気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

続・意識の話(5)わたしは体の「中」にはいない?

2019-05-22 08:46:55 | 語り部の章
意識である”わたし”は・・
意識する・・その対象たる時空間、諸現象を通じて自らを表現する。

繰り返しになるが、
常識では、宇宙や世界、社会があって、その中に、それぞれ私の肉体があり、
意識の重要性に気付いていたとしても、
その肉体の中に「意識」があると思っているかもしれない。
当然、肉体が死ねば、その機能である「意識」もなくなると・・思っているだろう。

つまり自分はこの肉体である・・と”思っている”。
そうではないか?

当然、肉体が死ねば、その中にある「意識」も無くなると・・思っている。
死んだら終わりだ・・である。

多くの場合、その常識観念で止まっているのである。
だから死を恐れ、終生それを考えないで生きようとする。

どう考えてみても、自分は個人である、
宇宙があって小さな私個人がいるという感覚は、
”自分の肉体”を、仮に外側から観察したときの感覚である。

鏡、写真何でもいいが、要するに自分の肉体を観察しているということだが、
わたしは観察対象である肉体だと思っているのだ。

そして、肉体を観察しているのは・・誰か、何か?と言えば、
肉体に付帯する五感の感覚を通じて、
複雑高度な造りの「頭脳」が全てを認識していると理解している。

ちがうだろうか?

それでは頭脳が「意識」なのかと言えば、
どこを分解しても意識は”出てこない”のだ。
当たり前だが、頭脳も原子・分子で創られた脳細胞の集合体であり、
それもまた観察対象なのである。

そう、頭脳も観察対象物なのである。
その中に・・わたしがいるのだろうか?
変な話ではないか?

今・・在る・・わたし・・意識・・は、どこにある?

頭脳の中にある?肉体の中にある?・・・

いやいや、意識は、決して
内側、中側、外側、というような物質的なものでも、
大きい小さいというような比較対象物でもない。

実のところ、
今・・わたしは・・在る・・その意識・・が体の中にあるという感覚は、
五感の感覚を過度に”意識している”ことで起きている。
簡単に言えば、お前は肉体である・・と言う観念に、
意識的に従っているわけだ。

確かに・・五感があり、肉体感覚がある・・ことを経験しているし、
それに関連する様々な想いが出てくる経験をしているが、

今・・在る・・わたし・・はそれではない。

肉体の・・内側、中側、外側、というような物質的なもの、
大きい小さいというような比較対象物ではない。
あるいは、アレだこれだという想念や感情でもない。

わたしとは・・意識、気づき、それ・・そのもの・・。
真のわたしとは・・二次的な知覚対象ではなく、
知られる対象ではなく、それを知る・識(し)ること、それそもの。

真のわたしは・・
時空間の中、あるいは個々人の肉体の”ある場所”に存在するわけではない。

時間空間、世界・宇宙といえどもそれは知覚対象であり、
意識である”わたし”は・・
意識する・・その対象たる時空間、諸現象を通じて自らを知覚している。

ただ無関係な第3者が傍観しているのではなく、
意識そのものが投射・投影している・・
創造しているものを同時に観察しているということである。

真のわたしとは・・無限の意識であるからこそ、
それが時空間のどこかの場所にあるわけでもなく、
ましてや、肉体の中にだけあるわけではないのである。

無限意識、普遍意識が、特定の個人の肉体レベルに過度に集中している場合は、
わたしは肉体の中に在る・・ように見える、
いや世界の中の小さな肉体の中に居るように想うのである。

そして、そういう信念体系の中にいて、
そう思っているからこそ、今ここで
なんだかよく分かっていない肉体個人を経験しているのである。





コメント (4)
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続・意識の話(4)わたし・・とは?

2019-05-16 05:10:04 | 語り部の章
わたしたちが「わたし」と呼んでいるものはなんだろうか?
世の中の様々な物事ではなく、世界の出来事ではなく・・わたし・・のことである。

より本質的な・・わたし・・とは自己自身への”気づき”・・のことだ。
あなたは自分自身が存在していることに気付いている。
そうではないか?

自己自身への気づき・・が、すなわち、
自分が存在していることなのである。

体の感覚、五感の知覚、それらはこの世界での必然的な付帯物のようなものであり、
”自分への気づき”・・が、それらすべての根幹にあるものだ。

自らに気付いている・・その宇宙最大の奇跡に、
あなたは・・いまも気づいていないだろうか?

あなたがこの世に生まれてから、いつか幼い時に、
自己自身、存在していることに、おぼろげながら気づき始めたはずだ。

いや、正確に言えば、あなたが何年何月何日に生まれたというのは、
あくまでも親が言う事実のことで、
「あなたの肉体があなたの親から出てきた」とそう言っていることだ。

意識である・・あなたは、そのとき、そこにいなかった。
あるいは「眠っていた」とでも言おうか、
意識は未だそこには出現せず、
ただ、あなたの肉体はあったと、・・親が言うのみだ。

わたしという意識が目覚め始めた、つまり、
あなたが自己自身に気づき始めたのは、時系列で言えばすこし後のほうだ。
そうだ、
自分自身のことに気づき始めたのは、何歳の頃だろうか、思い出せるだろうか?

意識という観点からすれば、
ある家に生まれ、親がいて・・自分がいる・・・と”気付き始めた”、
そういうところから、いつか、人生が始まっている。

そうではないか?

人は皆、幼少期のいつごろか、自分自身が在る・・ことに気付き始める。
これはつまり、この現実という夢の世界に目覚めることを意味する。

この世に目覚めてからは、様々な経験・情報・教育が矢継ぎ早になされるため、
いつかそれに沿った記憶をもとにした自己感覚を備え、
人格というものが形作られるわけだが、
その元にあったものは何かといえば・・自分自身への気づきである。

この世における「意識」の目覚め・・とも言えようか。
それはまた、毎朝目覚めるのと同じようなものである・・・。


自己への気づき、
「わたしは・・在る」・・というのが目覚めの「種子」のようなものだ。

わたしは・・在る・・。
わたしは・・在る・・は、
自らが・・存在していることに”気付いている”・・そのことだ。
あるいは意識がある・・などとも言われるが、

自己に気づいている・・と同時に、様々な対象物にも気づいている。
生きている・・存在している・・とはこのことだ。

熟睡中には自己の感覚も、またどんな世界もないように、
あなたに意識がなければ、あなたの世界も宇宙も存在しない。

個別の身体を持っていると観察されるすべての生命は「意識」があるとされる。
あなたもそれを聞いたことがあるだろう。

身の回りに存在する動物たちには「意識」があることがわかる。
動物たちは、常に何かに気づき、それに対して行動し、
警戒しあるいは懐くのも、意識の働きである。

あなたの飼っている猫や犬にもはっきりと意識があることを知っているだろう。
人間のように細かく、複雑でこざかしく、面妖な反応はせずとも、
そこに意識の共感が生まれているからこそ、あなたはペットを愛するのだ。



ペットたちは、そばにいるだけで癒される存在と言われるように、
彼らは、ただ存在していることを是とし、それとして喜びを表している。
存在していることを是とする・・とは、
「ただ在る」ことの奇跡を、
無意識的ながらも、最大限に自己表現しているのである。

物質分子が偶然に、確率的に動き回るのではない。
そこには「意識」があるのだ。
自らに気付いている・・それ、・・がある!

多くの人は、
この世的な想念の重い想いが幼い時から身についているため、
いつも考え違いをして素通りしているのだが、

意識が肉体の中にあるのではなく、
意識が・・肉体を通して表出しているのだ。

意識は、その無限性の一環として、
ただひとつでありながら、なおかつ、
自らの個別化意識の表現形を無数に生み出すのである。

意識は、その中の無数の時空内部に、これまた無限種の生物たち、
ひとつひとつ単独の1つの生命体という形を表出・投影するが、
それらひとつひとつの生命、生物は、

すなわち「意識」の無限性の表出・表現である。

それが宇宙・時空内の様々な無限種の生命体である。


いまあなたは、その中の人間という生命種の、1つのちいさな肉体という窓から、
その知覚機能を通じて、表れ出た世界・宇宙を眺めている。

しかしながら、それは無限宇宙全体を観察する窓のようなものであり、
その窓から・・眺めている者・・観察者が・・あなたである。

その、観察者とはなにか?

無限である自己自身に気付いている者であり、
その無限性からくる無数の対象を知覚している者である。


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続・意識の話(3)宇宙は意識の中にある

2019-05-09 07:59:25 | 語り部の章
わたしたちが見ているものすべて、
それらはわたしたちから”独立したもの”、単独別個の事物であると、
そう思い込んでいるが、実はそうではない。

それらは、それぞれ・・わたしの「気づき」の対象であって、
諸物質や様々な現象は、それに気づいているからこそ、それがそこに存在する。

それに・・気づいていないならば、それは存在していないということだ。

存在、存在などと言っているが、それが存在していると知るのは誰なのか?
”誰か”が、それを知覚しなければ、存在は・・存在できないではないか。
どんな物質形も事象も、勝手にそれだけで存在している・・と誰が証明する?

誰かの意識に知覚されるからこそ、それが存在として浮上するのだ。
存在とは、気づいている「対象」のことをいう。

気づきがなければ・・決して対象は存在しえない。

あなたの目の前の諸物、事柄、人たちも・・
あなたが気づいており知覚しているからこそ存在する。

言い換えれば、
あなたの意識の内部に浮上している対象なのである。

意識内部という表現をしているが、私の肉体・頭脳の中ではない。
宇宙・世界という集合体はすべて、わたしの意識の”知覚対象の集合体”であるがゆえに、
それらはわたしの意識内部にある・・のである。




こんな無限の宇宙の壮大な星雲等を見て、
あんな遠くまで星々があるのだな・・、なんと自分はちっぽけなんだ・・
と思うものだが、当然ながら、壮大な宇宙は、あなたの肉体の中にはありそうもない。
しかしながら、それを知覚しているあなたの「意識」の中にあるということだ。

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