多くの魂、つまり創造の根源から発したそれは、根源の片割れとしての自己創造原理によって、
自らを何かに成りきることが可能ということだ。
全てである”普遍的意識”は、当然ながら個別の”意識”でもあること、
また個別意識は、意識においてすべてである普遍意識とイクオールでもある。
一は多であり、多は一であるという表現で意味するものだ。
さらに、何かで在ろうとする意識は、(われ・在り)
わたしはあれだ・これだという「自己表現形式」を描き出す。
3次元的な世界では、この肉体である。
そして、自らが存在・創造の源であるため、それに成りきる・・、
それが肉体であるがゆえに、自らを・・肉体自我に閉じ込める。
地球という時空物語にいる・・それぞれの”わたし”の姿である。
例えば、今あなたは”ほぼ”、自分をそれとしているだろう。
大勢の他者と同じく、それを維持するために頑張っているだろう。
仕事が、子供が、お付き合いが、収入が・・、と、
悩みながらも、喜々としているはずである。
肉体生は有限で儚いものだと知りながら、
合わせて自分は有限で儚いものだと知りながら、
それを忘れて目先の事に、危機、喜々として対処した生活だろう。
自らの意識の中心に巻き起こった渦が、
自らの無限性を知ろうとして、
未知なる外側に展開してゆき、それが様々な次元を創り上げる。
そして、我あり・・わたしは在る・・の周囲に、
多次元的な様々なボディーを形成するのだ。
多次元的なボディーの象徴がチャクラと呼ばれる霊的中枢である。
魂の多次元構造(ボディ)の最も遠い側にあるのが、肉体ということだ。
そして、次元の低い世界、あるいは辺境世界・・では、
自らでまとった身体のその外皮を”自分”であると想起している。
肉体は実に知覚しやすく身近なものであるため、
いつの間にか”自己自身”であると---思い「込み」、
その思い込み、想念の形が固定化され、
そのため、”肉体である自己自身”を繰り返し”体現”するのだ。
固定化された想念による輪廻転生である。
肉体自我は窓枠の小さい・・顕在意識だけのため、
それが何が何だか分からずも、
無限の叡智を宿す潜在意識によって、
生れては死ぬプロセスを通過し、
、
様々な時空の、時代の、環境の・・・
つまり如何様にもなる舞台設定のただ中に、自らを出現させるのだ。
この世界では・・生まれる・・という。
(この絵の意味することは、コウノトリを象徴する無限の叡智が、
赤子と言う無知なる肉体自我を陰ながら完全にケアをしている・・とも言えるだろうか)
また生れたその世界が、
魂の多次元構造のボディの最も外側、
物質・肉体の波動だけに特化されているならば、
多次元的な波動には気付くことなく、
ほぼほぼ無視されてしまうがゆえに、
魂の高次の波動、そこには別の生の記憶も含まれるが、
それにアクセスすることをやめてしまうということである。
つまり、
多くの場合、いわゆる過去世の記憶など思い出せないということだ。
あるいはまた、それを思い出すような世界であれば、
3次元的物質偏重世界では無くなるわけで、
不可思議な何かの多次元宇宙的な摂理のようなものがあり、
あくまでも何も知らない、偶然生まれては死ぬだけの、
肉体自我の刹那の世界が続いていたのだろう。
そう、いままでは。
---
わたしは誰か?
I AM THAT ”・・・・”
自らを何かに成りきることが可能ということだ。
全てである”普遍的意識”は、当然ながら個別の”意識”でもあること、
また個別意識は、意識においてすべてである普遍意識とイクオールでもある。
一は多であり、多は一であるという表現で意味するものだ。
さらに、何かで在ろうとする意識は、(われ・在り)
わたしはあれだ・これだという「自己表現形式」を描き出す。
3次元的な世界では、この肉体である。
そして、自らが存在・創造の源であるため、それに成りきる・・、
それが肉体であるがゆえに、自らを・・肉体自我に閉じ込める。
地球という時空物語にいる・・それぞれの”わたし”の姿である。
例えば、今あなたは”ほぼ”、自分をそれとしているだろう。
大勢の他者と同じく、それを維持するために頑張っているだろう。
仕事が、子供が、お付き合いが、収入が・・、と、
悩みながらも、喜々としているはずである。
肉体生は有限で儚いものだと知りながら、
合わせて自分は有限で儚いものだと知りながら、
それを忘れて目先の事に、危機、喜々として対処した生活だろう。
自らの意識の中心に巻き起こった渦が、
自らの無限性を知ろうとして、
未知なる外側に展開してゆき、それが様々な次元を創り上げる。
そして、我あり・・わたしは在る・・の周囲に、
多次元的な様々なボディーを形成するのだ。
多次元的なボディーの象徴がチャクラと呼ばれる霊的中枢である。
魂の多次元構造(ボディ)の最も遠い側にあるのが、肉体ということだ。
そして、次元の低い世界、あるいは辺境世界・・では、
自らでまとった身体のその外皮を”自分”であると想起している。
肉体は実に知覚しやすく身近なものであるため、
いつの間にか”自己自身”であると---思い「込み」、
その思い込み、想念の形が固定化され、
そのため、”肉体である自己自身”を繰り返し”体現”するのだ。
固定化された想念による輪廻転生である。
肉体自我は窓枠の小さい・・顕在意識だけのため、
それが何が何だか分からずも、
無限の叡智を宿す潜在意識によって、
生れては死ぬプロセスを通過し、
、
様々な時空の、時代の、環境の・・・
つまり如何様にもなる舞台設定のただ中に、自らを出現させるのだ。
この世界では・・生まれる・・という。
(この絵の意味することは、コウノトリを象徴する無限の叡智が、
赤子と言う無知なる肉体自我を陰ながら完全にケアをしている・・とも言えるだろうか)
また生れたその世界が、
魂の多次元構造のボディの最も外側、
物質・肉体の波動だけに特化されているならば、
多次元的な波動には気付くことなく、
ほぼほぼ無視されてしまうがゆえに、
魂の高次の波動、そこには別の生の記憶も含まれるが、
それにアクセスすることをやめてしまうということである。
つまり、
多くの場合、いわゆる過去世の記憶など思い出せないということだ。
あるいはまた、それを思い出すような世界であれば、
3次元的物質偏重世界では無くなるわけで、
不可思議な何かの多次元宇宙的な摂理のようなものがあり、
あくまでも何も知らない、偶然生まれては死ぬだけの、
肉体自我の刹那の世界が続いていたのだろう。
そう、いままでは。
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わたしは誰か?
I AM THAT ”・・・・”