存在とはなんだろうか?
有ること、在ること、物ごと、事物、物質などのすべてを指す。
世界は存在で満ちている。
我々の存在、肉体、物質、環境、自然、宇宙は存在の多様性そのものだ。
そのあらゆる事物を構成している「物質」は、
細胞、結晶、さらに分子や原子でつくられていて、
原子はさらに微小な電子や素粒子でつくられている。
そして素粒子レベルでは、粒子性と波動性を備えている。
粒(つぶ)とは「塊」状の存在形であり、波動は振動・伝搬する「波」だ。
粒というのは塊(かたまり)であって、そのものずばりの物としてとらえているが、物は微細になればなるほど、その塊(かたまり)は解(ほぐ)れていって「波」になってしまうという事である。
量子科学では、物は確たる「存在物」ではなく、素粒子の微細レベルでは”波動函数”として表記される。
その波動は・・粗密さ・振動数があって・・物的な確たる存在形ではないことは理解可能だろう。
絶対・・在る・・物はなく、・・あるのは存在 ”確率” なのだ。
極端に言えば、相対的なもの
「在るかどうか?・・さあどうだろうか?・・」という類の、確率的な存在という事である。
物質とは・・絶対ある・・とは言えない・・
波の動きで表される"確率的存在"のことなのだ。
つまり物質も・・究極、元は「波動」ということになる。
そしてさらに、その物質は・・人が観察した時に・・波動が崩壊して粒子性を帯びるとも解釈されている。
観察していないときには・・波として存在している(だろう)けれども、人が肉眼や機械や測定機器で「観察」することで、初めて粒子性(物の塊)として出現する・・とも解釈される。
簡単に言えば・・・、
観ることで、”波動”関数が崩壊して ”粒子” になる。(と観察される)
微細ではありながら・・「物」として観測できる・・ということである。
観なければ・・確率的な波動のまま・・在るのかどうかわからない・・のである。
それらが集まってマクロレベルになった状況が、我々の現実と呼ばれる世界。
現実とは、ある意味、いい加減な世界のことだ。
いきなりそんなこと言っていいのか?と思われようが、
観る行為・・観察・・人の意識的な働きが無ければ・・
事物は物質化しないという表現もできるわけで、
物質化・・とは知覚可能化でもある。
ここが肝心なミクロの点である。
気づくことが無くて・・どんな対象物もない・・。
事物とは・・観察されたもの以外の何ものでもない!
文字通り、気づけば(笑)全くの自明なのだが・・・、
もう何千年も?・・・このことに気づかず、
物質の塊の中にうずもれていたのである!
多くの人は、まだ自分が物質、肉体であると言う感覚の中で、頭を傾げているだろうか?
意識の介在なくば、何事も存在えしない。
意識を抜きに、物が勝手に存在しているわけではないのである。
ここが最も重要なところなのであるが、
ほとんどの人はサラサラ流して逃してしまうのだ。
ここには、神智学・哲学などの精神的なものと、現代科学をはじめとする物質的なものとの重要な接続点がある。
いや、接続点というと小さな要素のように感じるだろうが、
それは、精神(マインド)と物質を超えて、精神と物質の元になっている・・より高次のものを指し示しているのだ。
ここ・それ、・・とは繰り返し繰り返し記事にしたところの・・「意識」なのである。
マインドと物質環境を含み、それを超えているところの、
高次の・・わたし・・意識・・そのもの・・である。
あなたの意識・・がなければあなたの世界は生じていないということであり、またそういう意識が集合して様々な世界を創り上げているということを示しているのだ。
この地球という次元の惑星もそうである。
物質と称される物でみちた世界が、
意識と関係なく、勝手に存在しているわけではないということは、
昔からの宗教・精神的見地からの物言いと、
量子論的な科学的知見からの解釈の一致によっても明らかであろう。
しかしながら・・・、
真のわたしとは何か?・・自分自身が本当はどういう存在か、
肉体、マインド、意識について探求した場合や、
あるいは、既に潜在意識において知っている者だけが、
このことを直に理解できるのかもしれない。
わたしとは誰か?
広大な世界、宇宙のなかの、小さなこの体に過ぎないのか?
それを吟味し思索するマインドなのか?
あるいは、それを含み、それらすべてに気づいているところの、
・・・創造の根源なる波動、魂・意識であるのか?
あなたはどう自己認識しているだろうか?