ラマナ・マハルシは問いかける・・、
「”わたし”は世界の中に在るのですか?
それとも、
「世界が”わたし”の中に在るのですか?」
どっちだろう?
世間の人は、一体何を言ってるのか?と思うはずだ。
「私の中に、世界があるって?!?」
「・んな、わけあるかよ!!」だろう。
しかしながら、それは、
わたしは「この体」である・・としている”からだ”。(笑)
確かに、わたしの”体の中”に東京ワワーもなければ、地球も入っていない、
天空にかかる銀河が入っているわけはない。(笑)
そう、そう・・そりゃそうではないか。
わたしとは何か?の普通の答えである、
名前、身長、体重、生年月日、職歴、学歴等・・、
主に身体の経歴、記憶、
それらがわたしだと・・完全に、当たり前に信じ込んでいる。
世間一般、世界全般、地球の人のほとんどが、
あるいはまた、
信じている・・とかの前に、絶対の当たり前だとして、
疑問にも思わないのである。
「だってそうじゃないか!」・・である。
重い体を引きずっては、腰が痛いだの、疲れただのと
生まれた時から馴染んでいるため、
「体が自分だ」と--”思っている”・・ということだ。
あなたは体なのか?
(別に自分の体や顔が嫌いなわけではないが・・:笑)
しかしながら、ことの詳細を言えば、
”私は体だ・・”は・・事実ではなく、
それが事実だ--と認識している・・ということなのだ。
つまり、簡単に言えば、
そう思っているということだ。
思いとは”意識している”その内容のことだ。
外の世界を追いかける事ばかりではなく、
自分の想念、内面への気付きが起きている人には理解可能であろう。
深く自分の有り様を・・観てみようか。
そして世間的無知で素通りせずに、リアルに熟考してみよう。
わたしはこの身体である・・・は事実とか真実などではなく。
わたしは身体である・・という、
固定化された”思い”:想念なのである!
この体で色々な物を持ったり、歩いたり、疲れたりする・・ことがあり、
また五感という身体機能で見たり聞いたり嗅いだりしている・・ことがある、
と、・・そう、知覚して”認識”しているのである。
なので、余りにも意識との”密着度”があるために、
「わたしとはこの身体である」と勝手に解釈しているのだ。
わたしは身体(からだ)ではなく、
わたしは身体に「気づいて」いる、
同じように環境にも「気づいて」いる・だ。
身体(からだ)だけが、ポカーン、どてーんとあるわけではない。
気付いている・・意識しているからこそ、
身体(からだ)を認識し、それを含む・・環境・宇宙をも認識している。
気付き・意識が無ければ、身体も世界も宇宙も無い!
つまり、キッパリ言って、
”意識”の中に、身体(からだ)も世界もある。
・・・の中に・・と言う表現をするものだから、
えー?、どこの中に?どこどこ?・・
という3次元空間的物量比較思考が出てしまうため、
なかなか理解不能なのだ。
あるいは、これが理解されたと言って、
すぐに金持ちになるとか、神さまになるとか、
天国で気絶するわけではない。
それらも全て、3次元的閉鎖世界の思考の癖だ。
何かが新たに”得られる”わけではなく、
在るがままの”わたし”・・気付くという事だ。
意識が、世界という夢を観ていることに気付くことは、
次元を越えて在る・・わたしに気付くという事だ。
小さな世界の古いおもちゃ箱を気にする必要もない。
わたしは・・意識である。
世界、宇宙は・・意識の中にある。
世界、宇宙は・・わたしの中にある。
世界を映し出す光源は・・わたし・意識・・なのだ。
深く考慮し、気付き、悟るべきこと。
世界が、身体が、頭脳が・・ではなく、
それら全てに気付いている”意識”である。
この閉鎖された世界の、常識観念の思考の轍から外れるには、
時空に束縛されていた、ちいさな肉体自我を超え、
時空を超えた大いなる意識に帰還するためには、
自己のあるがまま、身体・こころ・・を、深く客観視する必要がある。
例えば、
あなたが今現在、見上げるこの宇宙は、
あなたという”意識”・・の中に在るのだ。
嘘だと思う?・・本当だと思う?
・・・そう”思う”のは・・誰なのか?
まぎれもなく、それぞれの・・・わたし・・だ。
「”わたし”は世界の中に在るのですか?
それとも、
「世界が”わたし”の中に在るのですか?」
どっちだろう?
世間の人は、一体何を言ってるのか?と思うはずだ。
「私の中に、世界があるって?!?」
「・んな、わけあるかよ!!」だろう。
しかしながら、それは、
わたしは「この体」である・・としている”からだ”。(笑)
確かに、わたしの”体の中”に東京ワワーもなければ、地球も入っていない、
天空にかかる銀河が入っているわけはない。(笑)
そう、そう・・そりゃそうではないか。
わたしとは何か?の普通の答えである、
名前、身長、体重、生年月日、職歴、学歴等・・、
主に身体の経歴、記憶、
それらがわたしだと・・完全に、当たり前に信じ込んでいる。
世間一般、世界全般、地球の人のほとんどが、
あるいはまた、
信じている・・とかの前に、絶対の当たり前だとして、
疑問にも思わないのである。
「だってそうじゃないか!」・・である。
重い体を引きずっては、腰が痛いだの、疲れただのと
生まれた時から馴染んでいるため、
「体が自分だ」と--”思っている”・・ということだ。
あなたは体なのか?
(別に自分の体や顔が嫌いなわけではないが・・:笑)
しかしながら、ことの詳細を言えば、
”私は体だ・・”は・・事実ではなく、
それが事実だ--と認識している・・ということなのだ。
つまり、簡単に言えば、
そう思っているということだ。
思いとは”意識している”その内容のことだ。
外の世界を追いかける事ばかりではなく、
自分の想念、内面への気付きが起きている人には理解可能であろう。
深く自分の有り様を・・観てみようか。
そして世間的無知で素通りせずに、リアルに熟考してみよう。
わたしはこの身体である・・・は事実とか真実などではなく。
わたしは身体である・・という、
固定化された”思い”:想念なのである!
この体で色々な物を持ったり、歩いたり、疲れたりする・・ことがあり、
また五感という身体機能で見たり聞いたり嗅いだりしている・・ことがある、
と、・・そう、知覚して”認識”しているのである。
なので、余りにも意識との”密着度”があるために、
「わたしとはこの身体である」と勝手に解釈しているのだ。
わたしは身体(からだ)ではなく、
わたしは身体に「気づいて」いる、
同じように環境にも「気づいて」いる・だ。
身体(からだ)だけが、ポカーン、どてーんとあるわけではない。
気付いている・・意識しているからこそ、
身体(からだ)を認識し、それを含む・・環境・宇宙をも認識している。
気付き・意識が無ければ、身体も世界も宇宙も無い!
つまり、キッパリ言って、
”意識”の中に、身体(からだ)も世界もある。
・・・の中に・・と言う表現をするものだから、
えー?、どこの中に?どこどこ?・・
という3次元空間的物量比較思考が出てしまうため、
なかなか理解不能なのだ。
あるいは、これが理解されたと言って、
すぐに金持ちになるとか、神さまになるとか、
天国で気絶するわけではない。
それらも全て、3次元的閉鎖世界の思考の癖だ。
何かが新たに”得られる”わけではなく、
在るがままの”わたし”・・気付くという事だ。
意識が、世界という夢を観ていることに気付くことは、
次元を越えて在る・・わたしに気付くという事だ。
小さな世界の古いおもちゃ箱を気にする必要もない。
わたしは・・意識である。
世界、宇宙は・・意識の中にある。
世界、宇宙は・・わたしの中にある。
世界を映し出す光源は・・わたし・意識・・なのだ。
深く考慮し、気付き、悟るべきこと。
世界が、身体が、頭脳が・・ではなく、
それら全てに気付いている”意識”である。
この閉鎖された世界の、常識観念の思考の轍から外れるには、
時空に束縛されていた、ちいさな肉体自我を超え、
時空を超えた大いなる意識に帰還するためには、
自己のあるがまま、身体・こころ・・を、深く客観視する必要がある。
例えば、
あなたが今現在、見上げるこの宇宙は、
あなたという”意識”・・の中に在るのだ。
嘘だと思う?・・本当だと思う?
・・・そう”思う”のは・・誰なのか?
まぎれもなく、それぞれの・・・わたし・・だ。