気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

悟りの道標(5)かごめかごめ

2016-05-28 06:23:07 | 人間とは何か
かごめの歌。
これも悟りの道しるべの1つと言えるだろう。
まるで意味不明で逆説が交差している禅の公案のような詩でもある

しかしながら、例えば悟りが、自らの解放、解脱であると知るならば、
その歌の言わんとするところが、よくわかるかもしれない。

かーごめ、かごめ、
籠の中の鳥は、
いついつ、出やる
夜明けの晩に、
鶴とかめがすべった、
後ろの正面、だーれ?



スピリチュアル系等で、この不可思議な詩(うた)がよく話題になる時があるが、
日本で昔から何気なく歌われている、
いかようにも解釈できる、実に不可思議な詩(うた)。

いつ習ったのか、いつ覚えたのか、絵本だったか、音楽の時間だったか、
ラジオだったか、テレビだったか・・よく覚えていないかもしれない。

何気ない、意味不明な、憶えやすい日本の童謡として、
だからこそ今まで生き延びてきたのだろう。


・・・

かごめ・かごめ・・
籠目(かごめ)というのは、六芒星であって、△が上下合わさっている姿をしている。
また籠(かご)は編まれている、閉じられた空間、つまり3次元マトリクスのことだ。

かごの中の鳥は・・・
籠(かご)つまり3次元マトリクス世界、この世界の、
その中にいる、羽ばたけない鳥・・・、
勇躍と大空を飛び交うべき、本来自由なはずの鳥、
飛ぶのを怖がっている・・鳥。

すなわち、それぞれの「わたし」のこと。

つまりあなたのことでもある。

いついつ出やる・・・
飛べない鳥、本来あり得ない姿に身をやつしている、
不自由極まりない状態から、いつ出るのだろうか。
出される・・のではなく、自らで、いつ出るのだろうか。

夜明けの晩に、・・・
夜明けは、太陽が昇り始める薄明りの時であり、
晩は、逆に太陽が沈む薄暗い時。
それが同時に起きるような時。

光と闇の交差する時といえようか。
それが明確にわかる時期、
苦しくも、同時に輝かしい光の射し込む時だ。

鶴と亀がすべった、
つるとカメ、万年と千年で象徴される「時間」
地球がくるくる、滑るように回る悠久の時を経たのち。
あるようで無い、長い時間での経験と記憶の蓄積と昇華の後。
長い繰り返し転生と輪廻の後。

後ろの正面、だーれ?
わたしの後ろ・・の正面とは、
わたしの背後にあって、そこから正面を観ている、
それは誰だろうか・・と言っている。

わたしの背後にあって、わたしが観ている正面を、
一緒に見ているものは誰だ?と言っている。
外の世界や、私という現象を、観ているのは誰か?と言っているようだ。

わたしの後ろで、私と一緒に観ているものは、誰だと思う?


籠の中にいる、閉じられた世界の中にいるのは私という個人、
不自由な肉体と束縛された社会環境の中にいる肉体個人、
宇宙・存在全体から、いつか分離した小さな小さな自己、

そのわたしを、
後ろから観ているのは、誰だろう?
わたしを観ている、わたしを通して正面を観ているのは誰だろう?

物理的な後ろの空間の他の誰か、他の人、他の存在ではなく、
また、高次元の存在、背後霊とか、宇宙人とか何かというのも正直言って的外れ、
それらはまったく他人事にしてしまう、面白おどろしい「概念」の遊びでしかない。


私自身を観ているのは、そう、

わたし・・以外にいない。

自分自身を観ている、観察している者は、

誰あろう・・わたし以外にない。


それぞれの世界の根源は<わたし>である。

世界には人間がそれこそ、大勢いるわけだが、

わたしの見渡す世界のなかで、

『わたしは・・わたし・・である』と気付いて、意識している存在は、

自分に気付いている・・・当の者は・・・、

全宇宙、存在諸世界の中で・・・わたし・・しかいない。



カゴメの歌は、肉体個人という分離した私へと次元降下し、

個人我の殻に自己幽閉して、それに全く気付いていなかった、

本質の<わたし>への、その解放の時を示す詩(うた)であるといえようか。


かーごめ、かごめ、

籠の中の鳥は、

いついつ、出やる

夜明けの晩に、

鶴とかめがすべった、

後ろの正面、だーれ?






本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

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悟りの道標(4)意識の光を当てる時

2016-05-26 06:35:32 | 人間とは何か
「私とは何か」・・

このシンプル過ぎて、いつも素通りしていた問いかけの、

その答えを求める行為が、すなわち「悟りへの道」である。

それは難しい話ではなく、ある意味でお掃除、清掃のようなものである。

これはいらない、これは捨てよう、これは違う所に仕舞おう・・

普通、そうやって清掃、整理するのだが、

つまり<こころの中の清掃>というのも同じものだ。


さて、こころの中にあるのは、考え方、感情、自分の履歴、様々な記憶なのであるが、

思い、記憶、想念・・・それらはまとめて「思考」の産物といえよう。

人間だけにあるという知力・・それは「思考」である。


「あなたは何か?」・・は、「あなたの<思考>は何だろうか」

それと密接に関連している。

思考と行為、それに伴う感情・・・その記憶が、あなたの個人我認識、「マインド」だ。

その蓄積された思考と記憶が、つまり私個人という認識となっている。

赤ん坊のころ、あなたは私個人・・という意識は無かった。

そうではないか?

そう、<私個人>とは、作られたものなのである。


仮の個人としての・・私・・、元は・・空(くう)だ、

今は在るがゆえに<無>ではなく、空(くう)である。

空(くう)は実際、からっぽではなく、全ての可能性で充満しているのだ。

空(くう)だからこそ、様々な事象事物が現れているのである。

色即是空、空即是色。


本質の<わたし>とは・・空(くう)である、即ち、あらゆるものの充満である。

悟りとは、まさにそれ。

全く自然で、当たり前のこと、・・・在る・・こと。

それだ。

・・・

マインド、こころとは、意識内面空間とそこにある、様ざまな「事物」である。

事物といっても、肉眼で見るものではなく、意識で知覚する「事物」思考、感情、記憶。

悟りとは、何かを新たに得る・・ことではなく、こころの中の数々の事物を取り払う事だ。

・・・
マインド、こころとは、意識内面空間にある、様ざまな「事物」である。

ゴミ箱を整理するのに、そのゴミが見えずして、清掃などできないように、

こころを清掃するということは、

こころの中の様々な想いを「対象物」として観ることが必要だ。

そうではないか? 

意識内面にある事物を・・自らで観ることなく、

それを取捨択一など出来るはずもない。

だから古(いにしえ)から瞑想と言われるもの、

内面を観る、想いを観察する、感情を味わう、等という修業が行われてきたのである。


例えば、ヨガや瞑想、只管打座、座禅などはまさじくそれであり、

座禅は、只・・そこに座って、そこに在り、自己内面に生起する様々な事象、

つまり、こころの動き、思考、イメージ、感情、記憶などを「観る」のである。

ポジティブシンキング、良き思いを上塗りしてこころを中和するのではなく、

ウオッチングシンク、つまり「思考を観察」することで内面に意識の光をあて、

それを事物として浮かび上がらせる。

そしてそれらは、事物、対象の類であって、決してわたし自身ではないことを悟るのだ。

わたしとは・・、内面に沸き起こる様々な想念ではなく、

言わば意識内面空間のほうであることを知るのである。

それはつまり空(くう)、あらゆる事象の無限の母体であることを、

・・直接・・知ることである。


さらに、そういう意識的プロセスによって、

意識内面の底に沈んでいる、意識エネルギーの<歪>を浮かび上がらせ、

ある意味で大きなバブルとして静かに破裂させ、

その歪みを解消、昇華することなのである。


これが瞑想や座禅の目的に他ならない。


また内面観察は、夢見によっても行われていることに気付けるだろうか。

ただし夢の場合は、無意識的な思考、感情、記憶の噴出といえるのだが、

実際に意識内面にある歪の昇華に他ならない。

そう、夢見も大切な意識経験なのであるが、

意味なきことととして素通りしていないだろうか。

・・・

生れてからの経験や感情、思考によって密かに所蔵している様々な歪(ひずみ)を、

意識の光、つまり内面の陰に潜んでいる歪(ひずみ)を観る、観察することで、

内面の事象として喚起し、その歪みエネルギーを解き放つのである。

なお、

それをそれとして観察する・・ことは、あからさまな事象となって、

潜在エネルギーを崩壊させて粒子化する(現象化)ことは、

素粒子の挙動を決定するファクターとしての『観察者意識』と同じこと。


実際多くの人々の内面の歪(ひずみ)は、錯綜した極みの現代世界の中において、

相当なレベルにあるわけで、日常でも毎日のように、

内面には様々な不安や衝動を感じるはずで、

また、大自然や国家社会の様々な不都合な出来事も起きて来ており、

これらもまた、この世界のその歪みを一気に解消する過程にあることを示している。

地球という惑星意識、生命領域も、そのプロセスにある。

まったくもって、今は結構、『急がしい時代』のただ中にあるのである。


気付ける人々にとっては、

時間がかかっても、今の日常生活という『修業場』は、それゆえ極めて貴重なのである。

そのために、地球、宇宙は出来るだけゆっくりと見守っているといってもいいだろう。

それぞれの内面を事あるごとに、あるいは事なき時にも、

見つめ続ける、ある段階では苦しい意識的努力の先に、

かならず魂の浄化と昇華があるのだ。

そういう世界に降りてきたのが、あなたやわたし達なのである。



(5につづく)



本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

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悟りの道標(3)私個人は事実でなく・・<観念>

2016-05-20 08:15:21 | 人間とは何か


悪意があるとか無いとかは関係なく、世の中は様々な嘘八百観念で満ちており、

「悟る」という事は、つまりそれらの幻想から、根本的に抜けてしまうということである。

別に超越人間に成る・・わけではない。

新たな何かに変身する事ではない。(大笑)

嘘の自分を見破りつつ、様々な<常識となった妄想>の類(たぐい)を

1枚づつ剥がしてゆく、自助努力のことを悟りの道等といっている。


だから昔からそれは『玉ねぎの皮をむいてゆく』ようなものと言われる。

玉ねぎの皮を剥いてゆくと、あとは何も残らず、ただ空(くう)が残る。


これはかなり「怖い」はずだが、その怖いという観念が、

すなわち仮の自我、エゴ、肉体自我の想いなのだ。

「何も無いって?!、あんた・・、そんなのやめてよ!」(笑)


よく言われる例えだが、

空(くう)は映画の何でもないスクリーンのようなものであるがゆえに、

あらゆる映像がそこに映しだされる。

映像そのものは投影像であり、如何にリアルで、粗雑や精妙であっても、

その投影像は移り変わる諸現象であり、つまり「幻想」なのだ。

それをそれ、として観ているものに戻ることを、「目覚める」と言っている。

だから、OH MY GOD!

・・・

私とは何か?・・・真の賢者や覚者が示すように、

あれでもない、これでもない、・・結局・・実は何でもない。

実につまらない??プロセス。

しかしながら、

あらゆる人間は、これを真剣に行なう時期があるもので、

これを行なわない限り、いまここにある・幻想世界の住人を続けることになっている。



「不都合な現実」という独特のマトリクス映画を観続けることになるわけだ。

どうあっても、何があっても気付けない・・のは、今はそれを観続けたいということ。

だって、続けるということは、魂にとってそういう学びが楽しい段階からだ。

それが、1つこの地球と名づけられた次元世界の学習の「仕組み」だったのだ。

・・・だったのだが、

誰でも知っているように、物語や映画は始まりと終わりがあるもので、

今はそういう時期にあることは、世界の様相や大自然の変化などで知ることが可能なのだ。

・・・

世間一般の常識では、肉体が・・『私自身だ』という事になっているだろう。

突き詰めて考えたことが少ない御仁でも、改まって問われると、そういう話になるものだ。

なぜならば、見る・聞く・感じるという五感機能が身体に張り巡らされ、

その情報が神経系統で伝達され、頭脳で処理されているとされており、

身体内部が一つのまとまった生命維持システムになっているからだ。

その1つの個体生命システムのことを<私個人>と言っているのだ。

そのひとまとまりの身体機構システムを<私>だと・して・いる。

自己を肉体であると「思って」いる、「認識」しているということだ!

そうではないか?




つまり、そう思っているという事だ。


身体の生命機構があり、その身体自体が「私」という個人であると、

親や世間の人に教えられ、・・自分もそう「思って」いるのである。


「えーっ?そう思っている?・・というより、そりゃ現実、事実だろうよ!」

という人もいるわけだが、

「そりゃ現実、事実だろうよ!」と<思う>から、そう言えるのである。


そう思っている、信じている、常識だという、そういう観念がある。

私個人はこの肉体だ・・という、動かしようのなさそうな常識も、

つまり「観念」であるということなのだ。

猫が「吾輩は猫である!」とは言わない(笑)



観察とその想い、「観念」によって、「私=肉体である」としている。

「私は肉体である・・」というのは、「観念」であることがわかるだろう。


肉体である私・・・は現象の観察にもとづいて、そう「想っている」ということに過ぎない。

そう思っている、わけだが、

そう思わない場合は、一体全体・・私という個人はどこにあるのか?


なるほど確かに、「私は肉体である」というのは現実そのものではなく、

「私は肉体である」という観念がある、のが事実である。

・・・

しかし、だって、わたしは・今在る・ことに気付いている、

そういう感覚は常に残っているだろう。

そう、観念や想いを除いていって、ただ残るのは何かというと、


・・・在ることに・・気付いている・・ことだ。

そうではないか?


(4につづく)



本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。


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悟りの道標(2)玉ねぎの皮むき

2016-05-18 05:47:18 | 人間とは何か
人間必ず生れて死ぬわけだから、<個人>も移り変わる現象であるというのは、

全くの事実であることは誰でも理解できる。

だから人間の個々人とは、一時の仮の現象というのは、普段あまり考えもしないが、
まあ、腑に落ちる話だろう。

例えば、親戚の爺さんも今はこの世になく、知り合いの何人も他界した、そんな経験が誰にもあるからだ。

そうではないか?

そういう意味で、個々人は実在せず、現れては消える・・<現象>であり、

つまり、『個々人は実在しない』というのは事実であるという認識があるが、


・・私という「個人」が実在しないと言って、あーそうかと思う人はいない。

「わたしが実在していない・・?って、ちょっと、何それ、」

なぜなら、「わたし・・が今、生きている、存在している」という実感・感覚があるからだ。

私という自己感覚、言わば<内側の>わたし感、自己存在感・・がある。


この世界に生れてから始まった、「内側の・・わたし」という感覚、

・・それも現れては消える「現象」に過ぎないのだが、

なぜかこの内側の・・わたし感・・は消えてほしくない・・と思うのだ。

違うだろうか?

・・

そう、生命というか、生きてる感覚というか、自意識というか、それ・・を

自分にとって『最重要なこと』と感じているがゆえに、

人はこの・・内側の自己存在感覚・・を<失う>事を怖れて、

つまり死にたくない、何とか生き延びたいと、

外の世界で色々な生活事をしつつ、様々なところを探し回る。


そして、根本にある「怖れ」によって自分が動き回っている・・

それ自体に気付いていない・・有様により、世界の悲喜劇が生まれているのだ。

生れて赤子の時から仕込んでゆく、恐怖で色付けされた「自己存在感」こそが、分離感となり、

誰にもある自己存続欲求、あるいは自己保身となって、さらに、

他者を犠牲にしてもかまわないとする、過ぎたる自己保身:エゴとなっているのである。


人間達が集団で、もっともらしく、あれこれと行なっているものだから、

皆がそういう生き様であることのなかに、真実があるだろうという<錯覚>が生れ、、

それ自体を疑う事をせず、自分達も終生そのように走り続けて、

ついに終わりを迎えるというのが、ごく普通の人生ということだったろうか。


どうしてこの世界は悲惨な状況なんだ?

どうして悪い奴ほどのさばっている?

どうして嘘ばかり、陰謀だらけなの?


こころある人々は既に気づいているだろう。

これらすべての悲喜劇は、仮の現象である・・<個々人>の、

その過ぎたる「恐怖」と「欲望」が、全ての元に有ることを。


つまり簡単に言えば、「エゴ」の文明だったということだ。

エゴの文明・文化は、分離した個々人というものが、

現れては消える「現象」に過ぎないという・・理解に至らぬ段階の文化である。

だから強い個人が弱い個人を支配し、収奪することをいとわぬ、

個々人の間の争いに根差した文明なのである。

・・・

私という個人は存在しない・・ということが真に理解できるならば、

結局それは「悟り」ということになる。

あるいは、私・・・が、存在全てから分離した「個人」ではないとなれば、

この大勢の分離した個々人の構成・とされる・

この世界から、「解脱」していることになるのだ。

理解可能だろうか?

・・・

私がある・・という感覚が、いつのまにか「私個人」という<概念>になっている。

だから、私個人は実際に在る、・・実在すると思う。

私という「個人」が実在しないと言っても、ほとんどの人が「そりゃウソだろう」

ということになるが、個人が実在するというのは、

つまり「概念」だということに気付かなければならない。

私個人が存在している・・というのは言葉の列つまり「概念」だ。

その概念、観念が<個人という私>を補強しているのである。


これは実際に自己とは何か?で調べて見なければわからない。

そう、探究者とは、自分が何かを追究する段階に至った人たちだ。

自己の世界を映し出すところの、原因としての自己・・それに気づき始めた人たちのこと。

このような記事をみているあなたもそうではないか。


気付けばいつも当たり前だが、今まで素通りして来たことをチョット見てみると。


・・・

人々は<私は個人として存在している>・・と「思って」いるのだが、

実際にあるのは何か・・といえば、「在る」という感覚のみである。

在る・・こと、これに身体感覚、個体感が・・付帯するがゆえに、

「私個人が・・・在る」と「思う」ことになる。

・・・
身体存在感覚、触感、外を見ている視覚の「こちら側」に自己があるという感覚、

身体の内側?から、身体の外を観ているような・・内面存在感というか、

外を観ているという感覚・・外に対する・内側の自己存在感覚があるだろう。


それは「肉体の」外側と内側という感覚になっている。

生れてから育ったその個人感覚は、

「肉体の外側と内側」という、自己認識の「記憶」に他ならない。


であるからこそ、肉体の表皮の外側が<外の世界>、

肉体表皮の内側が「私個人」となっているわけだ。


肉体内側が「私個人」だと記憶し、そう認識し、そう見なしているのである。


当たり前のこと、そうではないか?

それを例えれば、自己とは「玉ねぎの皮」・・のようなものなのだ。

玉ねぎは何層もの皮で構成されている。


外と内の境であるところの、玉ねぎの皮を1枚1枚、剥(は)いでゆくと、

どうなるだろうか。

そりゃ、ちょっと怖いと思うかもしれない。

なぜならば、玉ねぎの皮が全部剥がれたら、何も無いというか、

そこには空(くう)しか残らない。

そう、空しか・・・残らない・・・!

OH MY GOD!


(3に続く)





本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。


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悟りの道標(1)<私個人>は実在せず

2016-05-15 05:15:59 | 人間とは何か
●私個人は実在するのか?

個人は実在しない?・・等という概念は、あり得ない架空の話のように聞こえるものだ。

そうではないか?

<私>という個人だらけの世界、地上に73億もいる人間の、

その個々人が・・実在していないわけないではないか。

「アホか?、そんなこと話の外だ、論外だ!」、

変な話やめてくれない?・・ということになるだろう(笑)。

つまりそう、

こういう問いかけ自体、まったくの論外で、

つまり・・・よくよく吟味してこなかったということに他ならないのだ。


そんなの哲学者か宗教でやるべきもので、私とは関係がない・・みたいな。

私の本質的なテーマが、私とは無関係、手の届かぬものにいつの間にかなっていた。

本来は「おいおい、正気かよ?」なのだが、それが当たり前の風潮社会で、

外れるとつらい思いをするよ等という、

静かな恫喝を含んだ今までのマトリクス世界に気付けるだろうか。


なんのために生きているのか?という、若いころは誰にも湧き上がる本質的な疑問も、

学校の先生でもわからないのだから・・私が考えても無駄・・そんな経験ないだろうか。

全てではないが通常は、ここで自己探求意欲が失われるということだ。

そのうち、生活の為と急き立てられるように、外の世界、競争世界にハマりこんでゆく。

でも学校の先生のせいでもない。(笑)
・・・

個人は実在しない?・・等という概念は、あり得ない架空の話のように聞こえるものだ。

個々人が肉体を持ち、考えがあり、街中を何千人も歩いているのを毎日見ているし、

その1人1人が<私>という自意識を持ち、名前や経歴や性別、性格があるわけで、

そんな個々人が・・・実在していないなんて・・「あり得な~い!」と思うわけだ。

そりゃそうだろう。

実際、個々人が・・それぞれ別個に独立して存在しているというのが、

擦り込みの激しい、マトリクス観念なのである。

そういうのを「分離」の観念という。


●私個人は現象である
ここで「実在しない」というのは、「仮の存在」であるというような意味であり、

現象として在るが、「それが永久不滅のリアリティーではない」というような意味である。

それぞれの私・個人も、・・変化変遷し、留まるところのない現象であるという意味。

であれば、なんとなくわかる気がするかもしれない。

個々人は「実在しない」という意味がなんとなく分かるかも知れない。

あなたやわたし達という個々人は、やはり、変化・変遷する現象の中にある。

そうではないか?

私という個人は、一時の、仮の存在であるということだ。

生れては死ぬ定めの、

人生にいつか現れ、そしていつか去ってゆく、それが個人という<現象>だ。

これなら誰でも理解するはずである。


●今在る事実から逸れていただけのこと

私個人は、一時の仮の現象ということも、

気付けば当たり前の説明なのだが、常日頃そんなこと思わないからこそ、

「何それ?」ということになるものだ。

しかしながら無意識にあったこと・・・忘れている類の事実を言っているだけの話だ。

生活大変、仕事大変、人間関係大変、ローン大変、世界情勢大変・・

そんな中に放り込まれていたからこそ、集団で素通りさせられて、

それに気付かなかった、結構切実な・・事実を言っているに過ぎない。


そう、「個人」は<実在>していないのである。

意味深いところがあるが、

結構来る!(笑)・・表現ではないか?


言葉の意味合いで、そういう風に表現するだけではなく、

それぞれ、<私個人>は一時の現象、仮の存在であるというのが「事実」なのだ。

ちょっとドキリだが(笑)、はっきり言って、あなた達や私という個人は、

実在しない、仮の現象なのである。

頭で概念を素通りせずに、感じて観たらいい。

「私という個人は・・実在せず!」(えー?!)

OH MY GOD!

・・・

だが、しかし・・

私個人が、一時の仮の<私>だとしても、

私は存在しているという・・感覚がある。間違いなく。

別にロボットでも夢遊病者でも植物人間でもない。

私は・・今ここに存在している・・在る・・という実感があるはずだ。

私は今生きている・・という想いや、皮膚や五感を通じた知覚での、

自己存在感があるはずだ。


(2へ、つづく)
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