気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

時空超えた物語(1)生死は肉体の脱着

2018-06-25 07:09:10 | 真我実現シリーズ
多くの魂、つまり創造の根源から発したそれは、根源の片割れとしての自己創造原理によって、
自らを何かに成りきることが可能ということだ。

全てである”普遍的意識”は、当然ながら個別の”意識”でもあること、
また個別意識は、意識においてすべてである普遍意識とイクオールでもある。
一は多であり、多は一であるという表現で意味するものだ。

さらに、何かで在ろうとする意識は、(われ・在り)
わたしはあれだ・これだという「自己表現形式」を描き出す。
3次元的な世界では、この肉体である。
そして、自らが存在・創造の源であるため、それに成りきる・・、
それが肉体であるがゆえに、自らを・・肉体自我に閉じ込める。

地球という時空物語にいる・・それぞれの”わたし”の姿である。


例えば、今あなたは”ほぼ”、自分をそれとしているだろう。
大勢の他者と同じく、それを維持するために頑張っているだろう。
仕事が、子供が、お付き合いが、収入が・・、と、
悩みながらも、喜々としているはずである。
肉体生は有限で儚いものだと知りながら、
合わせて自分は有限で儚いものだと知りながら、
それを忘れて目先の事に、危機、喜々として対処した生活だろう。

自らの意識の中心に巻き起こった渦が、
自らの無限性を知ろうとして、
未知なる外側に展開してゆき、それが様々な次元を創り上げる。



そして、我あり・・わたしは在る・・の周囲に、
多次元的な様々なボディーを形成するのだ。
多次元的なボディーの象徴がチャクラと呼ばれる霊的中枢である。

魂の多次元構造(ボディ)の最も遠い側にあるのが、肉体ということだ。
そして、次元の低い世界、あるいは辺境世界・・では、

自らでまとった身体のその外皮を”自分”であると想起している。
肉体は実に知覚しやすく身近なものであるため、
いつの間にか”自己自身”であると---思い「込み」、
その思い込み、想念の形が固定化され、
そのため、”肉体である自己自身”を繰り返し”体現”するのだ。
固定化された想念による輪廻転生である。

肉体自我は窓枠の小さい・・顕在意識だけのため、
それが何が何だか分からずも、
無限の叡智を宿す潜在意識によって、
生れては死ぬプロセスを通過し、

様々な時空の、時代の、環境の・・・
つまり如何様にもなる舞台設定のただ中に、自らを出現させるのだ。

この世界では・・生まれる・・という。


(この絵の意味することは、コウノトリを象徴する無限の叡智が、
赤子と言う無知なる肉体自我を陰ながら完全にケアをしている・・とも言えるだろうか)



また生れたその世界が、
魂の多次元構造のボディの最も外側、
物質・肉体の波動だけに特化されているならば、

多次元的な波動には気付くことなく、
ほぼほぼ無視されてしまうがゆえに、
魂の高次の波動、そこには別の生の記憶も含まれるが、
それにアクセスすることをやめてしまうということである。

つまり、
多くの場合、いわゆる過去世の記憶など思い出せないということだ。

あるいはまた、それを思い出すような世界であれば、
3次元的物質偏重世界では無くなるわけで、
不可思議な何かの多次元宇宙的な摂理のようなものがあり、

あくまでも何も知らない、偶然生まれては死ぬだけの、
肉体自我の刹那の世界が続いていたのだろう。

そう、いままでは。
---


わたしは誰か?
I AM THAT ”・・・・”

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時空物語(26)生まれ変わり 5

2018-06-22 07:41:43 | 真我実現シリーズ
世界という幻影を見ているのは、世界の中心である”わたし”だ。
この世界という幻影を、魂・意識が見始めるのを、
この世界に「生まれる」・・という。
また1つの世界幻影を見終わることを死ぬという。

肉体の生誕、消滅は”魂・意識”に付随する1つの「顕現」形式だ。

知覚経験される世界の幻影、投影される物語の内容は、
わたしの本質である魂の、
その周囲に付随して放射・振動する”想念”の質に基づく。

わたしは肉体個人である・・という信念、
それが、ことさら意識していなくとも、
みんなと同じだという漠然とした・・意識状態であれば、
その支配観念に絡み取られたままだ。

何か意味ありげに呆然と都会を歩く人々に、
何か深い意味があるのか?

口角泡を飛ばしてメディアでしゃべくる者たちが、
人々にどんな責任を感じているのか?
・・・

その人(魂)の知覚・経験する世界は、
簡単に言えば、想い・感情を含む、
”想念”の強い傾向、あるいは信念によるということだ。

例えば、ラマナ・マハルシはこれを「バーサナー」
”想念の潜在的傾向”と呼んでいる。

”想念”を見直さなくてどうするのか?ということだ。
外側の世界や体制を、批判・批評攻撃したところで、
現世、写し世ともいうが、その本質は変わらない。

生まれ変わりの現象の重要なポイントは、
当たり前のように、
フィルムである、あるいはシナリオである、
想念の質的なものを変えなければ、
その光源たる・・それぞれの”魂・意識”の
投影される世界、人生の顕現傾向は変わらないということである。


「わたし」という本質の・・周囲に渦巻く想念波動が変わらなければ、
毎度おなじみ、似たような人生、生の経験世界が繰り返される。
輪廻と呼ばれる、輪の中をぐるぐる回るような展開だ。

それぞれの”わたし”たち・・がシナリヲライターだからだ。



もちろん創造宇宙には全く同じ繰り返しはあるわけもなく、
まるでラセンの輪の少しずつの進行のように、
ぐるぐると重い感情・想念を伴う形で繰り返される。

またそれは運動会の障害物競走のように、
身にまといつく網の目の中を苦労して進むようなものである。
この時空世界、人々の住まう地球という世界が、
今までのようであったのはなぜだろうか。

文明の興亡や攻防、生と死の不都合な短縮化、
様々な歴史を繰り返しつつ、相も変わらず一部では人類同士が
押し合いへし合い、殺し合い、奪い合うような、
そんな繰り返しに終始していたことに気づく者ならば、
すでに理解可能だろう。

その網の目、マトリクスとは何だろうか?

生まれ変わりをしていても、”当人”が何も気づかず知らず、
知覚される外の世界の中に出ては没していたのは、なぜだろうか、

真我とあるいは神我とも言っていい
・・本質のわたし・・を忘れていたからだ。

苦労という名の”想念”の荷物を背負い、
幸か不幸かは定かではないものの、
数多くの”わたし”たちの陥った、
繰り返される転生で出来上がったこの地球生命圏という、

小さな時空物語の・・・その一巻の終了の時が来た。


本当かどうか?・・ではなく、
言葉で聞き、霊的な知識を覚えることだけでなく、
自らで・・真に気づくかどうか?


真の、本質たる・・”わたしとは誰か?・・!
と、自らで問いかけなければならないはずである。


すべては真我の本質であるところの云い、

わたしは・・わたしである・・そのものである!

・・・に表現されている。




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時空物語(25)生まれ変わり 4

2018-06-17 06:03:41 | 真我実現シリーズ
世界という幻影を見ているのは、世界の中で”わたし”しかいない。

そして、この世界という幻影を見始めるのを、
この世界に生まれる”・・という。

ここで「幻影」というのは、ぼんやりした霞(かすみ)のようなでなく、
実体のない変化だけの現象世界という意味であり、
それが実にリアルに感覚的実感を伴っていても、
そこに本質的なものは何も無いということだ。

本質的なもの・・は、その幻影を見ている張本人以外にない。
あなた・・だ。

本質・・・とは、
映画でいえばそれは光源であり、また鑑賞者である。



登場人物に感情移入して一時、ハラハラうきうき楽しむのが映画であり、
同じように3次元的に感情移入して仮想体験するのが、
この世に生きている・・ということである。

生きていることは、
身体の感覚、諸経験と、
それに伴い発生する思考、想念を味わうことだ。

その中心は、それを意識している・気づいている・・”わたし”意識・・である。


世界の中で、わたしが”わたしである”という”意識の中心”は、
わたししかいない・・。
この・・自己覚知・・が極めて大切なプロセス。


それまでは、大勢の人の中のなかを、
あるいは他者の作る価値観や想念形、事物の仕組みの中をさまよう。

あそこに行けば幸せに、これが手に入れば幸福に、・・だ。

それは放蕩息子、彷蕩息子の逸話通りであり、
自己以外に大切なものが、きっと外の世界にあるとして彷徨うのだ。



世界の動きの中に、誰かの動きの中に、歴史の流れの中に、
あるいは理想的な伴侶や、世界を導くリーダーなどに、
きっと”わたし”にとっての真実があるはずだという、
潜在下の想念に突き動かされるということだ。

大勢の代表である、世間やメディアも吹聴しまくるわけだ。
最後まで気づかないだろうが。

例えば、あなたも若いころにそうだったように、
外の世界に真実を探し、あちらにブツカリ、こちらに蹴られ、
苦痛や快楽の波のはざまで浮き沈みだ。

しかしながら、
あるのは・・・すべての中心である・・わたしだ。
これも個人主義、エゴイズムという・・
偽のわたし個人への脇道にはまることもあるものだ。

・・・

わたしが生まれてなければ、世界も地球も宇宙もない。
あなたに前世の記憶がないならば、
その状態で、
あなたが生まれる前には・・世界も大宇宙もないということを
気づかねばならない。

わたしが・・・第一存在原理である。

これは創造主、神、根源と同じ原理である。
えっ?馬鹿な・・だが、事実は小説よりも奇なり・・だ。

生まれ変わりに気づいている人も、
前世を覚えていない・・さみしいな・・ではなく、

中心たる”わたし”がいなければ、世界も宇宙もなく、当然ながら、
過去生も来世もない。

しかしながら、・・今・・あなたは在る・・・ではないか?
常に・・”今・・わたしは・・在る!”・・のだ。

・・常在の今しかない。

今の中にすべてがあり、過去も未来もそこから出現する。

わたしは在る・・そして、
そのわたしはどのようにして在るのか?という想念、
過去はどうだったのか?来世はどうなるのか?という、
想念もやってくるのだ。

わたしの中に、
過去や未来という幻影の絵巻物語も浮かび上がる。
様々な過去生も思い出すはずである。

わたしの過去はあれだった、これだったという記憶、
未来はこうだ、ああだ・・という確たる想像も湧き上がる。
あるいは思い出す努力をするだろう。

・・・
しかしながら、忘れてはならないことは、

過去の人生、前世記憶も、
<わたし>の経験する世界の「記憶」ならば、
それもまた本質的な・・わたし・・自身ではなく、

過去の時代のある人物としての私の記憶も、
この世界と同じく、幻影の世界のその経験記憶に他ならない。
誤解なく気付くべきは、
今のこの瞬間こそがすべての出現点であることだ。

わたしは・・常在の、永遠の、無限の叡智、生命、
・・時間空間を超えた”それ”であるという自己認識だ。


すくなくとも、私はこの肉体でしかなく、
偶然に生まれて死んだら終わりの、小さい個人であるという、
とんでもなく「嘘まみれの」この世的観念から自由になるだろう。

言葉は悪いが、
主たる創造者である・・それぞれの・・わたし・・を、
奴隷のように卑小にする、
”飛んでも”・・観念から自由になるだろう。
この時空世界は「牢獄惑星」と言われるのも仕方がない。

無限なるものだけが、
有限の姿かたちをまとって現れることができる。
有限の姿かたちに捕らわれ、それに完全に自己同一化することで、
無限なる・・わたし・・を忘れることができるのがこの「時空世界」であった。
そう、「・・で、あった」だ。

世界という幻影を見ているのは、世界の中で”わたし”しかいない。
そして、この世界という幻影を見始めるのを、
この世界に生まれる”・・という。
幻影の目くらましに毒づけられて混乱し、
何度も生まれては死ぬ経験をするのが輪廻転生だ。

肉体を自己だとする強い観念で自己同化しているために、
肉体の生死を繰り返すということだ。



世界という幻影を見ているのは、世界の中で”わたし”しかいない。
そして、この世界という幻影を見始めるのを、
この世界に生まれる”・・という。

わたしの世界には・・・わたしだけだって?
何言ってんの?・・・大勢の人がいるではないかという
その”大勢の人たち”も、
あくまでも・・わたし・・の知覚・意識の対象である。

大勢の他の人たちにも”わたしはわたしである”・・という自覚がある。
そう、
大勢の他者たちは・・別バージョンの自己であるからだ。
分離によって、はるかに遠く、まったく疎遠に見えているが、

あなたの嫌いな?好きな?面倒くさい?・・他人達は、
別の・・わたし・なのである。

・・・
これに気づくならば、”わたし”の宇宙、世界には
・・真に”わたし”だけが在る・・である。

多は一であり、一は多である。

そして、
すべてを映し出す無限の叡智である、
光源・根源は・・ただひとつ・・だ。



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時空物語(24)生まれ変わり 3

2018-06-12 05:36:21 | 真我実現シリーズ
生まれ変わりとは何か?と言うならば、姿かたちを変える・・と言える。

変わるのは”姿かたち”である。
根源、究極のわたし・・真我は不動である。

真我、
意味合いに段階があるが、それを魂という場合もあるが、
不動、不生、不滅、無限、永遠、・・言葉では表現不能だ。


姿かたちとは、人においては”肉体”ということになる。

ところが、この姿かたち・肉体こそが”自己”であるという強い思いがあれば、
それは肉体への”自己同化”を起こしているということだ。

わたしが・・何かに・・成りきる状態、・・自己同化だ。
I AM THAT I am.創造者の自己創造原理・・。

スピリチュアル用語?を使えば、
3次元的物質偏重世界、第3密度とか言われるカテゴリー世界では、

「わたしは・・この肉体である」という、漠然とながら、強い信念であれば、
肉体の消滅に伴い、”わたし”も消えてなくなる・・という強い思いで終始するし、
そこには必ず「恐怖」が伴うのだ。

そうではないか?

その恐怖というのは”忌避すべき”「感情・想念」である。
逃げたい・・という感情だ。

悪夢とは、常に逃げている夢のことだ。
誰でも、寝汗までかいて逃げる夢を見たことがあるだろう?(笑)



(おなじみのムンクによる”叫び”)
・・・

この世では、さらに末法の今の世では殊更に、
押し隠された、この恐怖の感情が大きくなる。

簡単に言えば、生まれるのは歓迎だが、死ぬのはごめんだ・・である。
ごめんだ・・だけではなく、それは未解決の恐怖としてずーっと付きまとう。
現代社会では、特にそれをタブーのようにして覆い隠そうする。
そして死を常にみじめに扱い、悲しみの事象として取り扱う。

生と死、この話になると、必ず誤解や偏見が付きまとう。

「そんなこと考えちゃダメ、生きなきゃ・・がんばれ、がんばれ」
あるいは、かつて南方の戦線で米兵が日本兵に向けて放送した
もっともらしい投降勧告のようなものである。

生を全うすること、まったくそれは当然だが、
生と死という、自らにある生命の現象の重要項目を受け入れず、
いつも逃げているということ。

違うだろうか?

そこには「恐怖」があるからだ。
理解可能だろう。
・・・・
それではなぜ恐怖があるのか?

その恐怖の底にあるのは、実は、
「それは本来のものでない!」という精妙なレベルでの想念があるからだ。
多くは気づいていないが、「そんなはずはない」という想念があるのだ。

気づくかどうかなのだが、・・・
そんなはずはない・・死ぬなんてそんなはずはない・・だ。
深いところで、そんなはずはない・・と知っているが、
浅いところで、つまり現象世界ではそれが常識となっており、

この”意識内面”の想念の間の大きなギャップを埋められない。

本来はそうではないが、現実はそうなっている・・OH,NO!(笑)
特に若い時にはそういう感覚が強くあるのだが、
いつの間にか、社会にいかに適合してゆくかだけが目的となる。

だから、若い時代の一時、親とか社会とかに反発するのである。

あなたもそうだったろうし、あなたの子供もそうではないか?
「あんた、飯を食わなきゃ生きられないんだよ!」
(それはそうだが、・・それしか言わないのか?このボケッ!)
・・と思っているかもしれないが・・それもまた表現不能のもどかしさ・・、
そんなことはないだろうか?
・・・

話がそれたが、

生は良いが死は悪い、・・その恐怖の底にあるのは、実は、
「それは本来のものでない!」という精妙なレベルでの想念があるからだ。
多くは気づいていないが、「そんなはずはない」という想念があるのだ。


さらに、深いところにある精妙・精緻な英知・・

生死は姿かたちを変えることだ・・という事実に、
表面意識、浅い意識レベルでは気づかない。
そのため、訳が分からない不都合な感情、恐怖になる。
・・・
そうであるならば、
ああ、朋よ、そのための探求が足りないということなのだ。

恐怖や怖れ、は実は、意味のないものではなく、
内奥の叡智と、この世の常識、つまり現実は・・違っている。
それを知っているからこそである。

現実というのは、・・・この仮想世界のことだ。
この時空物語のストーリーのことである。


「時空物語」の中に入り込むには、その中の登場人物になる必要がある。
それは、時空内で生成される「肉体」をもつということだ。
その時空物語の中で、「お前は肉体だ」と陰に陽に想念を浴びせれば、
それはそうだと・・思うわけである。
・・・
だって、皆そう言っているし~。
よく言われる、「自分で考えない状態」・・なわけだ。
肉体の五感の苦痛と快楽を通じて疲れ果て、
実際本当のところ、真実は何なのか?・・悟ろうとするには、
好都合ではあるものの、
天国と地獄をまぜこぜにしたような、
何という「ダイハード」な世界だったろうか(笑)
・・

時空物語の中の人類ストーリーは、
すべて人の意識の派生である想念の具象化である。
また、その舞台である時空、この星は、意識の高次の想念の具象化である。

すべてに行き渡ってる普遍意識の、波動の色合いともいえる想念波動は、
高次のレベルから低次のレベルまで無数にあり、
その組み合わせによって、さまざまな時空物語が演出されている。






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時空物語(23)生まれ変わり 2

2018-06-10 06:15:12 | 真我実現シリーズ
一般に「生まれ変わり」とは何だろうか?
死んでまた生まれるということだろう。
あなたはどう思うだろうか?

今の時代は、
目先の肉体的な感覚だけが存在感として強調され、
それに資する物質的な便利さだけを追求してきたわけだ。
日本での歴史で言えば、明治以降その道に否応なく入ってしまった。
明治維新と言ってさも画期的な文明開化とされ、
大きな良き時代変革のようなイメージがあるが、

その本質を言えば、
資本主義という「思想」と、発見される高度な「技術」を使って、
物質的富を生み出すことが目的の文明である言える。
いまは、もうその目先の富だけが実質的な目的となってしまい、
人心の荒廃、同じくして自然環境の汚染が残されるのみとなった。

例えば、仮に、
明治以前の時代に生きていた人がいて、
生まれ変わりを自覚しており、
その生きた時代と、今の生きている時代を比べて、
・・ああ、わたしは幸せになった・・と感じることはあるまい。

便利になった・・はあるかもしれないが、
人が誰でも求めているところの「幸福」実感は、
得られるどころか、その反対の道の極致のように感じるだろう。

あなたは今、幸せ感があるか?


話を戻すと、

あなたは生まれて、今・生きている・・という状態だ。

それが一回だけだと誰が決めたのか?
つまり・・生まれかわりは無い・・と誰が決めたのか?
真実かどうか?  ということだ。

実は誰も決めていないが、皆そう思っている・・と。
事実身近な人に聞いても、
「なに馬鹿言ってんの!それに決まっている」というだろうし、
良識的な人で「それは多分そうだろう」というのが精いっぱいかもしれない。
結局は公の教育や情報伝達でも、そんな話は全然ないからだ。

しかしながら、そういう無知のムチによる支配秩序のなかでも、
自分で調べることは可能なのである。
多分この記事を読んでいる人は、大なり小なり気づいている。
色々、すでに知っていることだろう。

「生まれ変わり」
その現象を認識するための証左、現代人が求める「物的証拠」はない。

実は、この「物的証拠」の観念自体が、もっともらしい大嘘である。

何かを証明するために、物的証拠の提示とかが必要とされるのは、
「人間が嘘を言うこと」が前提にある。
つまり、この世に真実はどこにもない・・特に、
人間のこころは、自己の欲得のため、平気で嘘をつくという前提があるためである。

物質は、ペラペラ喋って嘘もつけないということである。
だから人は人を信用せず、物だけを信用する・・わけだ。(笑)

今の文明の根本には、難しいものも、高度な理論も何もない。
人が人を信頼できず、つまり自分自身を信用できない。
行為や言葉のもとにある「マインド」こころを信用できないわけだ。

もっとも、嘘でなくとも、誤解だって五万とあるわけで、
マインド、こころ自体が変幻自在の想念であるからだ。
また話がそれたが、

生まれ変わりの「物的証拠」はないが、
あるのは前世の記憶などと呼ばれる「記憶」情報である。

憶えている・・だ。
思い出した・・だ。
記憶イメージがあった・・だ。

それは一種の「情報」である。

間接的に、誰か霊能者など、読み取り能力者が見たビジョンなどを聞いた、
あるいは明らかに前世という直感で、断片的に・・思い出した。
そういう意識的現象が起きる。

昨今では前世療法、ヒプノセラピーなどが知れてきたが、
欧米発が多い、ある意味、最も病んでしまった領域から立ち上がる、
こういう非公式で霊的なビジネスも、
起きるべくして起きている事象のうちの1つである。

前世の記憶、
これらは物的証拠ではなく、意識的なレベルでの「情報」である。
イメージ、記憶は意識の働き、こころのレベルであり、
カチン、コチンの物的証拠レベルの話ではないため、
公的には、まったく話にも出ないことも理解できよう。

こういうものは、物の次元ではないからだ。

だから「生まれ変わりは無い」は・・完全な間違いで、
それを言うなら、
まったく同じ物質的肉体は、生まれ変わらない・・が正解だ。
それはそうだ。
・・・

I AM THAT・・I AM.

「わたしは一時の肉体である」という”信念”形であれば、
「わたしは一時の肉体である」・・という状況の”生まれ”になる。

わたしは誰?ここはどこ?・・ならば、まだまし。
私は宇宙の中の一時の偶然に生れた肉体である・・、
等という無知な世界に生まれてくる。

この世界に生まれてくる存在たちは、・・そういう・・ことだ。
あなたはどうだったろうか?


そう信じて生まれて死ねば、
そういう信念にそった生まれ変わりとなるため、
ある意味では、実にゆゆしき問題なのである。
地の獄舎、誰も歓迎しない不都合な世界・・、
魂の荒々しい修行場としては有効ではあるものの、
経験によって生じる、2次的想念波動の、
重く垂れこめるような世界も出来上がる。

ある種の時空物語、信念体系に”閉じ込められる”ことになる。
その世界における・・「常識」ともいう”信念体系”だ。

この重大な事実に腑に落ちるように・・気づくということは、
十分かそうでないかは別として、
思考、想念、マインドという、
こころの働きを観る意識レベルに昇ったということだ。
違う表現でいえば、夢を夢として見える意識レベルへの移行だ。

そうでなければ、また同じレベルの夢を観ることになる。

この世界も、かつてそうであったように、
時空の物語として、初めがあり終わりがある。
もうは未だなり・・であったが、今はもうなのである。

わたしとは何か?である。

それに引き換え、経済がどうなるとか、天変地異が起きるとか、
この世界が終わるとか、あーなる、こーなるは、
二次的なテーマでしかない。



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