はそれに依存し、重く、自在性のない・・小さなバスケットの例示と考えられる。

注釈(3)地上から来たばかりの人々と妖精・人魚・動物・・、
人間や動物の肉体死のあとに、幽界に行くという意味と思われるが、妖精・人魚・妖鬼、小人・魔人・精霊などは現代人にはピンとこない。古来からの伝承や噂、みえる人には見える類の、何らかの地上に住まう生命体かと思われる。

注釈(4)カルマによる資格

カルマとは良い悪いという判定材料には関係がなく、その意識生命体の「学びのテーマ」を意味する。人間は思い・想念・行為によって自己を創造するがゆえに、その創造者としてのマインド・想念の進化・昇華が求められる。 自己創造は、自業自得・因果応報などに直結していることは明白である。学校でいえば、学びの段階・宿題・カリキュラムに応じた体験世界が存在するということであり、体験学習者(魂)はそれにふさわしい遊星に住まうという意味であろう。遊星とは、恒星や惑星、衛星、小惑星などの天体。

注釈(5)階級に応じた適当な波動域の割り当て
階級とは、本来は進級の違い、ステップUPの道程違い、赤・黄・青などの波動域の違いのことであり、様々な存在様式の調和した階層のことである。支配階級やら、労働者階級の
イメージやらは、まったく似て非なるものだ。

例えばTVなどでいえば、3チャンネルと5チャンネルは、周波数帯域の割り当てが違うだけだが、まったく異なった番組・物語を作って放映しているし、そのままでは混信・混在できない仕組みである。

注釈(6)ライフトロンによる爆弾や呪文による精神光線による戦い

現代よりも進んだ科学技術と、思考のテクノロジーを戦いに使っている者たちもいる。幽界という高次のカテゴリー世界の下層には、そういうタイプの世界も許されているということだろう。これはまるで同時に存在する、別次元のスターウオーズのようなものである。
どのように高度で便利な物質文明であっても、戦いや壊し合いはあきらかに
陰惨であり、後悔や怒りなどのカルマを生み出すことになり、幽界とはいえ、地上界の文明の紙一重上の下層世界に位置づけられるものだろう。

 

スターウオーズや風の谷のナウシカなどは、作者たちのそのような、いわば地上より高次ではあるが激しい世界の記憶が物語になっているのではなかろうか。

 

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あるヨギの自叙伝より(3)肉体・幽体・根源体

2020-06-29 07:39:51 | あるヨギの自叙伝 抜粋解説

「お前は、聖典の中で、神は人間の魂を三重のからだで包んでおられるということを読んだことがあるだろう---

第一に、他の2つのからだの根源をなす観念体(根源体)、第二に、人間の知能や感情の座である精妙な幽体、そして第三に粗雑な肉体(1)でーーー」

 先生は続けられた。「地上の人間は、肉体的感覚器官を備えているが、幽界の人間は、意識と、直覚と、ライフトロンでできた幽体(2)で活動している。

また、観念体のみをまとった人間は、至福に満ちた観念の世界に住んでいる。わたしの仕事は、幽界から観念界に進む準備している人々を対象とするものだ。」

---

「幽界には、幽界人の大勢住んでいる幽質の星(3)がたくさんある」先生は話を続けられた。「そこの住人たちは、1つの星から別の星に旅行するのに、幽体の飛行機である光のかたまり(4)を用いる。これは電気や放射エネルギーよりも速いものだ。

---

注釈(1) 人の身体は多層構造 

人間のボディーは大きく言えば、物質的肉体と、思考・感情の想念体と、根源意識体の3層で構成されている。あるいは肉体・こころ・魂で構成されているなどと言われる。からだ・ボディは単なく肉体でなく多次元構造体ともいえよう。

地球文明では、主に物質肉体だけに重きを置かれ、こころや魂といったレベルに気づいている人は少ないということも言えよう。

 

注釈(2)幽界での身体

幽界の人間、--幽界といえども、人間には違いないということ。
意識と直覚とライフトロンでできた幽体で活動している・・、とは、
粗雑な肉体五感ではなく、意識や直覚中心、つまり精神性が高く・・身体はライフトロンボディと言っている。

ライフトロン・・ライフは生命であり、トロンはエレクトロン(電子)ニュートロン(中性子)などのような素粒子・素子・エネルギー要素等と解釈できる。
ふわふわした?ものではなく、高次のレベルでの ”実体” として機能する身体。
スピリチュアル系でいう意識体、ライトボディも同様の身体表現を言わんとしているだろう。

注釈(3)幽質の星

宇宙における様々な星の中で、「幽質世界」の星ということ。
注釈(2)のような、ライフトロン的なエネルギーでできた世界と解釈できる。

人間の肉体のような、粗雑なエネルギー表現体(物質)でなく、より精妙なエネルギー表現体(幽質)のひとたちの世界ということだ。ただ物質も幽質の周波数の延長にあるだけの話ではある。
幽界というと、なかなか想像できないため勘違いしやすいが、
ぼやけたカスミのようなものではなく、
様々な観念のしばりや、形や重量での制約がすくなく、逆に高解像、高機能、ハイレゾルーションな世界であるとも言えよう。

 

注釈(4)幽体の飛行機・・つまり幽体質の乗り物・・飛行体、飛翔体・宇宙船のこと。それが ”光のかたまり” だと表現されている。

ちなみに、いわゆる「UFO」とは、未確認な飛行体であって、その周囲はほとんどが発光しているものである。この世界の普通の航空機の周囲は発光しない。

この世界の住人から見てUFOの存在がはっきりせず、神出鬼没なのは、物質・幽質という「世界の質」あるいはカテゴリーの違いによるものと考えられる。もともと存在の周波数帯域が違っているために、高い周波数帯域からその周波数密度を落とさない限り、そのままでは”同時混在”できないということだ。

 

 

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あるヨギの自叙伝より(2) 大師の復活

2020-06-26 08:34:19 | あるヨギの自叙伝 抜粋解説

(解説:
 数か月前に亡くなったはずの、著者ヨガナンダの霊的師であるスリ・ユクテスワが出現し、宇宙の真実の一端を開示・教導したくだりである。復活した師の言葉には多くの宇宙的な真実を窺い知ることが出来るだろうし、この世界にも、世間一般常識では到底信じがたい、奇跡的な出来事が数多くある事にも気付けるだろう。
 すぐに信じる・信じないと判断して捨てる・取る・・ということではなく、まずその可能性を意識できるか?感じられるか?である。そしてその可能性に気付くならば、そこに・・意識からの叡智の噴流が現れて、可能性の知覚化、具象化・現実化へと展開してゆくということでもある。)



そしてそこに血の通った肉体の姿のスリ・ユクテスワを見たとき、私は狂喜の波に包まれてしまった。
 「わたしの息子よ」先生は、天使のような魅惑的な微笑みをたたえながら優しく言われた。

私は、先生に対して初めてひざまずいてあいさつすることも忘れて、いきなり駆け寄ると、飢えたように先生をしっかりと両腕に抱きしめた。ああ、こんな瞬間がまたとあろうか! 過去数か月の苦悩は、今ここに天降った奔流のような喜びの代償だと思えば、もう物の数ではなかった。」
・・・中略

(パラマハンサ・ヨガナンダの大師であるスリ・ユクテスワ肖像)


「でも、これは本当に先生なのですか? あの神のライオンでいらっしゃった先生なのですか? 先生が今着ておられるこの肉体は、わたしがプリの庭に埋葬したあの肉体とまったくそっくりですが」
「そうだ、子供よ、まったくそっくりだ。これは血の通った肉体だ。わたしの目にはエーテルのように希薄に見えるが、お前の目には紛れもない肉体に見えるだろう。わたしは、宇宙原子からまったく新しいからだをつくったのだ---お前の住んでいる夢の世界(注1)の、プリの砂地にお前が、埋葬してくれたわたしの夢の肉体と全く同じからだを---。
わたしは本当に復活したのだ。ただし、地球にではなく、幽界の星(注2)にだ。そこの住人たちは、地球の人々よりも、はるかによくわたしの高い水準に順応することが出来る。お前も、お前のすぐれた弟子たちも、いつかわたしのもとに来るだろう。」



(注釈1:普通は夢のことをたんなる夢と思っているが、現実世界というものも、たんに意識の知覚モードが違うだけのある種の「夢の世界」であるといえる。

注釈2.幽界とは、無数にある地球より高次の体験世界、並行世界、別次元世界であって、宇宙の姿かたちから言えば、数多ある星々・惑星世界とも言えるだろう。地球もその1つであるが、今までは閉鎖された信念体系・物質的で重く粗雑な世界であるといえる。そして、ヨギの師であるスリ・ユクテスワは、こちらで死んで、あちらで蘇ったと証言しているのである


先生はおかしそうに笑われた「ヨガナンダ、すまないがもう少し腕をゆるめてくれないか」と先生にしがみついていた。私には、ほのかななつかしい先生特有の体臭が感じられた。このときのすばらしいひとときを思い出すと、私は今でも、両腕の内側と手のひらに、先生の神々しい肉体のぞくぞくするような感触(3)がよみがえって来る。


 
(注釈3
高次元存在の師であるユクテスワにとっては、自分の外側の肉体は希薄な表現形と知覚しているけれど、こちら仕様(物質偏重世界)にあわせれば、いわゆる波動の周波数ダウン調整をすれば、重くしっかりした粗雑な肉体表現も可能であることを意味している。
尚、知っている人は知っているが、いわゆる宇宙人とのコンタクト会見の報告の中にも、同様の内容があり、あちらやこちらの世界に行く場合は、精神性のレベルや、肉体関連の”波動調整”が必要だとされているのである。)


ジョージ・アダムスキーが宇宙人と会見し、同乗したとされる小型タイプの宇宙船。いわゆるアダムスキ―型と呼ばれている。


「ちょうど預言者たちが、地上の人々の肉体的カルマの成就を助けるために地上につかわされるように、わたしもまた幽界の人々の救済者として奉仕するよう神から命じられたのだ。」
 先生は話始められた。
「そこはヒラニャローカと呼ばれる星(注4)で、幽界の中でも目覚めた魂たちの住んでいる星だ。わたしはそこで、霊的に進化した人々の幽体的カルマを取り除き、幽界での生まれ変わりから解放されるように手助けするのだ。ヒラニャローカの住人たちは、すでに高い霊的進化を遂げており、みな最後の地上生活で、自己の肉体から意識的に脱出する能力を、瞑想によって会得した人たちだ。・・・ヒラニャローカに生まれてくる人たちは、地上で死んだ人々のほとんどが行かねばならない普通の幽界の生活をすでに卒業して来た人たちだ。 彼らはここで、前の幽界生活でまいたカルマの種子を完全に取り除くのだ。
幽界でも、解脱のための修行をたゆまず続けきたよほど進化した魂でなければ、このような高い世界に来ることはできない。こうした霊的努力を重ねてきた魂は、最後に幽界のカルマを完全に絶滅するために、宇宙法則に導かれて、わたしが今救いの仕事に携わっているこの”幽界の太陽”あるいは”幽界の天国”ともいうべきヒラニャローカに、新しい幽体をまとって生まれ変わってくるのだ。ヒラニャローカにはまた、もっと高い観念界(根源界)から来たほぼ完成の状態に近い魂も住んでいる」

私の心は先生の心と完全に同調していたので、先生は半分は言葉で、半分は精神感応(注5)(テレパシー)によって、その意思を伝えられた。こうして私は、先生が伝えられる思想を非常な速さで理解することができたのである。


(注釈4:幽界というカテゴリーの星の世界であろうと、ヒラニャローカという名を付けているように、思考・感情・概念・名前を使っている存在たちの住む世界である事が想像できる。また魂あるいは人の本質は、様々な存在諸世界を進化・転生する事実を意味している。)

(注釈5:テレパシーは、こころの観察、扱いに熟達することで可能な、ありふれた意思疎通方法で、直接思念波動が伝達されるもの。日常でもある、ふとしたヒントや気づき、他人の思考の読み取りだけではなく、分かりやすい例で言えば、夢の中の誰かとの会話なども音声ではなく精神感応といっていいだろう。実は、あなたも既に知っていることなのだ。)

・・・

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あるヨギの自叙伝より(1) 前置き

2020-06-25 07:02:01 | あるヨギの自叙伝 抜粋解説
前置き・・
これからしばらく「あるヨギの自叙伝」の抜粋を記事にする。尚、余計な解説と注釈を交えながらとなることをご了承願いたい。


これはたんなるヨガの行者の物語ではなく、またヒンヅー教の話でもない。

また、ある人にとっては、古いと感じる霊的な概念用語も出てくると思われるが、

その言葉のイメージにこだわることなく、

また誰が語っているのかということにもこだわることなく、

静かに咀嚼しながら読んでいただければ、

ここに書かれていることから、

いわゆる宇宙の話、魂の話、霊的進化の話、多次元世界のこと、

カルマの話、UFOや宇宙人のこと、私たちがどうしてここにいるのか、

なぜ生まれたのか、死ぬということはどういうことなのか?・・輪廻転生・・・・

そういう疑問を抱くような、魂・意識レベルに到達した存在たちにとって、

大枠ながらも体系的で、明快な答えが得られると思われる。


地域・宗教・国家や地域、歴史的な先入観なく、

また世俗的な功利的な判断をさけつつ・・、

何が語られているのか・・根幹の部分を感じることが大切だろう。



次々に騒ぎや災禍が起きようと、世界が混乱の渦に巻き込まれようと、

厳粛なる宇宙の法によって、この世界が大きく変化せざるを得ないこの時期において、

是が非でも・・・、知ること、識(し)ること、

あるいは思い出すことが喫緊の課題であることに、

あなたは気付いているだろうか。



少なくとも、

わたしたちが何者で・・どこからきて・どこに行くのか?

その基本的、体系的な道のりやプロセス、

あるいは多次元宇宙に関する基本的な知識・知恵が得られるだろう。

また魂と魂の縁(えにし)、そして宇宙の基本である普遍的な愛、

それぞれの無数のわたし・・魂・意識の大いなる一体性と無限展開の有様、

そして無限の創造の喜びと英知に満ちた広大な世界のことをも知るだろうか。




「あるヨギの自叙伝」 パラマハンサ・ヨガナンダ著 1982
第43章 スリ・ユクテスワの復活 P424~


 「主クリシュナ!」きらきらときらめく要綱につつまれた神々しいアバターのみ姿が、ボンベイのりー・ジェント・ホテルの一室で静かにすわっていた私の前に現われた。

3階の部屋の開けはなたれた背の高い窓から空の一隅を見つめていたとき、突然向かい側の高い建物の屋根の上に輝いている得もいわれぬ幻が、私の視野に入ってきた。

 神々しい像は、ほほえみを浮かべてうなずきながら、私に向かって手を振っている。
私がその意中をはかりかねているうちに、その姿は、私を祝福するように手をあげて消えてしまった。

不思議な魂の高揚を覚えた私は、これは何らかの霊的出来事の前兆に違いないと予感した。
 アメリカへの出発を当分延期することにした私は、ボンベイでニ、三の講演をしたあと、またベンガルへ帰る予定だった。

 ちょうどクリシュナの幻を見てから一週間後の1936年6月19日の午後三時、私がまたボンベイのベッドの上ですわっていると、言うに言われぬ喜びの光が、私を瞑想から呼び起こした。目を見開いてみると、驚いたことに部屋じゅうが別の世界に変わっていて、日の光ならぬ天来の光輝があたりをみたしていた。

  
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(30)自然との調和

2020-06-24 05:10:50 | 意識の科学
我々人類は、大自然を無視した生き方はもうやめにした方が良い。

それは自分自身を無視した在り方・・そのものなのだ。

コロナの災禍もそのための課題と捉えるべきものである。

経済崩壊だとか、人口削減だとか、人工知能世界への布石だとか、

そんなことはまったく、どうでも良い、

旧態依然たる路線の、枝葉末節の最後の恐怖番組のようなものだ。

将来有るとか無いとか、まったくどうでもよい旧来の想いということだ。

外の世界がどうなってしまうのか?・・ではなく、

わたしたちは・・どう在るのか?・・なのだ。


どう在るのか?

まず肝心要は、

宇宙大自然・生物・植物・他の存在たちとの親和・調和である。

まかり間違っても、利己主義のさらなる追及だとか、

物量の獲得だとか・・そういうものではないことは、

火を見るよりも明らかではないか。


わたし達の五感で体験する世界、

宇宙・大自然・環境は・・

それぞれの、わたしという意識の知覚世界のことであって、

わたしたちと無関係な、

わたしたちが征服しなければならないような、

わたしたちが闘わなければならないような

そんななものではないことは、もう十分に理解可能ではなかろうか。

自然環境を大切にすること、

共に創造している多くの、人びと・別のわたしたち・・

人びとがお互い相和すこと、

これが当たり前の仕儀となり、

日々、ハートからこみあげる喜びを感じられることが、

人間として、わたしたちに課せられた、あるいは自覚する勤めでもあるはずだ。

そうではないか?

世界の一大転換期の真っ只中において、

今次から次へ起きている、様々な人類の歪んだ想念形の放出・崩壊現象は、

ままよ、そのための魂の通過するべき試練・試験と受け取り、

怖れることなく、また無視することなく、

あるいは旧態依然の、個々バラバラ、

嘘の独立人、孤独な個人想念に戻るのを避け、

他者と打ち解け、笑い合い、良き言葉を掛け合うべきときであろう。

例え、人びとが気付ける範囲だけ、ただそれだけであったとしても、

自然環境を大切にすること、

多くの動植物を我が家族のように、愛すること。

共に創造している多くの別のわたしたち・・

例え、だれ彼がが気づかず、知らずであったとしても、

家族、近隣、更に多くの人びとがお互い相和すことの援けをしようか、


すぐに忘れては元に引き戻される、頭だけの知識でなく、

これを活きた知恵として、

想いと・言葉と・行為によって・・表現をすべき時が来ていると感じないか。

そのうちに・・いつか・・ではなく

常に・・今である。

その今という時も、変化・変転することを本当に・・知る人ならば、

良し・・と感じる想いと言葉と、そして表現によって現すことで、

すでに・・ただ今・・大いなる自身の幸福への帰還の道に戻ったことが、

創造の手段である・・・想いと言葉と行為によって、

それ・・知見・体験・実感として還って来るのである。


そういう意味で、幸福は・・いつでも・・今在るということだ。

誰かにもらうとか、待つ必要があるとか、

・・そんな今を逃す嘘を信じ込んではならない。

今・・想いと言葉と、行為表現・・

まさに・・それが「幸福」そのものなのだ。



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余談だが、以下は、
ネット上の記事としては、珍しく高い見識と観察力を伺える記事があったため、
勝手ながらコピペさせていただいたものだ。

大自然の中にあって、これを無視せず、観察しつつ調和することは重要であろうし、
調和とは・・人的自我欲の観念で終始することではなく、
自然の動きにも相応に対応することも含まれる。

日本という国につきものの大地震についても、
その可能性に気づき、それを我欲で無視せず、
精神的・物理的に事前に準備・対応しておくことは大切である。

仮に、それによって大なり小なりの安心が得られるならば、
そのマインドの平安は、自然との調和の証であるともといえるだろう。


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© 東洋経済オンライン 緊急事態宣言が解除になったが油断は禁物。元伊藤忠商事会長で元中国大使の丹羽氏は、「いまこそ大地震に備えるべき」と警鐘を鳴らすが、その真意とは。

緊急事態宣言が解除になり、街に人出が戻りつつある。自粛疲れの人々にとっては、ここらで「やれやれ」と一息つきたいところ。しかし、まだまだ油断は禁物。新型コロナウイルスの第2波のことではない。令和の日本が抱えている危機は、新型ウイルスの脅威以外にもまだまだたくさんある。そのなかでも、元伊藤忠商事会長で元中国大使の丹羽宇一郎氏は、「いまこそ大地震に備えるべき」と警鐘を鳴らしている。その真意を丹羽氏が明かす。


首都直下地震はいつ起きても不思議ではない

 私が小学生の頃、怖いものの代表といえば「地震カミナリ火事オヤジ」だった。このうちカミナリは、現代では高層ビルや変電所に避雷針などカミナリ除けの設備が整い、またカミナリが実は音ばかりでめったに被害の出ないものと正体が判明したため、怖さのレベルは昔に比べ格段に下がった。

 火事は、住まいや建築物の耐火性が上がり、延焼、類焼のリスクが減ったことで、強風など、よほどの悪条件が重ならない限りは、やはり昔ほどに怖くはない。

 オヤジに至っては、昔は「家族がオヤジを怖がった」ものが、いまや「家族をオヤジが怖がっている」。「を」と「が」の位置が変わり、オヤジの怖さなどとうに日本から消滅している。

 70年を経てなお唯一怖いのは地震だけである。地震の怖さとは、その破壊力のみならず、いつ、どこで、どの程度の地震が起きるのか、いまもわからないその「不明さ」にその本質がある。しかし、新型コロナで大騒ぎしているいま、日本で地震の脅威を訴える人は少ない。

 首都直下地震は、30年近く前にも「30年以内に起きる」と言われ、やがて30年が経つ。もはやいつ起きても不思議ではない。首都直下地震は、いまそこにある危機であり、緊急事態宣言発出前夜の状況にあることはわかっている。

 だが地震とは、いまだに「予測」はできても「予知」のできない自然現象である。だから「大地震が来るぞ!」というと、どうせまた口先だけの脅しだろうと思われるかもしれない。だが、気象庁の地震発生データを見ると、日本では毎月、震度1以上の地震が百数十回起きている。

 地震が来るぞと警鐘を鳴らすことは、「オオカミ少年」の悪ふざけとは根本的に違うのである。

「震災」という社会現象にするな!

 私の著書『令和日本の大問題』でも指摘しているとおり、日本の国土と文化は地震によって形作られた。日本はどこか別の場所に引っ越さない限り、地震を避けて暮らすことはできない。

 日本では、地震はあって当たり前。「天災は忘れた頃にやってくる」、当たり前のことを忘れると必ず報いがある。

 実際、関東地方で見ても、マグニチュード4クラスの地震は毎月1回くらいの頻度で起きているし、身体に揺れを感じないマグニチュード3クラスでは、数日に1回程度は起きている。それほど日常的な自然現象である地震が、震災となるのは100年に5回ということである。

 地震とは、地球の活動を原因とする自然現象である。人っ子1人住んでいない原野で大地震が起きたとしても、震災とはならない。人が密集している場所で巨大な地震が起きるから、大震災となるのだ。肝心なことは、「地震」という自然現象を「震災」という社会現象にはしないことである。

 令和日本のこれから30年の間に、大地震は必ず来る。これは脅しではない。しかも地震が起こる場所は、超人口密集地帯である首都直下、東海地方から四国・関西の南海トラフエリアだ。

 では、いつ起こるのか。それはわからない。東京大学地震研究所・地震予知研究センター長の平田直教授によれば「過去100年に5回起きたということは、将来の100年でも5回くらい起きる可能性はある」ということだ。だが平田教授は、いつ、どこで、どのくらいの地震が起きるかを予測することは不可能とも言っている。

 世上、「首都直下地震」が起きる確率は30年間で70%と言われているが、それは首都圏のどこか、あるいは南関東のどこかでマグニチュード7程度の地震が起きる確率が示されているのだ。その根拠は「100年に5回ですから、30年に換算すると0.7回、つまり70%となる」ということだそうだ。

 大地震は100年に5回起きているといっても、20年おきに起きているわけではない。100年に5回は事実でも地震が起きるのは不規則、だから、いつ「首都直下地震」が起きるかという予知は不可能なのである。

 だが今後30年間で、マグニチュード7前後の地震が起きるというのは、統計からいって間違いない。日本が地球上最大の地震発生地帯にある以上、地震は避けられないのだ。

新型コロナと巨大地震の共通点

 地震と今回の新型コロナウイルス(COVID-19)には似ている点が多い。まず、どちらも決定的な部分が解明できていない。したがって、万全の備えをするということは不可能である。

 どんなことが起こるかわからないので、起こりうる最悪の状況を想定し、それに対してすべて備えようとすれば、巨額の社会資本を投下しなければならず、被害を過少に見積もれば、対策そのものが意味をなさないことは今回のCOVID-19対策の初動を見ても明らかだ。

 わからない以上、備えようがない。マスクひとつとっても、もはやマスク着用は日本人としての義務かのごとくになっており、マスクをせずに外出しようものなら直ちに「社会人失格」の烙印を押されそうだが、真夏の炎天下でマスクにどれほどCOVID-19対策に効果があるかは依然不透明である。

 一方、地震はそのメカニズムや、過去にどれだけの地震が、どこで起きたかはわかっていても、肝心のいつ、どこで、どれくらいの規模の地震が起きるかは、依然として予知不可能なままだ。人類は月や火星にはロケットを飛ばしていても、自分の足もとである地球内部のことは、ほとんどわかっていないのである。

 何百年と研究を続けてきている地震でさえ、いまだに正体不明なのだから、わずか半年ほど前に人間社会に現れた新型コロナウイルスが謎だらけなのは当然だ。

 WHOがパンデミックを宣言してから、世界各国の新型コロナウイルスの感染状況の累計(2020年6月20日現在)を見ると、アメリカ217万2212人(死者11万8205人)、ブラジル97万8142人(死者4万4418人)、イギリス30万0473人(死者4万2288人)、ドイツ18万7764人(8856人)、中国8万4970人(死者4645人)、韓国1万2373人(死者280人)、台湾446人(死者7人)、日本1万7799人(死者952人)である。

 日本の感染者数と死亡者数をアメリカ、ヨーロッパと比べると明らかに日本は少ない。日本だけなく中国も含め東アジアの国々は、一様に少ないのがCOVID-19の特徴である。

 日本人にとっては喜ばしいニュースであるものの、その原因は何かということになると、まったく推論の域を出ない。東アジアの国々では、台湾の死亡者数が7人というのは、人口2300万人とはいえ、いささか驚く。

 中国と台湾では2003年にSARS(重症急性呼吸器症候群)が流行、韓国は2015年にMERS(中東呼吸器症候群)がはやった。日本はいずれも国内の流行は避けられた。台湾と韓国は、このときの経験があってCOVID-19への防疫体制が速やかだったという説もある。反対に、日本は過去2回の新型ウイルス流行を免れたため、初動で遅れが生じた可能性がある。過去の体験が、社会にとっての免疫となることもあるのだ。

 では、震災はどうか。首都東京は関東大震災以降、直下型の大地震を経験していないため、大地震で何が起きるのかを実感としてつかめている人はまれだ。首都直下地震では経験者がいない。

 東日本大震災で、帰宅困難者が出た交通インフラのダウンや停電は経験していても、直下型の大地震で水はどうなるか、食料はどうなるか、電気やガスはどうなるか、そして経済はどれだけのダメージを受けるかを想像することは難しい。

 想像できないことに対して、人は過剰か、過少しか反応できないものだ。それでもわれわれは地震に対しても、ウイルスに対しても、わからないなりに事前の備えをしなければならない。

 「事前の備えが重要であることは、COVID-19対応と大地震への備えに共通すること」(平田教授)なのである。

 備えの第1は、まず地震もウイルスもあって当たり前と考えることだ。地震は人類誕生以前から起きているし、ウイルスも、ひょっとすると人類よりも早くから地球上に生存していた可能性だってある。

 われわれは、過去も未来も、新型コロナのみならず、ずっとウィズ・ウイルスであり、またウィズ地震なのである。その認識から備えは始まる。

自然に対してもっと謙虚であるべき

 いままで見たことのないものが現れると、われわれはそれに新型と名付ける。しかし、それらは多くの場合、ただわれわれが知らなかっただけで、ずっと昔からそこにあったものだ。新たに発見しただけであって、新しく登場したわけではない。

 実はわれわれが知っていると思っていることは、地球上でも、地球内部でもほんのわずかだ。人間が知っているのは地表上空、地下、海底10km足らず止まりで、地球の直径から見ればわずかに0.07%の範囲のことである。車で行けば10分ほどの距離である。

 したがって地表上空、地下、海底についてわれわれの知っていることなど、吹けば飛ぶようなものでしかない。いわんや地球外のことは何もわかっていないと言ったほうが正確なはずである。われわれは自然に対しても、ほかの国々に対しても、もっと謙虚であるべきだ。

 近年、企業はESG(環境・社会・統治)を経営の中心に置き始めている。ESGとは自然に対しても、社会に対しても「謙虚」であるということだ。

 人類はこれまで自然に対して無遠慮に食いまくり、飲みまくってきた。地球上のどこへでも行って、環境を壊し、資源を使いまくった。そのため、人間社会とは無縁であった奥地に棲む細菌・ウイルスまで、自分たちのところへ呼び込んだ。

 因果応報、自分たちのやったことは必ず自分たちの身に降りかかってくる。地球の環境を破壊して、その影響が地球に影響しないはずがない。その意味では地震もまた、われわれの地球に対する無遠慮な振る舞いへの報復と言えるのではないか。

 巨大地震に対して、人は無知であるとともに無力でもある。あとは天に祈るしかない。

 「お天道様は見てござる」

 私の祖母はそう言って私のことを戒めた。

 「地震カミナリ火事オヤジ」のうち唯一残った地震への恐れ。地震に対する恐れは、いま生き残っているわれわれにとっては神の啓示かもしれない。

-----以上 転載。



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