雲一つ無く晴れ渡る青空。昨日もこんなお天気だった。
「なんにも無かったみたいないいお天気ね」と従姉のYちゃんが言った。
二週間程前、伯父のいる熊本で、叔母や従姉妹たちと会うことになって4月29日の新幹線をネットで予約して、翌日の朝博多駅でチケットを入手した。
伯父は南島原の実家で、一人でノンビリ暮らしていたが、緑内障が進んで一人暮らしが不自由になり、娘である熊本の従姉のYちゃんの所に身を寄せた。
仕事を持つYちゃんは、昼間一人で居るよりもと、介護付きのホームに父親を入所させた。
それを知った父は、伯父に会いに行きたいと言うようになった。
ホームに入ったとは言え、休みの日はYちゃんも頻繁に会いに行き、一緒に外食したりしていたようだが、父にしてみれば切なかったようだ。
動揺した父に、その時私は「新幹線で熊本はすぐだから連れて行くから安心して」と言った。
その後、母が亡くなり、父も前立腺がんの治療や放射線の後遺症などで通院が続いた。
後遺症の治療も一段落して、気候もよくなったので熊本に行こうと話したら、すぐにYちゃんに電話した父。
それで、29日にみんなで集まることになった。
チケットを手にした夜、熊本地震が起こった。
父がすぐに電話すると、食器やいろんなものが落ちて大変だけど大丈夫という答えが返ってきた。
それから2度目の地震。
熊本市北区はそれほど被害が出ていない様子だったが、ニュースなどで熊本の様子を見て、今回の集まりは取りやめた方がいいのではと、父が留守電を入れた。
Yちゃんからは、叔母の方にも相談してみるとのことだった。
26日、「博多熊本間の新幹線が復活したし、先延ばしにしても同じだから集まりましょう」と連絡があった。
28日には九州新幹線が、博多鹿児島中央間全線が動き始め、本数を減らして山陽本線との相互乗り入れも復活した。
29日は座席予約したチケットだったが、グリーンをのぞいて博多鹿児島中央間はすべて自由席になったため、チケットはそのまま自由席扱いで利用できるとホームページに書いてあった。
父は自由席で座れなくても行くと言う。私も覚悟して連れて行く準備をした。
予定よりも早めに家を出て博多に向かった。
新幹線のホームにはTVカメラがいくつも来ていた。
心配したが、座席に座ることができてホッとしながら熊本に向かった。
座席はほぼ満席で、ボランティアに向かう様な人たちも乗っていた。
熊本に着く前は速度を落として走行。遠目に鬼瓦が乗っていない熊本城の天守閣が見えた。
ブルーシートで覆われた屋根がチラホラ見えて、被災地の熊本に足を踏み入れるのだと実感した。
40分ほどで熊本に到着。
エスカレーターは壊れて使えないのでと車内アナウンスがあった時はちょっとビックリ。
エレベーターを待ってゆっくり降りていくと、改札口で笑顔のYちゃんが迎えてくれた。
伯父
Yちゃん夫婦
叔母
従弟のHさんと娘(小2)
従姉妹のKちゃんと息子(3歳)
総勢10名で近況や昔話に花が咲き、美味しいご飯をいただいた。
伯父のいるホームは新しく立派なので地震の影響はなかったが、水道やガスが止まり食事が2食になったりパンだったりしたらしい。
叔母は南島原で地震はやはり頻繁だという。
Yちゃんの家も、Hさんのマンションも被害は無く大丈夫だったようだが、もちろん水やガスの復旧は25日を過ぎてからで、避難所や車中泊もしたらしい。
学校が避難所になっているので、Hさんの娘はいつから学校が始まるか分からないとも。
この日には仕事で会えなかったがもう一人の従兄弟(Yちゃんの弟)が熊本に居る。
家の壁にヒビが入って数日は避難所にいたらしい。
Yちゃんは薬剤師で、病院が井戸だったので近所の人も避難してきて、みんなでカセットコンロでご飯を炊いておにぎりを作ったりと忙しかったらしい。
Yちゃんのご主人は役場の嘱託らしく、支援物資の受け入れをして、避難所に送り出す仕事をしているという。
去年脊柱管狭窄症の手術をして回復したばっかりなのにと笑っていた。
食事の途中、震度3の地震が来て揺れた。
横にゆらゆら揺れるのではなく、したからドーンと来る。
「こんなのが、夜何度も来るのよ」と。
それでも、家が無事で仕事をしているから気が紛れてよかったと言う。
電話では大丈夫だと言っていたが、熊本は被災地なんだと実感した。
熊本城も水前寺公園もどこにも行けないので、早めの新幹線で帰ることにした。
自由席だが指定席仕様の座席。床にはツバメ。
車内販売で珈琲を飲みながら、無事に父と福岡に帰ってきた。
「なんにも無かったみたいないいお天気ね」と従姉のYちゃんが言った。
二週間程前、伯父のいる熊本で、叔母や従姉妹たちと会うことになって4月29日の新幹線をネットで予約して、翌日の朝博多駅でチケットを入手した。
伯父は南島原の実家で、一人でノンビリ暮らしていたが、緑内障が進んで一人暮らしが不自由になり、娘である熊本の従姉のYちゃんの所に身を寄せた。
仕事を持つYちゃんは、昼間一人で居るよりもと、介護付きのホームに父親を入所させた。
それを知った父は、伯父に会いに行きたいと言うようになった。
ホームに入ったとは言え、休みの日はYちゃんも頻繁に会いに行き、一緒に外食したりしていたようだが、父にしてみれば切なかったようだ。
動揺した父に、その時私は「新幹線で熊本はすぐだから連れて行くから安心して」と言った。
その後、母が亡くなり、父も前立腺がんの治療や放射線の後遺症などで通院が続いた。
後遺症の治療も一段落して、気候もよくなったので熊本に行こうと話したら、すぐにYちゃんに電話した父。
それで、29日にみんなで集まることになった。
チケットを手にした夜、熊本地震が起こった。
父がすぐに電話すると、食器やいろんなものが落ちて大変だけど大丈夫という答えが返ってきた。
それから2度目の地震。
熊本市北区はそれほど被害が出ていない様子だったが、ニュースなどで熊本の様子を見て、今回の集まりは取りやめた方がいいのではと、父が留守電を入れた。
Yちゃんからは、叔母の方にも相談してみるとのことだった。
26日、「博多熊本間の新幹線が復活したし、先延ばしにしても同じだから集まりましょう」と連絡があった。
28日には九州新幹線が、博多鹿児島中央間全線が動き始め、本数を減らして山陽本線との相互乗り入れも復活した。
29日は座席予約したチケットだったが、グリーンをのぞいて博多鹿児島中央間はすべて自由席になったため、チケットはそのまま自由席扱いで利用できるとホームページに書いてあった。
父は自由席で座れなくても行くと言う。私も覚悟して連れて行く準備をした。
予定よりも早めに家を出て博多に向かった。
新幹線のホームにはTVカメラがいくつも来ていた。
心配したが、座席に座ることができてホッとしながら熊本に向かった。
座席はほぼ満席で、ボランティアに向かう様な人たちも乗っていた。
熊本に着く前は速度を落として走行。遠目に鬼瓦が乗っていない熊本城の天守閣が見えた。
ブルーシートで覆われた屋根がチラホラ見えて、被災地の熊本に足を踏み入れるのだと実感した。
40分ほどで熊本に到着。
エスカレーターは壊れて使えないのでと車内アナウンスがあった時はちょっとビックリ。
エレベーターを待ってゆっくり降りていくと、改札口で笑顔のYちゃんが迎えてくれた。
伯父
Yちゃん夫婦
叔母
従弟のHさんと娘(小2)
従姉妹のKちゃんと息子(3歳)
総勢10名で近況や昔話に花が咲き、美味しいご飯をいただいた。
伯父のいるホームは新しく立派なので地震の影響はなかったが、水道やガスが止まり食事が2食になったりパンだったりしたらしい。
叔母は南島原で地震はやはり頻繁だという。
Yちゃんの家も、Hさんのマンションも被害は無く大丈夫だったようだが、もちろん水やガスの復旧は25日を過ぎてからで、避難所や車中泊もしたらしい。
学校が避難所になっているので、Hさんの娘はいつから学校が始まるか分からないとも。
この日には仕事で会えなかったがもう一人の従兄弟(Yちゃんの弟)が熊本に居る。
家の壁にヒビが入って数日は避難所にいたらしい。
Yちゃんは薬剤師で、病院が井戸だったので近所の人も避難してきて、みんなでカセットコンロでご飯を炊いておにぎりを作ったりと忙しかったらしい。
Yちゃんのご主人は役場の嘱託らしく、支援物資の受け入れをして、避難所に送り出す仕事をしているという。
去年脊柱管狭窄症の手術をして回復したばっかりなのにと笑っていた。
食事の途中、震度3の地震が来て揺れた。
横にゆらゆら揺れるのではなく、したからドーンと来る。
「こんなのが、夜何度も来るのよ」と。
それでも、家が無事で仕事をしているから気が紛れてよかったと言う。
電話では大丈夫だと言っていたが、熊本は被災地なんだと実感した。
熊本城も水前寺公園もどこにも行けないので、早めの新幹線で帰ることにした。
自由席だが指定席仕様の座席。床にはツバメ。
車内販売で珈琲を飲みながら、無事に父と福岡に帰ってきた。