気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

時空を超えた物語(5)意識の内に世界あり

2018-07-26 17:06:33 | 真我実現シリーズ
ラマナ・マハルシは問いかける・・、
「”わたし”は世界の中に在るのですか?
それとも、
「世界が”わたし”の中に在るのですか?」

どっちだろう?

世間の人は、一体何を言ってるのか?と思うはずだ。

「私の中に、世界があるって?!?」
「・んな、わけあるかよ!!」だろう。

しかしながら、それは、
わたしは「この体」である・・としている”からだ”。(笑)

確かに、わたしの”体の中”に東京ワワーもなければ、地球も入っていない、
天空にかかる銀河が入っているわけはない。(笑)
そう、そう・・そりゃそうではないか。


わたしとは何か?の普通の答えである、
名前、身長、体重、生年月日、職歴、学歴等・・、
主に身体の経歴、記憶、
それらがわたしだと・・完全に、当たり前に信じ込んでいる。

世間一般、世界全般、地球の人のほとんどが、
あるいはまた、
信じている・・とかの前に、絶対の当たり前だとして、
疑問にも思わないのである。
「だってそうじゃないか!」・・である。

重い体を引きずっては、腰が痛いだの、疲れただのと
生まれた時から馴染んでいるため、
「体が自分だ」と--”思っている”・・ということだ。

あなたは体なのか?
(別に自分の体や顔が嫌いなわけではないが・・:笑)

しかしながら、ことの詳細を言えば、
”私は体だ・・”は・・事実ではなく、
それが事実だ--と認識している・・ということなのだ。
つまり、簡単に言えば、
そう思っているということだ。

思いとは”意識している”その内容のことだ。

外の世界を追いかける事ばかりではなく、
自分の想念、内面への気付きが起きている人には理解可能であろう。

深く自分の有り様を・・観てみようか。
そして世間的無知で素通りせずに、リアルに熟考してみよう。

わたしはこの身体である・・・は事実とか真実などではなく。
わたしは身体である・・という、
固定化された”思い”:想念なのである!

この体で色々な物を持ったり、歩いたり、疲れたりする・・ことがあり、
また五感という身体機能で見たり聞いたり嗅いだりしている・・ことがある、
と、・・そう、知覚して”認識”しているのである。

なので、余りにも意識との”密着度”があるために、
「わたしとはこの身体である」と勝手に解釈しているのだ。

わたしは身体(からだ)ではなく、
わたしは身体に「気づいて」いる、
同じように環境にも「気づいて」いる・だ。

身体(からだ)だけが、ポカーン、どてーんとあるわけではない。

気付いている・・意識しているからこそ、
身体(からだ)を認識し、それを含む・・環境・宇宙をも認識している。

気付き・意識が無ければ、身体も世界も宇宙も無い!

つまり、キッパリ言って、
”意識”の中に、身体(からだ)も世界もある。

・・・の中に・・と言う表現をするものだから、
えー?、どこの中に?どこどこ?・・
という3次元空間的物量比較思考が出てしまうため、
なかなか理解不能なのだ。

あるいは、これが理解されたと言って、
すぐに金持ちになるとか、神さまになるとか、
天国で気絶するわけではない。
それらも全て、3次元的閉鎖世界の思考の癖だ。

何かが新たに”得られる”わけではなく、
在るがままの”わたし”・・気付くという事だ。

意識が、世界という夢を観ていることに気付くことは、
次元を越えて在る・・わたしに気付くという事だ。
小さな世界の古いおもちゃ箱を気にする必要もない。


わたしは・・意識である。
世界、宇宙は・・意識の中にある。
世界、宇宙は・・わたしの中にある。


世界を映し出す光源は・・わたし・意識・・なのだ。

深く考慮し、気付き、悟るべきこと。
世界が、身体が、頭脳が・・ではなく、
それら全てに気付いている”意識”である。


この閉鎖された世界の、常識観念の思考の轍から外れるには、
時空に束縛されていた、ちいさな肉体自我を超え、
時空を超えた大いなる意識に帰還するためには、
自己のあるがまま、身体・こころ・・を、深く客観視する必要がある。


例えば、
あなたが今現在、見上げるこの宇宙は、
あなたという”意識”・・の中に在るのだ。

嘘だと思う?・・本当だと思う?

・・・そう”思う”のは・・誰なのか?

まぎれもなく、それぞれの・・・わたし・・だ。




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時空を超えた物語(4)物量観念を外せ

2018-07-25 06:40:50 | 真我実現シリーズ
「時空」とは時間と空間だ。
この地球という世界も、一種の閉じられた時空だ。
閉じられた・・というのが、実に腹立たしいが、
地球も時間・空間の1つのパケット(情報・波動の塊)のようなものだ

”空間”に微細な極性をもつクオークが出現し、
それが運動・回転しつつ波動エネルギーとなる。

重合離散を繰り返し様々な物質を形作り、
それが常に”変化”している様を示すものだ。
その変化の相対的な差や記憶・記録が”時間”を生み出すものだ。

空間、空間と言っているものは英語で”スペース”であり、
”宇宙空間”と同じ意味なのは知っているだろう。

初めに・・「言葉」ありき・・、言葉は音声波動の意味であり、
・・・つまり「波動」である。

そこに情報、といえば無味乾燥的だが、「想い」が乗っている。
”想い”とは、---木の--目の--心--と書くが、
中心から波動状に放射する年輪を彷彿とさせるだろう。
・・・
古代人はなんと賢かったことか、
「想念」は、中心から発する波のようなものだと知っていたのだ。

中心とは・・・木の中心ではなく、宇宙の中心であり、
宇宙のすべての空間の無数の位置が、
それそのもの・・中心であることを意味する。



あなたも中心であるということだ。
昨今はやりの、チコちゃんの言うように、
「ぼーっと生きてんじゃねー!」(笑)だ。


(えー?関係なくねっ?)



初めに「言葉」ありき・・、
言葉は神とともにあり・・。



言葉は音声波動の意味であり、
・・・つまり「波動」である。
宇宙の初めを示す、神の第一声。
それからすべてが始まる・・それだ。

この聖書の記録と言われる「宇宙創成物語」は、
いい加減な妄想話ではなく、
相当に深い意味を知っている何者かの残した記録だ。



原初にその記述を残したのは誰か?
それは何者か?
それは神か?・・いいや、人だ。

少なくとも、
「時空」の成り立ちを知っている者だ。

それを古代から訪問している宇宙人だとか、
シュメールの伝説の神だとか、アヌ・ンナキとか、
様々な伝承の噂があるわけだし、
そういう様々な「火のないところに煙は立たない」式の
オドロ・面白き物語があるわけだが、ここでは省くこととしよう。


ビッグバンというと、ホーキング博士のような、
何か物理科学的なむつかし気な理論を思い浮かべるが、

投影された無限の諸世界、無数の時空の創生と成り立ちの理論、
人の想像と理論づけのことである。
つまり「想念」であることには変わりがない。


初めに「言葉」ありき・・、
言葉は神とともにあり・・。


宇宙、時空・・その
最初の動意を発するのは誰か?
それは神か?

それは遠く遠くの、昔々の
ある場所・ある星系にあるわけではなく、
今・・ここに在る・・、

それは、かつてどこにも隠されていない!
今・・在る・・だ。

あなたの原点である・・
「わたしは在る!」・・だ。
中心とは・・・木の中心ではなく、宇宙の中心であり、
宇宙のすべての空間の無数の位置が、
それそのもの・・中心であることを意味する。

まともな宗教的表現でいえば、
神が目覚めて在る・・だ。
神という概念は・・”すべて”であることを示す言葉。

そういう物量・総量無限大を想定するからことがおかしくなる。
どういう効果?どんなに多いか、どれだけ大きいのか?
そんな3次元的物質・物量観念を外すならば、

初めに「言葉」ありき・・、
言葉は神とともにあり・・。


わたしは在ると・・知っている・・想起している、

わたしが・・わたし--を実感・意識した瞬間だ。

わたしは・・在る!!


これがそれぞれ・・わたしの・・中心、
いや宇宙・世界の中心。

世界・宇宙の・・すべての噴出点である。

あなたはそれに気づいただろうか?

われ、在り・・は頭の知識・概念ではなく、

今の・・事実とその実感である。
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時空を超えた物語(3)まず常識観念を超えよ

2018-07-22 06:26:20 | 真我実現シリーズ


人間は肉体ではなく「意識」である・・というほうがより正しい。
明確には、
「わたしは肉体である」・・は誤った「認識」である。

全く正しいとされる世間一般常識が、
そもそも完全に間違っているなど、
親や親身な他者さえも、
根本的な真実に対して無知であるなどは
誰もみな、疑ってみたことさえもないかも知れない。
・・・

正しくは、
「わたしは肉体である」・・ではなく、
「わたしは肉体であると、意識している」である。
あなたはどう思うだろうか?

人はだれでも、自分の肉体や社会環境には気付いているが、
さらに、それを可能にしている高次の働き、
自らの「意識」に気づかなければならない。

そして、
それが光源からの光を、世界として投影していることに、
気づくべきなのである。


さらに意識すること・・を可能ならしめている・・
すべての背後に在る”気づき”自体に・・気づいてゆく必要がある。

それは”内面”にあるのだ。
とはいえ、
物質の内部でもなく、体の内部でもない、
・・意識を超える方向のことだ。

いま”ここにある・・意識・・の内部である。
それぞれの・・わたし・・の内面だ。

”高次元”とは、外の宇宙の果てにあるわけではなく、
またポータルなどと言われる高次元の窓口?なるものも、
地球の物理的上空や、宇宙空間のどこかの時空点にあるわけでもない。

「わたしは偶然生まれて、いつか死ぬ運命の・・肉体である」

人々の思考・想念の根っこにある、この間違った認識のために、
この世界が今までのようなこの有様であり、
また個々人も、気づかず知らずの人生、
記憶の喪失のまま、生まれては死ぬことの繰り返しを余儀なくされる。

なぜならば、その無知のままの健気で幼気(いたいけ)な人生さえも、
自らの創造原理によっているからである。

I AM THAT I AM.
(わたしは・・わたしであると認識する・・それ)

これは自己創造原理のことだ。
”わたし”が、そう信じていれば、それはわたしの世界となる。

想念や信念、意識の働き、内面の働きを軽んじてはならない。

複雑で膨大な思考の束・想念の強い傾向が、
魂の生体験の方向を決めるからだ。

この世界の特殊性は、
その想念や信念をあらぬ方向に、
くぎ付けにする仕組みがあったということだ。

・・・
繰り返された思考・認識、つまり
ある種の信念が強い場合は、
多少の思考の矯正でもその変化はやはり微小なため、
なかなか抜けることが難しい。

またその思考のベクトルが、この世的な安楽さ、
銭金物・物質的な富の獲得のほうに方向づけられることも多く、
結局はスピリチュアルな気づきが、現実生活とのギャップに負けて、
幻想でしかないところの、この”現実”に、
何度も何度も引き戻される羽目になる場合が多いものだ。

しかしながら、存在世界には、
決して”全くの同じ繰り返し”は無いため、
まるでラセンを描くように少しづつでも
確実に目覚めに近づくのである。

それは、ウサギと亀の競争のようなものだ。

それを輪廻転生における魂の進化といっている。
また、それはまるで、
閉じられた惑星の周囲を周回しつつ、
得られる気づきの連続によって、
ようやくそれから離脱する衛星や宇宙船のようなものだ。

これまで、魂の進化を微々たるものにすべく、
前世の記憶を消される酷く粗い仕組みの世界にいたことを
知っていただろうか?

ゼロではないが、多くの人は前世の記憶を持たない、
あるいは、使うことを知らないファイルに記憶されている、
または潜在意識下に眠っている状態である。
あなたは、どうだろう?

例えば、いま、
この文章をサラサラ目で追っている人たちはどうだろうか?
・・

生まれる前にも生があり、
生まれた後にも生がある。

なぜならば・・今・・在るからだ。

過去も未来もなく、あるのは今の生の瞬間、
今この瞬間しかないことが解れば、
今この瞬間に在ることは・・永遠にあることにも気づけるだろう。

これは誰が保証してくれるものでもなく、
周りの人々が、
「そうだそうだ」といってくれるものでもないが
それぞれが通過せねばならない魂の峠である。
・・

あなたは、生まれて何十年か後に死んで、それで終わりだと、
そう、信じていたのではないか?
また右習え式にそう信じていれば、またそれが大量再生産されることを
知っていただろうか。

いや、今でも、
「どちらかといえばそうだがなア・・」と、
安全な?その他大勢の背後に身を隠しているだろうか?

実のところ、安全どころの話ではないことは、
既に人生の凄惨を舐めた人は気付けるはずではないか。


「常識」とは何か?・・・つまり、誰も違和感や反論のない認識のことだ。
「だって、そうじゃない?」
「みんなそう言っているよ」
「親も、先生も何も特別なことを教えてくれてないし」

わたしとは何か?・・に関しては、
誰でもすぐに理解できる「この体である」以外になく、
それ以上の真実に関しては世間的常識ではないため、
信じる何もないと・・思っている。
・・・ことすらも気づいていない場合があるし、

なにか変だと気付ける人も、
そうやって”待っている”状態の人が多いのかも知れない。

世界が良くなれば、自分も良くなる、
世界の悪い奴らがいなくなれば、きっと世界は変わると、
そういう風に世界をネット観察している人もいるだろう。
トランプは実は正義の味方だ、いやプーチンはそうだ、とかetc・・

あるいはスピリチュアルな気持ちの良い、優し気な情報に接することで、
その世界にどこか憧れる場合もあるだろう。

もちろん、様々な人々が自らの幸せを求めて戦っているわけだが、
それは夫々の個人我のためのものであって、

残念ながら、外の誰かが・・”わたし”を幸せにすることもなければ、
わたしの真実を証明することもない。

わたしのことはわたしが・・やる以外にない。
お金を払えばだれかがやってくれるものでもない。


時空舞台であるこの地球も、
明らかに・・様変わりの方向に舵を切り、
もう再び、元の木阿弥、
繰り返しのプログラム再演をやめたことに気づけるだろう。

・・

I AM THAT I AM.
(わたしは・・わたしである・・それ)

誰かが・・あなたを創るわけではない。
誰かが・・あなたを幸せにするわけではない。

例えば、身体に関しても、
両親もあなたの身体を意図して創ったわけではない。
地球の生態系内での身体に備わった、いわばプログラム通りに生殖しただけだ。

子供は親が作ったわけではないし、子は親に従属するわけでもない。


あなたが熟睡しているときに、あなたの世界はない。
毎日毎日・・・素通りしている・・事実に気づけるか。

仮に、そのままであれば、
(多くの人は永眠とか、死ぬとか言って恐れているが)
毎朝のごとく目覚めることがなければ、
かつても、これからも・・過去も未来も何も無い・・ことに気づけるだろう。

意識が目覚めるからこそ、世界が現れるのである。

この世の人は、肉体の存続期間、
毎日同じような現実に目が覚めるため、
世界のほうが存在しているように信じているし、
みんなそうだと信じ込んでいるわけだが、

”わたし”が目覚めなければ・朝は永劫やってくることはなく、
現実という世界は現れることはない。

わたしという”意識”が立ち上がることで世界も立ち現れるのだ。

それがどれだけ複雑で奇跡的に見えようと、
集団で別個のものに創り上げているように見えようと、

わたし・・意識があるからこそ、
わたしの世界が展開・投影されているのだ。

世界は・・わたし・・・の中にあるということだ。

わたしは肉体である・・という(集団催眠的)自己認識から、
わたしは肉体や環境をも”意識する・・それであるという気づきに至るならば、

この「転換」は明らかに起こるものだ。



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夏のお知らせ

2018-07-10 09:41:14 | 日記
いま、前の記事のコメント欄で、細々ながら、お祭り騒ぎをしています。(笑)
袖すり会うも他生の縁、よろしければご参加ください。
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時空を超えた物語(2)超えているのは何?

2018-07-02 05:34:05 | 真我実現シリーズ
一般に「時空」とは何かといえば、アインシュタインが4次元時空を提唱したように、一種の科学的概念であり、大きくはこの「宇宙」を表現したものだ。
したがって、時空を超えている・・ということは、宇宙をも超えていることを意味する。

なので、時空を超えた物語・・なんて、
どんなに大きいんだ?・・的な感じがあるし、
なんというトンデモな・・荒唐無稽な話だろうと”思う”かもだが、

それもまた、「自分とはこの肉体である」とする、
3次元的物質レベルに固定された”意識”からの物言いなのである。
そう「思って」しまうのは、
自分が一定の容積・重さを持った身体・肉体である・・とする「思考」からきている。

そういう思考、認識でしかないのだ。

「思錐する肉体である」・・「私個人」のことである。
パスカル以来変わっていない西洋的自己認識形式だ。
これって、常識だと・・”思って”いる。

これを流し読みしている?あなたはどうだろうか?

有名なアインシュタインの相対性理論は、
物体の運動の相対性と、光速度の不変性の2つだけから導き出されたものだ。
当然ながら、それを試錐、認識する「意識」が含まれていない。
つまり観察者・・意識的働きが含まれない。
当然ながら、思考は”観察物”ではないからだ。



しかしながら、ほぼ同時期に勃興した量子論によって、
観察者の存在、つまり人の意識的要素が、
原子を構成する量子の挙動に”影響する”ことが認識されたのだ。

まさに「なに?これっ?!」だ。(笑)

しかしながら、
どのように影響するのか?という「定量的な」方程式などがないため、
この意識と物質素粒子の関係はウヤムヤニなった感がある。

要は、人の意識、マインドは、物理定量的に定式化できないからだ。

とはいえ、時間と空間(距離)が観察点によって相対的なもの、
つまり時間は空間に、空間時間はお互いに変換されるように見えること、
また時空間は絶対的なものでなく、相対的なものであることの理解は大きい。

繰り返すが、さて、誰にとって相対的なのか?
時空間そのものが、勝手にそうなのか?
そうではなく、
常に、それを観察し、思推する”誰か”が・・いるからである。

時空間、あるいは物質原子が・・勝手にそう決めているのではなく、
人間が・・そう理論付けし、認識している・・のである。

すべてに気付いているのは・・わたし・・である。
気づき・・がなければ、その”対象”は生じない。



無限の宇宙を見て、それが果てしないと・・観察している、
その「誰か」こそが・・無限である。


鏡を見て、鏡に映った投影像のほうを自分だというアホはいない。
あなたもわたしもそのアホだった・・というのに、
大笑いしないでどうするのか?(大笑)

宇宙という無限の知覚対象を見ている者が、
サルの進化の毛映えの肉体だという「嘘」を信じ込んでいた。

それこそが、実に”驚愕の奇跡”である。

愛すべき人類の行き交うこの地球の稀有さは、
その嘘で閉じられていた時空物語のことであろう。
・・・

認識、思考はつまり意識の働きである。
わたしの「意識」がなければ、”私個人”も、わたしの人生もない。
社会もなければ国家もない、地球も宇宙もない。
体だけでどうするのか・・だ。
体が創り上げた頭脳が「意識」を創っている・・?と、
そう、体が・・認識するのか?

これらすべて肉体が自己であるという認識、
さらには思考の・・体への執着であり、
その中に自らを閉じ込めている・・・という証(あかし)である。

認識、思考はつまり意識の働きである。
わたしの「意識」がなければ、”私個人”も、わたしの人生もない。
社会もなければ国家もない、地球も宇宙もない。

現代社会ではこの逆であると考えている。
宇宙があって地球があって、国家があって社会があって、
そうして、その中に私という個人がポツンと居る。

時空間が先にあって、・・私という意識が生まれた・・と思っている。
だって、それって当り前じゃないか?・・と思う。





実にこれが宇宙最大の”虚(うそ)”(笑)。

宗教的にいえば、”宇宙は神の観ている幻想である”という話であるが、
普通に根付いてしまって、”意識”もされないような、この科学的常識?こそ、
気づけば、幻想の中でも実に「トンデモな作り話」なのだ。

気づいている人はいると思うが、
「嘘でも繰り返せば真実になる・・?」は、
腹立たしい思考制御の方式、マインドコントロールだが、

地球の物語も、実に壮大なマインドストーリーであった。
しかしながら、
無限なる者こそが観るところの幻想物語のその中の、
さらに歪んだ幻想の中にありながら、
真実の輝きを探し求めてきた愛すべき人類の一巻の終わり、
物語につきものの「起・承・転・結」において、、
今ようやくその・・「結」果の・・時に差し掛かっていることを、
気づける人は・・気づけるだろう。




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<追記>
過ぎれば早いもので、この細々ブログを始めてなんと十数年経ちます。
静けさは歓迎するところですが、たまにマインドの騒ぎで楽しむのも良いかと思います。

夏本番だからというわけでもないですが、
サイトをご覧の方々でご意見、ご感想、近況、質問あるいは世間話などあれば、
コメント欄で申し訳ないですが、
古い方、新しい方を問わず、気楽にご投稿いただければと思います。
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