気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

(3)わたしは人体・頭脳か??

2020-01-28 09:14:21 | 意識の科学
自分の身体を含め、目の前の事物や世界は・・・、

わたし(意識)に関係なく・独自に存在しているだろうか?

あるいは、わたし(意識)があるから・・存在しているだろうか?

ーーーー
いいかえれば、

わたし(意識)が実在なのか・・世界の方が実在なのか、

わたし(意識)が世界の原因なのか、外の世界がわたしの原因なのか?

わたしが・・世界の源(ソース)であるのか、世界がわたしの源(ソース)なのか?

という問いと同じようなものである。


誤解多き宗教的な表現は、本当に・・極力避けたいけれど、簡単に言えば・・

わたし自身が・・わたしの世界の神なのか、世界の・・どこかに神がいるのか?

そういう問いにもつながるものだ。



さて、どうなんだろうか?

・・あなたの内的直感はどう感じるだろうか?


じつは、わたしが先か、世界が先か?というデフォルメされた問いかけは、

真のわたしとは何か?・・真我・・の探求を意味しているし、

何をさておいても気づくべき、実に由々しき問題ではないのだろうか?


私たちが生まれた意味とか、人生とは何か?とか、死んだらどうなる?とか、・・・

全然気にならない人ならば、まったく・・なんの問題もないが、

そもそも、そういう内的テーマを感じたことがない人はいるのだろうか?

あなたはどうだろうか?


これに比べれば、

苦役と快楽のセットのように繰り返される常識的な生活、

TVやメディアで繰り返し流される、その時々の常識観念・思念の流れのまま、

必ず死ぬ定めの、この世のたかが何十年かの人間寿命の中で、

男や女や個人として、家族や環境を維持改善しながら、

生きてゆくために必要な事と言われる多くの物事の、

刹那的流れの中に身を任せ、あくせく駆けずり回り、

明日の飯のための金稼ぎや、集団の中で成績上げることなど、

本質的に言えば・・・実は・・どうでもよい枝葉の遊びのようなものであろう。


話を元に戻すと、

自分の身体を含め、目の前の事物や世界は・・・、

わたし(意識)に関係なく・独自に存在しているだろうか?

あるいは、わたし(意識)があるから・・存在しているだろうか?

---

ここで・・”わたし”とは・・気づいている・・意識である。

世界とは、気づいている意識の・・・知覚「対象」・・である。

知覚とは、見る聞く感じるという肉体の五感に基づいて、

何物かの存在を”認識”する・・意識的に認める・・ということだ。

よく頭脳が・・それをやっていると言うが、

頭脳自体も、五感の知覚機能の組織の中枢として、

今の・・わたし・・意識・・の気付きの”対象”なのである。


知覚されるすべての事象、機能、物、組織・・あらゆるものは、

気付いているから・・対象として、そこにここに”存在”する・・が、

気付いていること・・自体は・・何かの単体の”個別対象物”ではない。


頭脳組織によって、気付き・意識が二次的に ”発生している” ・・のではない。

気付き、意識が・・人体・頭脳組織を通じて・・現れている・・ということ
だ。


あるいは、

意識が・・それを表現するにふさわしき人体・頭脳組織を通じて、

自らを押し出しているとも言えよう。





「鏡」が無ければ自分の顔が見えないように、

意識・気付きは、その写し出される(知覚される)「対象」によって、

逆に・・自らを観ることができる。


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(2)世界が先にあったのか?

2020-01-23 15:42:14 | 意識の科学
 
あなたの目の前の事物、環境・世界は・・・、

わたし(意識)に関係なく・独自に存在しているだろうか?

あるいは、わたし(意識)があるから・・存在しているだろうか?

ちょっと考えてみることにしよう。

●世界とは昔からあるもの?

常識から考えていては到底理解不能なテーマなので、

そんな馬鹿な・・を感じつつ、考察しなければなるまい。

そこで、

”あなたが生まれる前に、世界はあったのか?”という

同じような問いについてはどうだろうか・・。

当然ながら、誰も皆、わたしが生まれる前にも既に世界があったと想っている。

そうではないか?

「想っているって?、それってマジ常識でしょ!」・・なのだが・・、

それは過去の多くの人々の歴史記録が残っていて、現代の人も知っているからだ。

過去の各国、各地の膨大な歴史記録が残されていて、

様々な人々や時代があったということが伝わっているからだ。

したがって、誰も皆、

「わたしが生まれる前にも、世界があったのは絶対間違いない・・」と想っている。

次に、

あなたが生まれた経緯を考えてみると・・、

あなたの親がいなければ、子であるわたしたちは生まれていないため、

その親たちやその祖先や、さらにこの地上に人類が既に存在していたと、

世界や宇宙が、わたしたちよりも以前に存在しているからこそ、

わたしたちは生まれて来たと、・・・

”世界が先に存在していて、・・わたしたちはその世界の中に生まれて来た”と・・・

そういうことが全くの当たり前の「事実」であると、そう想っている。

そうではないか?


したがって、世界や宇宙が先か、わたしが先か?など聞くのも論外であって、

それならば、世界が先に決まってるじゃないか、

一体全体何を言っているのかと・・そう思うものだ。


●過去の世界は記録・記憶でしかない

しかしながら、以上の当たり前の議論は・・

すべてわたしたちの、肉体・思考、及び環境・世界の情報・記録・記憶のことなのだ。

歴史書、記録、先祖からの言い伝え、親たちの記憶や伝承、

つまり平たく言えば「情報」である。


したがって、誰でもわかるように、

過去の記録は、今の生のあるいはリアルタイムな「事実」そのものではないということは明白だ。

記録・記憶等は、どこまで嘘か本当か・・実際のところは良く分からない伝承・情報なのである。

「真実か虚偽か良くわからないって・・、過去の人が嘘を言うわけないじゃないか?」と言いたいところだが、

人の記録は主観や立場によって大きく色づけされることを、あなたは良く知っているだろう。

しかし、今重要なのは、どこまで嘘か本当か?という過去や歴史の「内容」のことではなく、


あらゆる過去の記録や記憶も、人類の壮大なる歴史絵巻も、

過去世界や宇宙が存在していた・・歴史の記憶・記憶、つまり過去「情報」であるということだ。

簡単に言えば、過去の世界は「記憶」「情報」なのである。

●すべては・今・・気付くから起きていること

過去という時代を窺い知ることが出来る、その「情報」「記憶」に対して・・

今の・この瞬間に・・読む・聞く・思う・憶えるという”意識的行為”によって

”気付いている”・・ということを意味しているのだ。


あなたが生まれた経緯も、親の歴史も、人類の歴史も、あるいは宇宙の歴史も、

過ぎれば・・ただの記憶・記録・情報であって、

・・今・・この瞬間に「気付く対象」以外の何ものでもないということだ。

「だって、人生の出来事も実際にあった事だよ!・・」とは言えるが、

”今”を・・過ぎれば・・記憶・記録・情報でしかないのである。


●過去の世界は・・確固たる存在ではない

時間の経過を示す、朽ち果てそうな古文書や過去の遺物も

・・過去の「事実」・・そのもの・・ではなく、情報として知覚・認識・想定する対象なのである。

したがって、

”あなたが生まれる前に、世界は有ったのか?”という問いに対して、

「はい、絶対にありました!」・・とは言えないのである。

それを言うならば、

「歴史や記録・言い伝えや情報をもとに、
   わたしより前に、世界は存在していたと・・思われる・・」であろう。

●世界が先でわたしが後ではない

ここまで分解して考えれば、変な感じがするかもしれないが、

しかしながら、誰でもが鵜呑みにしているこのような漠然とした常識観念、

「わたしより世界が先に存在しているに決まっているでしょ・・」も、

実は不確定な・想定にすぎないとわかるはずだ。


過去の世界は・・「今」解読する・・真偽の不明確な「情報」だということである。

その情報は、人の見る聞く感じたところを記録したものや人の想いの記憶ということだ。

少なくとも、

”わたしよりも世界が先にあったと”いうのは、認識・想い・観念であって、確固たる事実ではない。



わたしより前に存在していた世界とは・・記憶・情報に過ぎない、

そもそも、世界(記憶・情報)が、わたしより前とか後とか・・存在していたということ自体、

確固たる事実ではなく、どちらが先に存在していたとか比較議論され得るものでもない。


わたしより前に存在した世界は・・情報・記憶なのであって、

今の・・わたし・・気付いている意識・・と、先とか後とかで比較できるものではない。



ちょっと変な感じになっていないだろうか?(笑)

世界が先に存在していて、後で”わたし”が世界に生まれて来た・・わけではないということだ。


当然ながら、誰にとっても、”わたし”の肉体の生誕記録は、

歴史上、戸籍上の記録としてはあるわけだが、それはすなわち情報であって、

わたし・・今の気付きの点・・である”わたし”(意識)・・は、・・・・

常に・・・今・・今・・今・・しかないものだからだ。


繰り返すが、過去の歴史内容の真偽の問題ではない、

仮想の時間軸上に起きた事象の時系列的記憶の連鎖でもない、

大勢の人が言うから多数決で真実だということでもない、

それらがどんなに複雑で膨大であろうと、騒ぎや喜怒哀楽が甚大であろうと、

それらも全て、意識する・気付きの対象世界なのだということだ。


ある意味で、

今の意識が無ければ・・過去もないし、未来も無い。

今の意識があるからこそ、過去も未来も知覚・認識・想定可能ということだ。


唯一存在する・・瞬間瞬間の・・今・・・・

気付いているからこそ、それが「対象」として認識される。


このことは・・頭で概念を組み合わせても、様々な理論を駆使して考えても、

つまり、考えまくっても、真のところは、なかなかわからない・・、

なぜならば・・思考、想念も気付き・意識の対象物にすぎないからだ。


存在とは・・意識・・。

自分自身の在ることを・・観ること、気付いていることだ。

今・・わたしが在る・・ことは・・

気付いているから・・対象としての世界が在る・・これだけ・・だ。

気付き・・純粋意識・・これだけ、

ここから全ての想念、事象・対象が生じている・・のである。



再度提起すると・・・


自分の身体を含め、目の前の事物は・・・、

わたし(意識)に関係なく・独自に存在しているだろうか?

あるいは、わたし(意識)があるから・・存在しているだろうか?
 

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(1)意識とその対象

2020-01-21 09:09:50 | 意識の科学

何かに”気付いている”からこそ、そこに”何かがある”ことがわかる。

日常生活、人生、物も、心も、すべて、

存在しているものは、

すなわち・・気づき、あるいは”意識”によって対象化されているのだ。

あなたの知覚する、物や環境、社会、世界は・・

そのすべての背後にあるこの・・”気付き”によって・・存在している。


気付いているからこそ・・・⇒・・あらゆる何か、いわゆる物や環境世界がある。

思考、マインド、感情さえその気付き・・の対象である。


あなたは、

手足の感触・・に気付いている。

視ているものに・・気付いている。

聞いているものに・・気付いている。

匂いや味に・・気付いている。

色々とやってくる考えに・・気付いている。

様々な感情の起伏に・・気付いている。



多くの人は、

「あーそうだ、それは生きていることだよ・・」と、

概念上で分かったつもりで、簡単にやり過ごしているが、

その、もっとも身近で当たり前の、

今・・生きている・・在る・・ことの中に・

すべての人が求めている・・、真実・幸せ・安心・知恵・・が含まれている。


そのために、

それぞれ・・真のわたし・・とは何なのか?

それを自らで問いかけていく必要があるのだ。

問うていくことによって、気付いてゆくことになり、

意識が深まってゆくことが起きてくる。

それを魂的な進化と言っている。

---

意識は”気づく”という働きを通じて、その対象である存在物・世界を投影する。


現代の物理科学上の量子論での見解では、

微細な素粒子を人が観察する行為(人の意識の働き)そのものが、

素粒子の挙動に影響を与えるということはすでに周知の事実となっており、

これは”意識”と”物質”の接点とも考えられるし、

あるいはさらにふみこんで、

意識が直接素粒子、原子つまり物質に変換される可能性を伺い知ることにも繋がるだろう。


しかしながら、これには既存観念がすでに前提になっている事に気付けるだろうか。


つまり、

意識には関係なく・・物質は既に独自に存在しているものであり、

物質組成の中で偶然に生じた・・人間の意識が、

逆に、その物質形に影響を与える可能性があると・・・

そう言う解釈になっていると考えている。


確かにこれ自体、実に画期的な科学的知見なのだが、

あくまでも”物質が独自で存在している”という前提があるのだ。


またここには、意識して直接、物質形を変えたり、原子転換したりという、

小手先の現代的錬金術、物質のコントロールへの模索願望が潜んでいる。

とは言えあくまでも、意識ではなく物質が主体のままと言えるだろう。
---

そもそも、

あらゆる物質形、事物そのものは・・人間が知覚しなければ存在し得ないということ、

つまり・・何かに・・気付かなければ・・

その対象・物質は存在し得ないということ
に”気付いていない”と言えよう。


一般的には、既に存在している事物を、だだ見ている聞いているで済ませており、

気付き、意識によって・・あらゆるものが存在し得ていることは、

普段まったく考えもしないことだが、

このテーマ・議論には、実に重大な真実が潜んでいるのだ。


あなたはどう感じるだろうか?

深く根本的に考え、感じて、観てみる必要があるだろう。


目の前にあると見える、存在する・・様々な事物は・・・、

あなたが気付いていないで・・存在しているだろうか?

あるいは、気付いているから存在しているだろうか?







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マインドの話(5)こころの建て替え

2020-01-18 11:09:17 | 語り部の章
「こころ」を入れ替えるというのは、「世界」を入れ変えるということに等しい。

しかしながら、注意すべきは、

入れ替えるのは・・わたしのマインド”こころ”であって、世界ではない。


ところが、

世界という外側の環境が変われば、自分が”幸せ”になるという

錯誤した信念が植えつけられているため、まず環境世界を変えなければ・・と考えてしまうものだ。

そのための文明の進歩やら、科学や経済の発展や、

手段としての銭、金、物ということなのだが、

そんな世間全体の当たり前とされる掛け声に盲従しつつ、頑張り続け、

その挙句は、社会を発展させ、地球という環境そのものを改善するどころか、

汚しに汚してしまったことの愚かさに・・気付くべき時が来ているのだ。


原因となる内面でなく、結果である外の環境を変えようとする「愚かさ」そのものが、

結果である外の世界を・・構築、改悪・破壊してしまうのである。

それはあたかも、

スクリーンの映像を変えるために、スクリーンそのものを掻きむしって、

映し出される事象を変えようとする・・愚かな行為なのである。


映し出される映像、無限の意識で投影される世界がいかに複雑であろうと、

それがバーチャル仮想世界、体感付きの3次元的感覚的映像と理解するならば、

その投影事象の原因たるシナリオ側、光源に乗せる情報、信念型、

自在に創れるフィルム、つまりマインド、こころを変えるべきなのは火を見るより明らかではないか?


現実とは・・それが・・意識の投影事象であるという”現実”であり、

現実的、物理的なものは、単に意識で知覚する対象に過ぎないということだ。

3次元とか第3密度とかいうカテゴリー世界は、

わたし”意識”という、高次の原因体が不在のまま据え置かれ、

意識の創り上げるその世界、どうしようもない物理的・物質的な世界、

そのなかで右往左往しているという状況は、

主人公としての魂・意識が、

この地球という世界に幽閉されているという表現にもなるのである。

そう言えば、あなたはいつからこの3次元的幽閉世界に入ったのだろうか?



意識によって知覚されるのが世界であって、

世界が意識を創るわけではない。

意識によって知覚されるのが肉体・環境であって、

肉体・環境が意識を創るのではない。


意識の展開する様を示すところの・・マインド・こころが、

あるいは無数の思い、イメージ、感情という想念の束、

それを魂などと呼んでいるが、

それが世界の無数の事象を知覚投影するのであって、

世界の無数の事象・現象が、意識、マインド・こころ、

あるいはそれらの集合系である魂を形創るのではない。


これを理解する人ならば、その人は・・

自分のマインド・こころを入れ替え、建て直すべき時ではないのか?

これは魂の進化などと言われるが、

意識・魂である自らに気づき、

そこから出てくるマインドを観察しながら・・入れ替え創造しつつ、

本来あるべきと”心底感じる”方向へと自らを表現、開化するべき時なのだ。


これは決して、3次元的まやかしである、

どでかい規模や物質的な成功の話ではなく、あるいはまた、

凝り固まった信念系にもとずく世界規模の戦争や世界崩壊の話でもなく、


それら世界、宇宙の投影事象を観ている・・

真のわたしへの気付きという・・大きな意識転換の話なのである。




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マインドの話(4)現実=意識的創造

2020-01-10 07:58:34 | 語り部の章
意識的存在である人間たちの世界は、

それぞれのマインドで創り上げている「幻影の集合体」である。

幻影といっても、あなたは既に十分知っているように、

実にリアルで質感・肉感を伴うバーチャル仮想現実・マインド劇場だ。


この世界が物質で出来ていて、何事も偶然に起きている等と茫然と考えているならば、

極めて大きな間違った想念の渦中にあることに気付かなければならない。

物質とは、自意識で勝手に自己表現しない波動のかたまり、

ある意味で、物的性質を帯びた精神構造物だと言ったほうが妥当なのである。

物質的とされる現代科学も、実際ここまで理解していることに気付けるだろう。

大勢の人がそうだそうだとシュプレヒコールを上げるのを待つ必要はない。


二次元平面でのCGや映画・ビデオ映像、音声も・・全て

人の思考・マインドが創り上げた微細な点滅の集合体であるように、


”あなたの”3次元的時空間、つまり周囲環境・世界・ひいては宇宙は、

あなたの”意識”が時空というステージの背面で創り上げている、

微細なエネルギー波動微子の集合体なのである。


創造とは・・・学校でやったり仕事でやったりしたように、

手で作ったり、念じて作ったり、加工して・・という創るではなく、


意識している・・そこに対象として浮かび上がらせている・・気付いていることが、

すでに創造しているという事なのである。


あなた、わたしの”意識”と言っても、

いまここに気付いている自意識・意識表面ではなく、

膨大な潜在意識としての”意識”のことである。

それを”宇宙意識”などと言っている。


だから、あなたは宇宙意識のただ中にあって、まったく”それそのもの”なのだが、

そうではないという観念、想念とその物質表現型の渦の中に居るために、

ほとんど全く気付かない・・・いや気付かなかったということだ。


”あなたの”3次元的時空間、つまり周囲環境・世界・ひいては宇宙は、

あなたの”意識”が時空というステージの背面で創り上げている、

微細なエネルギー波動微子の集合体なのである。


創造とは・・・学校でやったり仕事でやったりしたように、

手で作ったり、念じて作ったり、加工して・・という「創る」ではなく、


意識している・・そこに対象として自然に浮かび上がらせている・・気付いていることが、

すでに創造しているという事なのである。



そうであれば、誰でも思うはずだ・・、

「こんな非道多き世界など創った覚えはないが・・」

「私はこの創造された現実なるものは好まない・・」と、

さらに、

「もっとより良き世界が良いに決まっている・・」と想うものだ。

そうではないか?

それはもっともな心情であり、革命や世界変革、

ひいてはある種の人達にとってのアセンションなどの話も出てくるのだが、


実は・・ここにも想いの癖があることに気付けるだろうか。


それは例えば、映画の内容が気にくわないから変えてくれとか、

時空のスクリーン自体を掻き毟って何かを変えてしまおうとか、

自分が美しいと感じる物語を投影してもらいたいとか、

そういう風に願っているのかもしれないということだ。


いやいや、そうではなく・・・

あなたの意識で・・・投影されているのが、その幻影だということであり、

本質を言うならば、誰かがやるとか、皆で団体行動するとか、

地球環境がよりよく変わるとか、宇宙のシステムが今回変わるとか・・でなく、

何をどうしようとも、どう在ろうとも・・・・

あなたの意識・気付きに沿って出現しているのが、

あなたの世界なのだということを、

真に悟る必要があるということなのだ。


それぞれの世界、映し出される物質感・肉感を伴った世界幻影の

・・その光源は・・・

それぞれのわたし以外にない・・・ことを真に理解しなければなるまい。


それぞれの魂・意識の知覚する世界、

気付くこと・意識という光源に映し出される幻影・世界は・・、

それぞれの魂・意識の振動情報内容とでも言おうか、

瞬間瞬間の様々な経験と想いの集成によって、

形作られる想念の質によって映し出されること。

その魂の大きな仕組みのほうに気付かなければなるまい。


それが、・・本来皆々が・・創造の主であるという意味だ。



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