気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

時空物語(20)下天は夢・幻(まぼろし)である

2018-05-28 05:46:36 | 真我実現シリーズ
人間五十年、
下天のうちをくらぶれば、
ゆめまぼろしのごとくなり、


(人生とは短く、夢や幻のようなものだ。)

下天は夢か・・・
これは、津本陽の小説で、
戦国時代の有名な武将である、織田信長が舞う”敦盛”で謡われる歌詞だが、
これは戦に臨んでは死をも辞せずとする武士の気概や、
人生の岐路における、大きな観点での精神の鼓舞である・・とも言えるだろう。

歴史の付き物として、この物語が本当にあったかどうかは別として、
ある意味で、
生きる死ぬを超えた境涯に臨んだ場合の、
意識内面から湧き上がる”嘘のない”実感をあらわしたものといえよう。
あえてマインドの恐怖を超えてゆかねばならない、
武将の覚悟を謡ったものだともいえようか。



下天とは、無数の天界の内もっとも劣ったもの。
そう、あなたの今いる・・ここは下天だったということだ。
劣った夢の世界だという事も出来るだろう。
いや、素晴らしい世界だ、などという嘘は言うまい。

さらに、秀吉の辞世の句として残っているもの、
この世は夢だと喝破している。
辞世の句に、嘘など言うまい。



露とおち、
露と消えにしわが身かな、
難波(なにわ)のことも、
夢のまたゆめ

・・・
人生のはかなさと合わせて、
ここには”悟り”と同じ意識のベクトルを見ることができる。
・・・

あなたは・・なぜ?ここにいる?
わたしは誰?ここはどこ・?・・
その・・わたしの・・・知られていない・・者たちが住む世界、
そして、ここがどこなのか?も分からず、
無意識に生きては死ぬ・・輪廻の世界であった。
プログラムで言えば、バグによる無限ループにはまったようなものだ。


① LOOP1:○×△・・・
     ・・・・・
②   IF ??,
     THEN GO to LOOP1

IF(もし)・・ならば、loop1へ行け・・

これでは②から①へ戻るばかりであり、
これが簡単な無限ループである。

分岐点は・・IF(もし・・ならば)の問いかけだ!

無限ループの、その唯一・・の原因、
もし”〇〇”ならば・・、の、
その”〇〇”が問題なのである。

その〇〇とは、・・・


「わたしは・・〇〇である」 という自己認識である。

マインド、想念での・・自己規定だ。
例えば、わたしは死んで終わりの肉体だ・・という信念は、
それがたとえ、他者の受け売りであろうと、
信念としての固定プログラムとなって、

また再び・・わたしは肉体だ・・という形の生まれ方をするわけだ。

”I AM THAT I am”である。

でも、いつも、何も知らない大勢が居るので、
それで良いものとして過ごしてしまう。
あちらにぶつかり、こちらにたたかれ、
戦い、逃げ出し、殺し、殺され、
一時の平和かと思いきや、次から次へと悩みが続く、

そういうループ、繰り返しが起きてしまうのだ。

そう、他人でなく・・自らで・・、
気付くまで、悟るまで、目ざめるまで・・・。

これがこの地球という「時空物語」の本質であったかもしれない。



わたしは下天にいる・・ことに気付いている!事を知る。
さて、・・
この下天にいる、”わたし”とは・・何だろう?

この・・わたし・・が
夢を観ている根源なのであることに気付き、
その・・わたしとは・・何か? への
”気づき”に至る必要があるのだ。


何のために必要なのか?

悪い夢から覚めるためだ!

夢の世界も崩壊するし、終わりが来るもの。
その時期に気づかず知らず、眠り続けるのは、
再び、その夢の中の仮想時間、数万年の中をさ迷うようなものである。

時間・空間は仮想であることに”真に”気づけば、その夢は終わるのだ。


I AM THAT I AM.
わたしは・・わたしである・・それである。

言い換えれば、
わたしとは・・わたしが決める・・それ、
わたしは・・無限に・・わたしであることが出来るそれ。

下天の夢を観る前には、そこに創造主の当たり前の能力として、
何にでも自己同化する・・その前には、



それぞれのわたし・・は無限の意識の中に、
この小さな下天を観ていた。

そうではないか?



----



ニサルガダッタ・マハラジ(朗読)
覚者、夢から覚めた者だけが語ることのできる、
実に深い真実が、平易な言葉で語られている。

「わたしとは・・何か?」
I AM THAT・・!


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時空物語(19) 地球という夢

2018-05-26 05:32:53 | 真我実現シリーズ
我々が「現実だ」と信じているこの世界、周囲の出来事、人生は、
実際には・・・”夢の範疇”での経験である。

コンピュータグラフィックでの仮想世界はバーチャル・リアリティなどと呼ばれ、
それはバーチャル(仮想)な・・リアリティ(現実性)とされるものだ。
実によく出来ている・・”現実”と見間違うほどの・・仮想世界。

実際に、仮想現実映像を見ることができるゴーグルをつけて、
その映像世界に慣れてしまうと、それが仮想(うそ・作り物)であるということよりも、
その”迫真的な現実感”が・・仮想から現実的な感覚になってしまい、
ゴーグルの映し出す映像や音声の物語に”マジに”なってくるわけだ。

それが”仮想・嘘・作り物”であると「頭で」知っていても、
五感の1部である視覚・聴覚だけであっても、
それがあたかも現実のように自分に迫ってくる。



・・・
例えばあなたは寝ているときに「夢」を見るだろう。
その夢も全く同じようなものであることは知っているだろう。

夢の時に、その夢を現実として・・とらえていることを。
何者かに追われて、必死になって逃れる夢だとか、
その多くが意味不明なストーリーの中で、
いろいろな人と何かをしている夢とか、もうさまざまな夢を見るわけだが、

夢を見ている・・その時に・・これは夢だから「へへっ」とは思っていないし、
適当にその夢を楽しむ・・?そんな余裕なんかないはずである。
そうではないか?


あなたも多分、何か恐ろし気なモノに追いかけられ、
それから必死に逃げる恐怖でもうドン図まりまで行ってしまい・・・、
布団の上にいる自分に「気づき」、ホッと胸をなでおろしたことが、
何度もあるはずである。
「おおおー!あー、あれは夢だったか」・・笑。
不思議にも、そういう時には、
目覚めた後のいつもの現実がいかにありがたいことか。

悪夢でもう必死になって逃れる夢よりは、
どこか苦心惨憺たる「現実生活」のほうがいかに心地よいか・・、
そういうことにもなるはずだ。(大笑)




ところが、その「現実」というもの、
つまり生きている間に続いている、
いつもの生活、経済状況、社会情勢、私個人と他人との関係性も、

一種の 「夢」のようなものであることに気づけるだろう。

いわゆる夢も、現実とされる生活も・・・どちらも、
あなたの見ているものなのである。
いや正確に言えば・・「観ている」ものである。
つまり「観察」しているものである。

観察といえば、どこか冷めた観察・・という概念イメージがあるが、

肉体の五感の知覚、
・・見る・聞く・嗅ぐ・味わう・触れるという五感で
様々な事象を”知覚”し、色々と”思いめぐらす”ことである。
そう、それを観察というならば、
これはつまり”今現実に生きていること”そのものなのである。

いわゆる夢も、現実とされる生活も・・・どちらも、
あなたの見ているものなのである。
いや正確に言えば・・「観ている」ものである。
観察・・観て・・思いめぐらす・・こと。

夢も、いわゆる「現実」も・・同じ・・なのである。

ただ、普通でいう「夢」は意識内面での直接観察であり、
「現実」とされるものは、
知覚器官である肉体の五感が強く介在している・・
という違いなのであるが、どちらも観察なのだ。

観て・・思い巡らす・・こと。
違うだろうか?

そのどちらにも共通なのは何だろうか?といえば、
どちらも”「観る」”ものだということだ。

観ることは意識的なものであり、
意識すること、気づきが背後に存在するのである。

ところがこのタイプの世界では、
「私は肉体だ」・・という自己認識感覚が強烈で、
肉体感覚があまりにも重要視されているために、

現実とは、”変えようのない”現実だし、
夢のほうは仮想でいい加減なものだと、思っているわけである。
だから日夜、現実のために頑張っている・・というわけなのだ。



ところが、覚者・聖者・悟った者たちが言うように、

実際には・・、夢も現実も・・「夢」に過ぎないのだ。
現実が・・現実が・・というそれも、一種の「夢」なのである。

その一種の夢の特殊なところは、
肉体というものが重要視される「夢」の世界であり、
肉体の苦痛・快楽と・・その存続を後生大事にしている「夢」の世界だ。

そのために多くの人々(魂たち)が右往左往、苦心惨憺、支配・従属を繰り返してきた。
それがこの「地球の」夢の物語である。

大勢の眠っていた者たちは・・・つまり、
あなたやわたし、君や僕・・、
夢を・・夢として自覚できない大勢の仲間たち・・

現実が!・・現実が”・・と、
外側社会から吹聴する尤もらしい・・嘘の観念の流れの中で、
肉体保持のために動き回ることを頑なに信じている者たちの中で、
生きては死ぬことを繰り返した来たのである。


あの人がああだ、こうだ、この人は間違いだ、いや正しい・・、
この世界は誰かがきっといつか改善する、助けてくれる、
科学者が、救世主が、どこかの大統領が・・
いつか世界を良くするだろう・・。
・・・
どこか悪夢のような・・いわゆる現実・・という一種の夢、
地球という夢の物語・・
その夢の中で必死になって何かの真実を探し求めるわけだ。

いったい誰が・・その夢を観ているのか?・・・
それぞれ・・・わたし・・以外にない。
・・

肝心なのは、
映画の画像を変えようと、
投影されるスクリーンをガリガリかきむしるのではなく、
つまり、
夢の中で何をどうのこうのではなく、

夢を、夢だと・・・気づく・・ことである。


”誰が”・・・!  気づくのか?

夢を観るのは誰か?と言えば、

そう・・わたし・・・以外にはない。




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時空物語(18)意識・根源からの波動

2018-05-12 05:50:33 | 真我実現シリーズ
瞑想している意識は、
無限の母体である空(くう)に生じる、
あらゆる波動形態の観察行為者、
観照者意識であるともいえようか。

すべては・・自己に内包している・・と気づいている、
創造の元、根源意識、無限の知性・・の在り方と同質である。



意識は計測・勘定・物量測定できる代物ではない。

意識においては、1+1=2ではなく、
ひとつひとつはすべてであり・・また全ては一つだ。

意識はすべてを内包する、これを別表現でいえば、

<わたし>という意識の中には、
わたしが観察するすべて、周囲空間、宇宙までも含まれる。
そういうことなのだ。

<わたし>が今見ているすべては、拡大した<わたし>である、とも言えようか。
肉体の私は・・その観察対象に含まれているのだ。

確かに、物質といわれる物としての質、
原子、分子、細胞、結晶、物質・・
波動の局所的集積、パケット(塊)は1こ2個と計測もできるが、
その背後にある極微、無数の”複合波動”は計測できない。

あなたが見ているパソコン、スマホは波動情報なのであるが、
それ自体は物のように数えることはできない。
しかしながら、端末映像として目に見える形を表している。

技術的には、それらは周波数と情報量で表されるが、
つまりそれもエネルギー振動・波動なのである。

観察行為が、存在としての波動を崩壊させ、
物質粒子としての形を”観測対象”として認識する。


・・というのが科学的、量子力学的結論であるが、

これは我々とは無関係のミクロの話ではなく、
いま、ここそこ、あなた自身、その周囲のすべてのことなのだ。

補足すれば、

意識の働きである、観察行為が、
存在としての波動を崩壊させ、
物質粒子としての形を”観測対象”として認識する。

認識すると”同時に”・・それによって、対象が出現する。
つねに・今・同時なので、
対象物、その集合である「世界」が、
元々・・あるように、--”錯覚”--しているのだ!

気付けるだろうか?
人生の中で、よく吟味、熟考すべき最重要な事柄である。


さて、この世のマクロな動きを見るならば、

世界のどこかの誰かの思いや欲望、
歪んだ汚れを追いかけ、暴き、
あるいは精神汚染を振りまく時期は終わったようである。

意識の、あるレベルの派生である、思考・想念、
あるいは主義主張が、様々な文明の具象化を促してきたが、
このレベルで集積された人類の想念の、
その汚れと其の具象化はすでに飽和し、そのプロセスの役目を終え、
潔く取捨、浄化せねばならないその時期に来たようである。

いまここの人類の舞台、地球の生態系は、
今までとは違う事象、つまり様々な「異変」を通じて、
その意図を明らかにし始めていることに気づけるだろう。

地震、異常気象、火山噴火、
それらにどこか影響された、世界の権力同士の焦りと諍いも、
今まさに、それを示している。
それらは波打ちながも、ある時空点において、
その終焉をみせるだろう。

そのような事も、
「怖い怖い、この先どうなってしまうのか?」のレベルではなく、
観察対象たる世界に何が起きているのか・・、そして、
それを観る者のマインドに、何が起きているのか・・に
気づくべき時であるという事だ。

映画がどう始まり終わるのかよりも、
投影された世界を観ている者は・・誰かが重要ではないか?

我々が世界にある・・ということは、
意識の働きである、観察行為が、
存在としての波動を崩壊させ、
物質粒子としての形を”観測対象”として認識すること、
いうならば、そうやって、

世界という一種のイルージョンを見ているのである。
見る、というより、身体とマインド経由での観察といったほうが良い。

観察すると”同時に”・・それによって、対象が出現する。
”常に・今・同時”なので、
対象物やその集合である「世界」が、
元々・・あるように、--”錯覚”--しているのだ!

常に・・今しかない・・と言われることを、
真に知っている者は、これを理解している。

世界は、マインドで投影されている、ということ。

これが理解できるならば、
例えば、あらゆるスピリチュアルな話も、
簡単に腑に落ちることになるだろう。

安直な唯心論、あるいは唯物論でもない。
主義主張という想念形でもない、
論ではなく、存在が・・まんま実証、検証であり、
今在ること・・そのもの・・だ。

わたしの存在が・・それ・・そのもの・・である。
「えー?何?」と考えては、尋ねてはならないのは、
わたしは「思考」ではなく、在ること・・だからだ。

あらゆるすべては意識、マインド・こころの中にある。
あなたが観ているすべて、見える宇宙もすべて、
あなたの中にある・・・!

マインド、こころとは、意識の働きである。

そしてそれをも観察する、観照する・・者だ、

わたしは・・それを含み、超えている・・それだ。


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時空物語(17)観照者意識

2018-05-06 05:52:59 | 真我実現シリーズ
瞑想という行為は、
肉体をバタバタ動かし、
また思考をあれこれ巡らせることではない。

それらへの意識の焦点を停止させ、
観念や五感といった外側の波動域から、
意識を自由にする行為であると言えよう。

すべてを癒すところの眠りと同じようなものだが、
眠りのような無垢、無意識ではなく、
そこには静けさに対する「気づき」が目覚めている。

あらゆる物事、思考、感情、記憶、体感も含め、
それらを生起するところの、原因・あるいは背後に気付く、
意識的観察行為であるとも言えよう。

後ろの正面は、誰か?

瞑想している意識は、
無限の母体である空(くう)に生じる、
あらゆる波動形態の観察行為者、
観照者意識であるともいえようか。

それは、また
どうして空(くう)から、あらゆるすべてが生じているのか、
摩訶不思議な・・根源の見えない意図に気づくことでもあり、

存在諸形態、思考、感情、イメージという
無数のレベルの波動を一望に観る視座への移行、
色即是空、空即是色を観照している「・・在る」へのシフトである。

・・・

身体が、たとえ、
アメリカ行こうと、宇宙のどこかに行こうと、月の裏側に行こうと、
何も変わらず・・常に<わたし・意識>がある。

幼少期、青年期、成人して社会で歳をとる経過であってさえ、
常に・・・変わらず・・在るのは<わたし>であった。
意識している・・わたし・・は変わらず在る。
そうではないか?

例えば、
10代の頃に鏡に映ったあなたの姿の記憶と、
今の姿は随分と変わっているわけだが、
常に・・変わらずあるのは・・それを観ている内なる者なのだ。

それを・・・わたし・・と名づけるならば、

常に在るのは・・・<わたし>だった。
そう、
場所や時間、「時空」自体は・・<わたし>の内にあるということだ。
もちろん、毎日の夢見も意識内面の展開にほかならない。

目覚めた後の世界も、表面意識だけでは到底理解不能ながら、
複雑な意識内面の・・外への展開なのである。

・・・
不変なる者は、変化する物の中にはいない。

<わたし>の肉体も、高次の思考、マインドさえも、
<わたし>の内側にある!

人生とは・・それに気づくためだ。


瞑想あるいは黙想、静寂に在ることは、
その気づきの意図を示した意識的行為である。


ある意味で、この世界の特徴ともいえる、
汚染された観念のマトリクスからの離脱だ。
本来の自由な意識を縛られた、輪廻からの卒業でもある。

・・・
瞑想という行為は、
肉体をバタバタ動かし、
また思考をあれこれ巡らせることではない。

それは、
<わたしの世界>が立ち現れている・・
その全ての原因である、<わたし>に気付く行為、
「根源」に帰還する為の、意識的行為のことである。


宇宙があるから・・わたし個人がある・・、
ではなく、
<わたし>があるから・・肉体・身体があり、・・宇宙がある。

わたしは偶然出現した宇宙の中の微小な肉体個人である。
そう、思い、そう信じ込まされ、それに迎合し、
その中で、いつかどこか安住を見いだそうとする、
そう、
取るに足らない、微小な泡にも満たない<自分>が、
あれこれ画策しつつ、どこか無限を追い求めている姿にこそ
・・その矛盾がある。

わたし・・を、
”思考する微細な細胞・物質の一片の固まり”と信じ込んでいるからこその、
その矛盾である!

わたしは偶然出現した宇宙の中の微小な肉体個人である。
そういう支配的な観念は、

時空と言う投影像、映画のスクリーンを観て、
それが真実だと思うことと同じであり、
背後にある、それを観ている者を忘れている状況に似ている。

思考、感情、行為の無限にも思える集合が、
この世界を創り上げている。
この世界、地球、それから関連づけられ存在する宇宙だ。

それらはすべて、あなたを中心とした「時空物語」である。


科学的な説明では、
時空の構成要素は、微小な素粒子、あるいは光子とされ、
あるいは振動するエネルギーであり、
それらの無限小から無限大までの組み合わせが、
この物質宇宙とされているわけだが、

これが、空(くう)と言う多次元スクリーンに、
存在宇宙として描き出されているということ。

物質宇宙があって、その中に出現・消滅する肉体・・は確かに物質形だ。
無限に行われている、分子、原子、細胞の活動を、
そうだと・・観察できるし、認識もできるからだ。
TVでも科学書でも、皆そういう前提でわいわい話をしている。

で、そう観察している・・のは・・誰なのか?
そうだ、そうだと言っているのは、つまり思っている、
認識しているのは・・誰なのか?

それを<観ている者>は、その投影像の中には居ない。
観察者は・・観察対象物そのものではないからだ。




そして、あなたはそれを”観ている者”。

この単純、身近極まりない事実を何千年も素通りすることは、
無意識的、脅迫的に繰り返される輪廻転生を経験することに等しく、
それがまた、無限者が有限の中に閉じこもって自己を忘れるという、
この次元世界の特徴と言えよう。

今もなお、多くの人々は、
世界や宇宙が在って、そこに肉体として生まれてきたと、
漠然とかつ執拗に、親や周囲の者から教えられ、
「いや、それはそうだよね」と、
いつか納得して、わたしは<肉体個人である>と思っているだろうか。

しかしながら、
それは・・本末転倒、主客逆転、天地さかさまであったこと、
全くそうではなかったことに気づけるだろうか?

ま、まさか!・・(笑)と、びっくり・ひっくり返るだろうか。
内と外が「反転」する・・とはそういうものだ。

今はもう、地球というこの時空舞台にあっても、
この単純、身近極まりない事実に気付くための時空物語を、
何千年も素通りしつつ、無意識的、脅迫的に繰り返される輪廻転生を、
そろそろ卒業するサイクル期間の終わりに来ていることに気づけるだろうか。

そう、

ひょっとして、地球が多次元的な転換、
グレンとひっくり返る前に、
意識転換すべきなのは、それぞれの<わたし>なのである。



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時空物語(16)なぜ瞑想は必須か? その3

2018-05-04 08:41:19 | 真我実現シリーズ
瞑想とは何かといえば、目を瞑り静かに想いを観ることである。
当然ながら、「想いを観る」のは肉眼ではなく、「意識」である。

目をつむり静かに在ることで、
五感の感覚刺激そのものが減少するため、
そこでクローズアップされるのは、外からではなく”内なる感覚”である。

視覚は五感の情報の大体8割も占めているため、
目をつむることでも、かなり静けさが得られるのだ。

ただ静かに(座って)いる・・、
そこでは何も見えず、多く物音も聞こえず、
ただざわついた内面の「意識」があるだろう。

このざわついたマインドを根気よく見つめること、
このシンプルで、一見何の価値もないような意識的行為こそ、
内面にあるマインド・こころの歪を解きほぐし、
歪みを解消しつつ、真の幸福感を拡大するための、
人にとって最も重要な「行為」である。




次から次へと湧き出してくる想念の束、
内面に潜んでいる様々な歪を見い出し、解放するまでは、

意識内面から外側への展開は大きく変化はしないだろう。
カルマ、あるいは不都合な輪廻の輪の中かもしれない。
また、これは恩寵でもあり、また停滞でもある。

しかしながら
不都合な、あるいは不幸と感じる人生は、
誰でも嫌だと感じるように、
いつまでも環境と人生の奴隷であり続けることもまた苦痛なものである。
そうではないか?

もっとも、今のこの時空世界では、
物質的充足や富、名誉、権力こそが幸福の要因であると考え、行為し
それが全く違うという完全な理解にまで至らない限り、
外側の世界、五感や肉体感覚あるいは自我欲を追いかけまわすことにもなる。

みんなと同じ、いや皆の上に行くことが目的・意欲と化し、
この世的欲望というマインドエネルギーによる
輪廻転生を繰り返し、何度も崖下に落とされる体験自体が、
恨みやリベンジ、それを上回る欲望という更なる糧になるのではなく、
それが真に空しいことであると、
心底悟る・・その気づきに至るまでのことであろうか。

外の世界、この時空物語の意味や真髄を悟るためには、
それを生み出すところの、内側の意識を探求しなければならない。


わたしはどうして生まれたんだろう?
人生とはどういう意味があるのだろう?
死んだらどうなるのか?
わたしはどこからきてどこに行くのだろう?
真実はどこにあるのだろう?
本当のしあわせとは何だろう?


若いころには誰でもよぎった、
そういう肝心な問いを、忘れていたのではないのか?


マインド、こころとは、
精神、想念などと名付けられた「波動」である。
あれを思い、これを感じる・・ように、
その内面の波動の中にはさらに、無数の波動情報が含まれている。

今のマインド?・・何か?別に・・?
何もないではないか・・、こころがどうしたの?・・
という刹那的マインドの表層の反応にごまかされ、
自らの内面視の重要性になかなか気付かず、
また自己観察も持続しない人も多いかも知れないが、

実のところは、
観ようとしないために、何もないように見えるだけなのである。
気付こうとしなければ、決して何も現れないのが、
この意識的宇宙の仕組みなのだ。

しかしながら、
一見なにも無さそうな心模様のなかには、
無数の重い波動情報あるいは記憶が潜んでいて、
それがいやいや再生されている場合が多いことに気付く必要があるのだ。

見えない観念のひずみ、あるいは無意識の意図によって、
あなたの「時空物語」が再生されるというわけなのである。

毎朝目が覚めなければ世界が現れないように、
生まれるという、意識の目覚めを通じなければ、
人生が立ち現れないように、

「意識」がなければ、それに気づく対象たる世界は現れない。
あるいは「意識」と同時に、世界は現れるのである。
そして、どのように表れてくるのか?
・・それはマインド・心模様のごとく・・なのである。

I AM THAT I AM.

「おおー、なんと嬉しいことだろうかか・・」という幸福感も、
あるいは、
「ああ、なぜ、どうして、こうなのか!」と嘆く場合であっても、
その答えは外の世界にも、どこか遥かの宇宙にもありはしない。

在るのは、ただ・・いま・・だけだ。

そうだ、マインドが、
それぞれの人生、あるいは時空物語のストーリー作者なのである。
生まれて死ぬことも、マインドの作る時空物語だ。

そして、
瞑想とは、それに深く気づく直接的行為である。

夢を見て覚えていることも含め、
瞑想をして内面を観察することは、
この人生のみならず、幾多の生によって、
マインド・こころに刻み込まれた記憶、想念を顧みることだ。

それはある意味、
何が何だかわからない幼年期からの卒業でもある。


瞑想とは何かといえば、目を瞑り静かに想いを観ることである。
当然ながら、意識の派生である「想い」を観るのは、
より深いところから発する「普遍意識」である。


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