「私」が「私の肉」を責める

 「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。
 もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。
 ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。
 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。」(ローマ7:15-19)

---

 善悪の基準はここではもちろん律法であり、「私の肉」には善がないと「私」自身が気づかされる。
 律法を奉じる「私」が「私の肉」を責めざるを得ず、これが苦しい。本当に苦しい。
 イエスは十字架で自身の身体を処分したが、「私」のこの苦しみはイエスが先に味わったものと同じである。
 そしてイエスがよみがえったのと同じくよみがえる。それは、初めからあったところのものである聖書のことばによってである。

---

 健やかな一日をお祈りします!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )