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飯能戦争の取材に飯能へ

2020年12月11日 | 
12月8日 飯能戦争は埼玉県で起こった唯一の戊辰戦争です。1868年、「朝敵」となった徳川慶喜の汚名をそそがんと旧幕臣たちが「彰義隊」を結成、上野の山に集結しました。その頭取・澁澤成一郎(喜作)は澁澤栄一の従兄であり、生涯の友でありましたが、私の曽祖父の従弟であり、また私の祖母の伯父でもありました。

    

成一郎はやがて彰義隊を出て、尾高惇忠、澁澤平九郎らと「振武軍」を結成、飯能の古刹・能仁寺を本陣にして、旧幕臣らとともに新政府軍と戦うも、衆寡敵せず、1日にして敗北、というのが飯能戦争です。振武軍頭取の成一郎、副頭取の惇忠、参謀の平九郎3人とも、わが曽祖父の従兄弟たちです。飯能戦争は私のご先祖様たちがやったこととも言えましょう・・・というわけで、飯能戦争について小文を書くため、飯能を訪れることになりました。


わが町セイセキから飯能へ行くのに、電車4回乗り換えましたよ。今回の飯能訪問をセッティングしてくださった所沢のS氏の車で飯能市立博物館へ。館長さんのご説明をうかがいながら、飯能戦争関係の展示物を拝見。


砲弾ですね。生々しい展示物が飯能戦争の激しさ凄惨さを想わせます。今日は諸般の事情から外野が多く、落ち着いて館長氏の話をうかがえなかったので、取材はまた日を改めてと考えながら、振武軍の本陣だった能仁寺へ。


能仁寺は飯能戦争で焼かれ、建てなおされていますが、めったに見られない、立派な、美しいお寺です。能仁寺に生まれ育った、前御住職夫人が迎えてくださいました。

 

本堂の後ろにある、標高180メートルほどの小高い山が天覧山(かつての羅漢山)。能仁寺が炎上すると、成一郎や淳忠らはこの山を越えて逃げ、落ち武者狩りの新政府軍をかろうじて逃れて、生きのびました。その後、成一郎は榎本武揚らとともに、最後の戊辰戦争の場となった函館へ。


能仁寺の境内の池です。能仁寺の屋根に新政府軍の砲弾が2発落ちて、寺が炎上したとき、本堂に掛かる寺号額と御朱印をこの池に沈めたそうです。

 

池の中で焼失を免れた寺号額と御朱印。逃げる前に、池に沈めたのは、雲水さんたちでしょうか、新武軍の者でしょうか。


能仁寺の境内に立つ「振武軍」を記念する石碑。建てたのは振武軍の副頭取で、後に富岡製糸場の場長になった尾高惇忠の孫の実業家・尾高豊作でした。びっくり。尾高豊作は私の両親の仲人ですもの。


紅葉が美しい能仁寺の境内。能仁寺の縁起によると、このお寺は家康の時代から徳川家の庇護を受けていたようです。なので、振武軍が本陣とすることを許したのでしょう。しかし、「義」のためとはいえ、この名刹を戦場とした振武軍の子孫として、お寺にお詫び申し上げたい気持ちにもなりました。最後は澁澤平九郎が自刃する直前に訪れた「平九郎茶屋」を再訪し、飯能を後にしました。


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