よく言う「マインド」とは、人の”こころ”、思考、イメージそして感情という、
つまり・・「意識」の働きのことだ。
あなたが頭で?行っていると思っていいる精神の働きともいえる。
また、”意識する”とは何かに”気づいている”こと、
ある事物や考えに「注意」しているとか、「気にしている」とか言う。
違うだろうか?
あなたも若いころ、ハートの部分が熱くなるほど、
寝ても覚めても、恋する人を意識した経験があるはずだ。(笑)
あるいはいつも家族のことを気にかけ、あるいは心を配っているかもしれない。
そうではないか?
「意識する・・」とは気に掛けること、気にすること、注視すること。
そして人間は実際に「意識的存在」なのである。
人間は社会的動物だとか、肉体的存在である等と一体誰が言ったのだろうか?
目に見えないものは存在しないという、おバカな学者はどこにいる?
誰もそうだが、自分の生活、仕事、家族のこと、経済あるいは社会のことを、
次から次へと「意識して」いるはずだ。
意識することは、いわゆる頭の働きつまり思考、イメージでもありながら、
例えば、みぞおちから胸の中心、そして喉にかけて感じるような、ハートの働きでもある。
これはいわゆる「チャクラ」の働きに相当している。
どんなことでもいい、あなたが何かに「感動」して、胸に込み上げるものがあり、
感動のあまり、何かのエネルギーがのど元を通じてこみ上げ、涙腺を刺激して涙が出る。
それは意識を通じて現れた、言葉で言えば「愛」というエネルギーといえる。
共感し、共鳴し、同情し、感極まって涙にむせぶこともある。
これが真に「感じる」ということ。
「おー寒い!、あちちっ!」は・・皮膚・五感で感じること、
「あの野郎!、虫が好かねえ!」は思考・計算で感じること、
感慨や感動、共感は、ハートで感じることだ。
感動や共感、思いやりの深い傾向の人は、
すでに古い3次元レベルを超えている。
気づかず知らず超えている・・。
すでにOKなのだ(笑)
相手と自分、何かと私・・その間にある「共感」は、つまり「愛」である。
愛とは、世の不安を餌に、「愛という概念」を使ってどこか気持ちよくさせて、
人集め、金集めするような宗教?とは全く無縁のものであり、
どこに行かなくても、すでに在るものなのだ。
愛とは、国家や組織が危機にあると称して、それを守るべく集団を戦いにいざなうような、
そういう共感とは全く無縁のものであり、
何をせずとも、すでにあるものなのだ。
また、愛が「性」だという勘違いは、2流の欧米映画を見すぎたせいかもしれない(笑)
お決まりの恐怖とスリル、サスペンス、ドカン、バコーンの後の、
男女を結びつけるハッピーエンド、それらは「刺激」をてんこ盛りした画像版エスニック料理のようなもの、その満足感は一時のものだ。(笑)
性愛は愛の、異性の違い、肉体を中心とした表現形であり、
誰にも非常にわかりやすくプログラムされた、
真実の愛のための3次元的カリキュラムともいえようか。
異性間で子供が生まれ、通常親は子供に対して無条件の愛を注ぐもの、
親のマインドの歪や観念によって、男女持ち味も加わり、その表現の仕方は様々あるが、
そこで生まれてくるのは・・無条件の愛・・なのである。
違うだろうか?
そして、そういう宇宙的仕組み自体にも・・愛を感じないだろうか?
何事も偶然、何事も、死んだら終わりだという・・観念が、
どれほど愚かなことか、もう十分にわかろうもん。
意識は思考、感情の働きであり、またそこから出現するのが共感、感動だ。
誰にも共通の感動、共感、また慈しみが「愛」。
植物・鉱物・動物はそれ自体活きている・意識ある存在であるが、
「我あり・・」という目覚めた自意識はなく、
翻って、人間は、意識的・・に「愛」を共感・創造できる存在のことだ。
感動や共感、思いやりの深い傾向の人は、
すでに古い3次元レベル、個我の戦い生存レベルを超えている。
今「ここ」に在りても、また「ここ」に組み敷かれず、
それを気づかず知らずかもしれないものの、既に超えている・・。
すでにOKなのだ(笑)
愛は別段大それたことでもなく、規模や物量、距離や時間とは関係ない。
感動や共感は、計算や理論や打算とは無縁のもの。
今在ること・・自体が・・それ、
そう、
在ること・・から全てが生まれている。
自他を思いやり、共感し、感動多くあれば良し!
銭金ばかりの損得感情に流されず、
常に破滅で終わる、国家、集団の間の敵意に同調せず、
また、一時の肉体の過ぎたる保身に惑わされず、
大宇宙のすべてを顕わして在る大いなる「法」を認識し、
それが無条件の愛の様々な表現型であることを悟るべきである。
この世に雄々しき戦いがあるとすれば、
それは決して、決して、
自己の鏡である他者との間ではなく、間違いなく自らのうちにある。
そう、今こそ・・マインドを静寂に導き・・、
うちにある、様々な迷いを一掃することなのだ、
今はもう、・・そのときが来ている。
様々な鎧のような観念の群れを・・・、
低く垂れこめたこの次元の迷妄を・・・・突き破る!ときである。
常にあるのが・・今という瞬間・・永遠なるそれ、
悟るべきはそれ、
・・わたしは在る・・ということだ。