人間五十年、
下天のうちをくらぶれば、
ゆめまぼろしのごとくなり、
(人生とは短く、夢や幻のようなものだ。)
下天は夢か・・・
これは、津本陽の小説で、
戦国時代の有名な武将である、織田信長が舞う”敦盛”で謡われる歌詞だが、
これは戦に臨んでは死をも辞せずとする武士の気概や、
人生の岐路における、大きな観点での精神の鼓舞である・・とも言えるだろう。
歴史の付き物として、この物語が本当にあったかどうかは別として、
ある意味で、
生きる死ぬを超えた境涯に臨んだ場合の、
意識内面から湧き上がる”嘘のない”実感をあらわしたものといえよう。
あえてマインドの恐怖を超えてゆかねばならない、
武将の覚悟を謡ったものだともいえようか。
下天とは、無数の天界の内もっとも劣ったもの。
そう、あなたの今いる・・ここは下天だったということだ。
劣った夢の世界だという事も出来るだろう。
いや、素晴らしい世界だ、などという嘘は言うまい。
さらに、秀吉の辞世の句として残っているもの、
この世は夢だと喝破している。
辞世の句に、嘘など言うまい。
露とおち、
露と消えにしわが身かな、
難波(なにわ)のことも、
夢のまたゆめ
・・・
人生のはかなさと合わせて、
ここには”悟り”と同じ意識のベクトルを見ることができる。
・・・
あなたは・・なぜ?ここにいる?
わたしは誰?ここはどこ・?・・
その・・わたしの・・・知られていない・・者たちが住む世界、
そして、ここがどこなのか?も分からず、
無意識に生きては死ぬ・・輪廻の世界であった。
プログラムで言えば、バグによる無限ループにはまったようなものだ。
① LOOP1:○×△・・・
・・・・・
② IF ??,
THEN GO to LOOP1
IF(もし)・・ならば、loop1へ行け・・
これでは②から①へ戻るばかりであり、
これが簡単な無限ループである。
分岐点は・・IF(もし・・ならば)の問いかけだ!
無限ループの、その唯一・・の原因、
もし”〇〇”ならば・・、の、
その”〇〇”が問題なのである。
その〇〇とは、・・・
「わたしは・・〇〇である」 という自己認識である。
マインド、想念での・・自己規定だ。
例えば、わたしは死んで終わりの肉体だ・・という信念は、
それがたとえ、他者の受け売りであろうと、
信念としての固定プログラムとなって、
また再び・・わたしは肉体だ・・という形の生まれ方をするわけだ。
”I AM THAT I am”である。
でも、いつも、何も知らない大勢が居るので、
それで良いものとして過ごしてしまう。
あちらにぶつかり、こちらにたたかれ、
戦い、逃げ出し、殺し、殺され、
一時の平和かと思いきや、次から次へと悩みが続く、
そういうループ、繰り返しが起きてしまうのだ。
そう、他人でなく・・自らで・・、
気付くまで、悟るまで、目ざめるまで・・・。
これがこの地球という「時空物語」の本質であったかもしれない。
わたしは下天にいる・・ことに気付いている!事を知る。
さて、・・
この下天にいる、”わたし”とは・・何だろう?
この・・わたし・・が
夢を観ている根源なのであることに気付き、
その・・わたしとは・・何か? への
”気づき”に至る必要があるのだ。
何のために必要なのか?
悪い夢から覚めるためだ!
夢の世界も崩壊するし、終わりが来るもの。
その時期に気づかず知らず、眠り続けるのは、
再び、その夢の中の仮想時間、数万年の中をさ迷うようなものである。
時間・空間は仮想であることに”真に”気づけば、その夢は終わるのだ。
I AM THAT I AM.
わたしは・・わたしである・・それである。
言い換えれば、
わたしとは・・わたしが決める・・それ、
わたしは・・無限に・・わたしであることが出来るそれ。
下天の夢を観る前には、そこに創造主の当たり前の能力として、
何にでも自己同化する・・その前には、
それぞれのわたし・・は無限の意識の中に、
この小さな下天を観ていた。
そうではないか?
----
ニサルガダッタ・マハラジ(朗読)
覚者、夢から覚めた者だけが語ることのできる、
実に深い真実が、平易な言葉で語られている。
「わたしとは・・何か?」
I AM THAT・・!
下天のうちをくらぶれば、
ゆめまぼろしのごとくなり、
(人生とは短く、夢や幻のようなものだ。)
下天は夢か・・・
これは、津本陽の小説で、
戦国時代の有名な武将である、織田信長が舞う”敦盛”で謡われる歌詞だが、
これは戦に臨んでは死をも辞せずとする武士の気概や、
人生の岐路における、大きな観点での精神の鼓舞である・・とも言えるだろう。
歴史の付き物として、この物語が本当にあったかどうかは別として、
ある意味で、
生きる死ぬを超えた境涯に臨んだ場合の、
意識内面から湧き上がる”嘘のない”実感をあらわしたものといえよう。
あえてマインドの恐怖を超えてゆかねばならない、
武将の覚悟を謡ったものだともいえようか。
下天とは、無数の天界の内もっとも劣ったもの。
そう、あなたの今いる・・ここは下天だったということだ。
劣った夢の世界だという事も出来るだろう。
いや、素晴らしい世界だ、などという嘘は言うまい。
さらに、秀吉の辞世の句として残っているもの、
この世は夢だと喝破している。
辞世の句に、嘘など言うまい。
露とおち、
露と消えにしわが身かな、
難波(なにわ)のことも、
夢のまたゆめ
・・・
人生のはかなさと合わせて、
ここには”悟り”と同じ意識のベクトルを見ることができる。
・・・
あなたは・・なぜ?ここにいる?
わたしは誰?ここはどこ・?・・
その・・わたしの・・・知られていない・・者たちが住む世界、
そして、ここがどこなのか?も分からず、
無意識に生きては死ぬ・・輪廻の世界であった。
プログラムで言えば、バグによる無限ループにはまったようなものだ。
① LOOP1:○×△・・・
・・・・・
② IF ??,
THEN GO to LOOP1
IF(もし)・・ならば、loop1へ行け・・
これでは②から①へ戻るばかりであり、
これが簡単な無限ループである。
分岐点は・・IF(もし・・ならば)の問いかけだ!
無限ループの、その唯一・・の原因、
もし”〇〇”ならば・・、の、
その”〇〇”が問題なのである。
その〇〇とは、・・・
「わたしは・・〇〇である」 という自己認識である。
マインド、想念での・・自己規定だ。
例えば、わたしは死んで終わりの肉体だ・・という信念は、
それがたとえ、他者の受け売りであろうと、
信念としての固定プログラムとなって、
また再び・・わたしは肉体だ・・という形の生まれ方をするわけだ。
”I AM THAT I am”である。
でも、いつも、何も知らない大勢が居るので、
それで良いものとして過ごしてしまう。
あちらにぶつかり、こちらにたたかれ、
戦い、逃げ出し、殺し、殺され、
一時の平和かと思いきや、次から次へと悩みが続く、
そういうループ、繰り返しが起きてしまうのだ。
そう、他人でなく・・自らで・・、
気付くまで、悟るまで、目ざめるまで・・・。
これがこの地球という「時空物語」の本質であったかもしれない。
わたしは下天にいる・・ことに気付いている!事を知る。
さて、・・
この下天にいる、”わたし”とは・・何だろう?
この・・わたし・・が
夢を観ている根源なのであることに気付き、
その・・わたしとは・・何か? への
”気づき”に至る必要があるのだ。
何のために必要なのか?
悪い夢から覚めるためだ!
夢の世界も崩壊するし、終わりが来るもの。
その時期に気づかず知らず、眠り続けるのは、
再び、その夢の中の仮想時間、数万年の中をさ迷うようなものである。
時間・空間は仮想であることに”真に”気づけば、その夢は終わるのだ。
I AM THAT I AM.
わたしは・・わたしである・・それである。
言い換えれば、
わたしとは・・わたしが決める・・それ、
わたしは・・無限に・・わたしであることが出来るそれ。
下天の夢を観る前には、そこに創造主の当たり前の能力として、
何にでも自己同化する・・その前には、
それぞれのわたし・・は無限の意識の中に、
この小さな下天を観ていた。
そうではないか?
----
ニサルガダッタ・マハラジ(朗読)
覚者、夢から覚めた者だけが語ることのできる、
実に深い真実が、平易な言葉で語られている。
「わたしとは・・何か?」
I AM THAT・・!