意識である”わたし”は・・
意識する・・その対象たる時空間、諸現象を通じて自らを表現する。
繰り返しになるが、
常識では、宇宙や世界、社会があって、その中に、それぞれ私の肉体があり、
意識の重要性に気付いていたとしても、
その肉体の中に「意識」があると思っているかもしれない。
当然、肉体が死ねば、その機能である「意識」もなくなると・・思っているだろう。
つまり自分はこの肉体である・・と”思っている”。
そうではないか?
当然、肉体が死ねば、その中にある「意識」も無くなると・・思っている。
死んだら終わりだ・・である。
多くの場合、その常識観念で止まっているのである。
だから死を恐れ、終生それを考えないで生きようとする。
どう考えてみても、自分は個人である、
宇宙があって小さな私個人がいるという感覚は、
”自分の肉体”を、仮に外側から観察したときの感覚である。
鏡、写真何でもいいが、要するに自分の肉体を観察しているということだが、
わたしは観察対象である肉体だと思っているのだ。
そして、肉体を観察しているのは・・誰か、何か?と言えば、
肉体に付帯する五感の感覚を通じて、
複雑高度な造りの「頭脳」が全てを認識していると理解している。
ちがうだろうか?
それでは頭脳が「意識」なのかと言えば、
どこを分解しても意識は”出てこない”のだ。
当たり前だが、頭脳も原子・分子で創られた脳細胞の集合体であり、
それもまた観察対象なのである。
そう、頭脳も観察対象物なのである。
その中に・・わたしがいるのだろうか?
変な話ではないか?
今・・在る・・わたし・・意識・・は、どこにある?
頭脳の中にある?肉体の中にある?・・・
いやいや、意識は、決して
内側、中側、外側、というような物質的なものでも、
大きい小さいというような比較対象物でもない。
実のところ、
今・・わたしは・・在る・・その意識・・が体の中にあるという感覚は、
五感の感覚を過度に”意識している”ことで起きている。
簡単に言えば、お前は肉体である・・と言う観念に、
意識的に従っているわけだ。
確かに・・五感があり、肉体感覚がある・・ことを経験しているし、
それに関連する様々な想いが出てくる経験をしているが、
今・・在る・・わたし・・はそれではない。
肉体の・・内側、中側、外側、というような物質的なもの、
大きい小さいというような比較対象物ではない。
あるいは、アレだこれだという想念や感情でもない。
わたしとは・・意識、気づき、それ・・そのもの・・。
真のわたしとは・・二次的な知覚対象ではなく、
知られる対象ではなく、それを知る・識(し)ること、それそもの。
真のわたしは・・
時空間の中、あるいは個々人の肉体の”ある場所”に存在するわけではない。
時間空間、世界・宇宙といえどもそれは知覚対象であり、
意識である”わたし”は・・
意識する・・その対象たる時空間、諸現象を通じて自らを知覚している。
ただ無関係な第3者が傍観しているのではなく、
意識そのものが投射・投影している・・
創造しているものを同時に観察しているということである。
真のわたしとは・・無限の意識であるからこそ、
それが時空間のどこかの場所にあるわけでもなく、
ましてや、肉体の中にだけあるわけではないのである。
無限意識、普遍意識が、特定の個人の肉体レベルに過度に集中している場合は、
わたしは肉体の中に在る・・ように見える、
いや世界の中の小さな肉体の中に居るように想うのである。
そして、そういう信念体系の中にいて、
そう思っているからこそ、今ここで
なんだかよく分かっていない肉体個人を経験しているのである。
意識する・・その対象たる時空間、諸現象を通じて自らを表現する。
繰り返しになるが、
常識では、宇宙や世界、社会があって、その中に、それぞれ私の肉体があり、
意識の重要性に気付いていたとしても、
その肉体の中に「意識」があると思っているかもしれない。
当然、肉体が死ねば、その機能である「意識」もなくなると・・思っているだろう。
つまり自分はこの肉体である・・と”思っている”。
そうではないか?
当然、肉体が死ねば、その中にある「意識」も無くなると・・思っている。
死んだら終わりだ・・である。
多くの場合、その常識観念で止まっているのである。
だから死を恐れ、終生それを考えないで生きようとする。
どう考えてみても、自分は個人である、
宇宙があって小さな私個人がいるという感覚は、
”自分の肉体”を、仮に外側から観察したときの感覚である。
鏡、写真何でもいいが、要するに自分の肉体を観察しているということだが、
わたしは観察対象である肉体だと思っているのだ。
そして、肉体を観察しているのは・・誰か、何か?と言えば、
肉体に付帯する五感の感覚を通じて、
複雑高度な造りの「頭脳」が全てを認識していると理解している。
ちがうだろうか?
それでは頭脳が「意識」なのかと言えば、
どこを分解しても意識は”出てこない”のだ。
当たり前だが、頭脳も原子・分子で創られた脳細胞の集合体であり、
それもまた観察対象なのである。
そう、頭脳も観察対象物なのである。
その中に・・わたしがいるのだろうか?
変な話ではないか?
今・・在る・・わたし・・意識・・は、どこにある?
頭脳の中にある?肉体の中にある?・・・
いやいや、意識は、決して
内側、中側、外側、というような物質的なものでも、
大きい小さいというような比較対象物でもない。
実のところ、
今・・わたしは・・在る・・その意識・・が体の中にあるという感覚は、
五感の感覚を過度に”意識している”ことで起きている。
簡単に言えば、お前は肉体である・・と言う観念に、
意識的に従っているわけだ。
確かに・・五感があり、肉体感覚がある・・ことを経験しているし、
それに関連する様々な想いが出てくる経験をしているが、
今・・在る・・わたし・・はそれではない。
肉体の・・内側、中側、外側、というような物質的なもの、
大きい小さいというような比較対象物ではない。
あるいは、アレだこれだという想念や感情でもない。
わたしとは・・意識、気づき、それ・・そのもの・・。
真のわたしとは・・二次的な知覚対象ではなく、
知られる対象ではなく、それを知る・識(し)ること、それそもの。
真のわたしは・・
時空間の中、あるいは個々人の肉体の”ある場所”に存在するわけではない。
時間空間、世界・宇宙といえどもそれは知覚対象であり、
意識である”わたし”は・・
意識する・・その対象たる時空間、諸現象を通じて自らを知覚している。
ただ無関係な第3者が傍観しているのではなく、
意識そのものが投射・投影している・・
創造しているものを同時に観察しているということである。
真のわたしとは・・無限の意識であるからこそ、
それが時空間のどこかの場所にあるわけでもなく、
ましてや、肉体の中にだけあるわけではないのである。
無限意識、普遍意識が、特定の個人の肉体レベルに過度に集中している場合は、
わたしは肉体の中に在る・・ように見える、
いや世界の中の小さな肉体の中に居るように想うのである。
そして、そういう信念体系の中にいて、
そう思っているからこそ、今ここで
なんだかよく分かっていない肉体個人を経験しているのである。