●マインドで創られた世界?
この世がバーチャル(仮想)世界であるということは、
その表現を変えて少し具体的に言えば、
わたしの世界は”わたしの心・マインド”で創られているということでもある。
あるいは身近な世界も宇宙も、マインド上の無限の構築物であるとも言えよう。
単純な事実を言えば、
人類の生活・文明のあらゆる物が、誰かのイメージ・設計・加工によって創られているし、
小説も人文科学も理科学も、工学も全て人間の思想と、すでに出来ている大自然の仕組みとのコラボレーション創造なのである。
自然にある物質が勝手に創造しているのではなく、人間の意識的活動の結果出現しているものである。
人類文明のあらゆる事物・歴史・物語は全て・・人類作・・想念の創りものなのである。
これらすべてが現実とされるならば、
現実とは、元は全て人間の思索・想いによって現れるものだ。
人の人生も全て、その人の発する想念、意識的な作り物であるという事だ。
何をどう考え行為してきたのか・・それが全てであり、外側の出来事・事象の影響も、
実際はアトラクション、あるいは触媒のようなもので、
それに対して、何をどう考え・行為してきたのかが全てなのである。
そのための人生であると言っても過言ではない。
●現実は幻影で、ただ法則があるのみ
全ては想念・マインドで創られている・・・、
これは何かの心理論のようだが、
実際は世界の創造の仕組みであり、これがいわば『現実』である。
「現実が・・現実が・・」と言っているのは、観ている”幻影”のこと。
あなたが暗い顔をして・・「この現実がネ・・」というのは”幻影”のことであり、
真の現実とは・・
それが意識的な投影現象・・マインドで創る幻影だという、
いわばその仕組み、法則の方である。それが「現実」なのである。
●仮想現実はマインドで創られる
それがバーチャル・仮想現実世界の”基本的な仕組み”なのだ。
実際、あなたの世界も、あなたのマインドで出来ているということだ。
あるいは、あなたの意識があるから、あなたの世界がある・・と同じ意味だ。
誤解が多いかもしれないが、
頭でちょいと考え、想起したイメージがすぐに実現するようなものではない。
もしそうであれば、特にこの世界は、ネガティブな事象で溢れてしまい、
世界の存続どころではないだろう。
●幻影でなく、”現実”を直視すべし
いわゆる”現実”?生活において、
例えば、あなたの人生が「不幸で苦悩だらけ」と感じているとしたら、
それは大勢の人々が愚かで、心狭く、あなたを認めない、優しくないのが原因なのではない。
それは誰のせいでもなく、単にあなたのマインドで創り上げている幻影のおかげなのである。
質感的・肉感的に現れ出ているからと言ってそれが「現実」とは限らない。
3次元的仮想世界とは、質量感を伴った・・幻想・・と言えばいいかもしれない。
●ありのまま見るとは
例えば、こういう人もいるに違いない・・、
自分が創っているって?
「いや、そんなことは無い! 実際に俺は”あいつに”やられたんだ!
あいつ以外に誰がいるもんか・・あいつの言動が無ければ、
俺がこんな怒りや侮辱や苦悩、苦痛を感じることは無かった、そうだろう?
ああ、間違いなく、奴が原因だ、絶対そうだ」・・と思うかもしれない。
でも良く見てみよう。
そもそも、それも、幻影世界での”出来事のこと”を言っていて、
実際に起きていることの表面しか見ていないという事に気づく必要がある。
ヤな奴がいて、何かが起きて、あなたはその影響で苦痛や怒りを感じている・・・、
ということが・・・”起きている”のだ。いや、起きているだけなのだ。
と、こう言えば、・・・
「ただ?・・起きているって?・・どうよ??」
「こんな大変なのにさ~・・」
「え?、それでは何かい、何でも無反応であればいいのかい?、へっ、(かなり下品?笑い)
それじゃまるでロボットじゃないか、何も感じないなんて・・出来るわけない!」
と反論するのはもっともながら、
いや、そうではなく、それらの沸き起こる感情やイメージを感じていながら、
同時に、どこかでそれを”観察しているか”ということだ。
あなたが人的、物理的事象という出来事に遭遇し、それに反応して色々な想いや感情が起きていることを・・・観察しているか?
観察者というと、鉄仮面のような非情な”傍観者”のような誤解があるものだが、
自分が、想念や感情の反応で創られる「物語」のその渦中にあることを、
観察している者、高次の意識、あるいは魂の・・視点があるか?ということだ。
わたしの魂、高次意識、ハイヤーセルフ等とも言われる高次の自己は、
どこか・・別の時空、宇宙、”場所”や”時間”にあるのではなく、
それぞれのわたしの内面・・いまここで、・・意識・存在の中にある。
●高次元へのシフトの意味
現象に巻き込まれて没我しているか、あるいはその渦中にありながら、
それらが起きている・・こと、場合によっては激しい想念や感情の起伏が起きる事に、
・・・・気付いている”次元”にいるか・・・ということだ。
これはある意味では、この地球上の支配的観念・信念による、
閉鎖マトリクスの網を超えているか?という事にもつながる。
観察、あるいは気付いていること自体、
つねにその事象より高次にあるということを理解可能だろうか。
いつもの例えだが、映画を観ている人に対して、
”あなたはその中に入り込んでいる主人公に感情移入しっぱなしなのか、
あるいはそれを鑑賞している観客としても気付いているか?”
と問うているようなものなのだ。
映画を観ること自体が、映画の仮想物語を楽しむためのものではあるが、
夢中になっている時にはその中に没我であると言っても良いはずだ。
映画の中にどっぷり入り込んでいる場合、あるいは熟睡して眠りこけている場合などでは、
これが映画だと言っても、聞く耳持たぬこともあるわけで、そうふいう人を目覚めぬ人々と言ってもいいだろうか。
スピリチュアルな教えで、気付きの深まりが最も大切などと言われるが、
”魂・意識”が高次へと変化するならば、変化の進捗・進化の割合に応じて、
魂・意識”のその知覚対象たる世界もまた、いわゆる高次へとシフトするのは自然である。
超単純に言えば、
感情や思考、想念に翻弄され、感情の不幸まみれで右往左往する状況から脱し、
逆にそれらを観察者の視点からコントロール出来るようになれば、
それだけより自由な境涯に至るということだ。
イエスが残したとされる言葉にこういうものがあったとか。
”わたしはこの世に居ながら、しかもこの世の者ではない”・・・と。
キリストの宇宙人説とか、本当はどこで生誕したとか、若い頃どこで修業したとか、
そういう諸説もあるわけだが、まるきり嘘ではないと思われるわけだが、
ことの本質はそういうところにあるのではなく、
自身の言明として、
わたしはこの世界に居ながら、この世界を超えているところの、
高次の存在(魂・意識)であるということを言っているように思われる。
あなたやわたしたちも同じだと想えるだろうか?
あなたが人的、物理的事象という出来事に遭遇し、
それに反応して色々な想いや感情が起きていることを・・・観察しているならば、
わたしたちは、この地球の体験場にいながら、それを超えている、
いわゆる高次の存在であることに気付いていることなのだ。
意識的存在である人間たちの世界は、それぞれのマインドで創り上げている幻影の集合体。
幻影といっても実にリアルで質感・肉感を伴うバーチャル仮想現実、マインド劇場だ。
世界が質感的・肉感的に現れ出ているからと言ってそれが「現実」とは限らない。
3次元的仮想世界とは、質量感を伴った・・幻想・・と言えばいいかもしれない。
そして、その幻影を観ている者は・・・誰なのか?