自分の身体を含め、目の前の事物や世界は・・・、
わたし(意識)に関係なく・独自に存在しているだろうか?
あるいは、わたし(意識)があるから・・存在しているだろうか?
ーーーー
いいかえれば、
わたし(意識)が実在なのか・・世界の方が実在なのか、
わたし(意識)が世界の原因なのか、外の世界がわたしの原因なのか?
わたしが・・世界の源(ソース)であるのか、世界がわたしの源(ソース)なのか?
という問いと同じようなものである。
誤解多き宗教的な表現は、本当に・・極力避けたいけれど、簡単に言えば・・
わたし自身が・・わたしの世界の神なのか、世界の・・どこかに神がいるのか?
そういう問いにもつながるものだ。
さて、どうなんだろうか?
・・あなたの内的直感はどう感じるだろうか?
じつは、わたしが先か、世界が先か?というデフォルメされた問いかけは、
真のわたしとは何か?・・真我・・の探求を意味しているし、
何をさておいても気づくべき、実に由々しき問題ではないのだろうか?
私たちが生まれた意味とか、人生とは何か?とか、死んだらどうなる?とか、・・・
全然気にならない人ならば、まったく・・なんの問題もないが、
そもそも、そういう内的テーマを感じたことがない人はいるのだろうか?
あなたはどうだろうか?
これに比べれば、
苦役と快楽のセットのように繰り返される常識的な生活、
TVやメディアで繰り返し流される、その時々の常識観念・思念の流れのまま、
必ず死ぬ定めの、この世のたかが何十年かの人間寿命の中で、
男や女や個人として、家族や環境を維持改善しながら、
生きてゆくために必要な事と言われる多くの物事の、
刹那的流れの中に身を任せ、あくせく駆けずり回り、
明日の飯のための金稼ぎや、集団の中で成績上げることなど、
本質的に言えば・・・実は・・どうでもよい枝葉の遊びのようなものであろう。
話を元に戻すと、
自分の身体を含め、目の前の事物や世界は・・・、
わたし(意識)に関係なく・独自に存在しているだろうか?
あるいは、わたし(意識)があるから・・存在しているだろうか?
---
ここで・・”わたし”とは・・気づいている・・意識である。
世界とは、気づいている意識の・・・知覚「対象」・・である。
知覚とは、見る聞く感じるという肉体の五感に基づいて、
何物かの存在を”認識”する・・意識的に認める・・ということだ。
よく頭脳が・・それをやっていると言うが、
頭脳自体も、五感の知覚機能の組織の中枢として、
今の・・わたし・・意識・・の気付きの”対象”なのである。
知覚されるすべての事象、機能、物、組織・・あらゆるものは、
気付いているから・・対象として、そこにここに”存在”する・・が、
気付いていること・・自体は・・何かの単体の”個別対象物”ではない。
頭脳組織によって、気付き・意識が二次的に ”発生している” ・・のではない。
気付き、意識が・・人体・頭脳組織を通じて・・現れている・・ということだ。
あるいは、
意識が・・それを表現するにふさわしき人体・頭脳組織を通じて、
自らを押し出しているとも言えよう。
「鏡」が無ければ自分の顔が見えないように、
意識・気付きは、その写し出される(知覚される)「対象」によって、
逆に・・自らを観ることができる。
わたし(意識)に関係なく・独自に存在しているだろうか?
あるいは、わたし(意識)があるから・・存在しているだろうか?
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いいかえれば、
わたし(意識)が実在なのか・・世界の方が実在なのか、
わたし(意識)が世界の原因なのか、外の世界がわたしの原因なのか?
わたしが・・世界の源(ソース)であるのか、世界がわたしの源(ソース)なのか?
という問いと同じようなものである。
誤解多き宗教的な表現は、本当に・・極力避けたいけれど、簡単に言えば・・
わたし自身が・・わたしの世界の神なのか、世界の・・どこかに神がいるのか?
そういう問いにもつながるものだ。
さて、どうなんだろうか?
・・あなたの内的直感はどう感じるだろうか?
じつは、わたしが先か、世界が先か?というデフォルメされた問いかけは、
真のわたしとは何か?・・真我・・の探求を意味しているし、
何をさておいても気づくべき、実に由々しき問題ではないのだろうか?
私たちが生まれた意味とか、人生とは何か?とか、死んだらどうなる?とか、・・・
全然気にならない人ならば、まったく・・なんの問題もないが、
そもそも、そういう内的テーマを感じたことがない人はいるのだろうか?
あなたはどうだろうか?
これに比べれば、
苦役と快楽のセットのように繰り返される常識的な生活、
TVやメディアで繰り返し流される、その時々の常識観念・思念の流れのまま、
必ず死ぬ定めの、この世のたかが何十年かの人間寿命の中で、
男や女や個人として、家族や環境を維持改善しながら、
生きてゆくために必要な事と言われる多くの物事の、
刹那的流れの中に身を任せ、あくせく駆けずり回り、
明日の飯のための金稼ぎや、集団の中で成績上げることなど、
本質的に言えば・・・実は・・どうでもよい枝葉の遊びのようなものであろう。
話を元に戻すと、
自分の身体を含め、目の前の事物や世界は・・・、
わたし(意識)に関係なく・独自に存在しているだろうか?
あるいは、わたし(意識)があるから・・存在しているだろうか?
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ここで・・”わたし”とは・・気づいている・・意識である。
世界とは、気づいている意識の・・・知覚「対象」・・である。
知覚とは、見る聞く感じるという肉体の五感に基づいて、
何物かの存在を”認識”する・・意識的に認める・・ということだ。
よく頭脳が・・それをやっていると言うが、
頭脳自体も、五感の知覚機能の組織の中枢として、
今の・・わたし・・意識・・の気付きの”対象”なのである。
知覚されるすべての事象、機能、物、組織・・あらゆるものは、
気付いているから・・対象として、そこにここに”存在”する・・が、
気付いていること・・自体は・・何かの単体の”個別対象物”ではない。
頭脳組織によって、気付き・意識が二次的に ”発生している” ・・のではない。
気付き、意識が・・人体・頭脳組織を通じて・・現れている・・ということだ。
あるいは、
意識が・・それを表現するにふさわしき人体・頭脳組織を通じて、
自らを押し出しているとも言えよう。
「鏡」が無ければ自分の顔が見えないように、
意識・気付きは、その写し出される(知覚される)「対象」によって、
逆に・・自らを観ることができる。