星のひとかけ

文学、音楽、アート、、etc.
好きなもののこと すこしずつ…

A+B>∞ かも…:ジュリアン・バーンズ著『人生の段階』

2020-10-07 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)

『人生の段階』ジュリアン・バーンズ 土屋政雄・訳 新潮クレストブックス 2017年



ジュリアン・バーンズが66歳で書いたこの本は 次のように始まります

  組み合わせたことのないものを二つ、組み合わせてみる。それで世界が変わる。…

このフレーズですぐに思い出すのが シュルレアリスムの定義のように取り上げられるロートレアモンの詩集『マルドロールの歌』の中の名文句、、

  解剖台の上でのミシンと蝙蝠傘の偶然の出会いのように美しい

、、ジュリアン・バーンズさんは別に『マルドロールの歌』に触れているわけではないので この詩句のことが念頭にあったかどうかはわかりませんけれど、 《組み合わせたことのないものを》《組み合わせてみる》… それが詩であり 芸術であり 創作となって そうして生まれた《世界》が作品として私たちにもたらされる。。 創造の可能性ってそういうもの。。 本を読む歓びも其処にあるのだと常々思っています…

《組み合わせたことのないもの》同士の結びつき、の 最も身近な例で、 しかも時間的には極めて長いものになり、 状態的には常に変化して一瞬も同じ形ではないながらも続いていく、 そんな究極の《組み合わせ》が《結婚》というものなのでしょう。。

この本には、 ジュリアン・バーンズさんの《結婚》というパーソナルな事例が書かれています。 第三部から…

  …三十二歳で出会い、三十年間一緒にいて、六十二歳で亡くした…

たったひと言で言えばこのひと言になる、奥さんとの結婚、そして死別、、 というきわめて私的な思い出、悲しみ、、 それを 作家ならではの《組み合わせたことのないもの同士を組み合わせる手法》で書いた本。 パーソナルな愛と悲しみが、 誰もが大空に浮かび上がる熱気球を見るように一緒に胸をときめかせ、目を見張る感動として伝わってくる、、 ジュリアン・バーンズさん さすがに凄い作家、、 『101/2章で書かれた世界の歴史』を書いた作家さんだものな、、と感動しました。。

その《組み合わせたことのないもの同士を組み合わせる手法》 というのが 三部構成になっているこの本の構成で、、

 第一部「高さの罪」は 気球乗りにまつわる歴史上のエピソード
 第二部「地表で」は  第一部に出てきた歴史上の二人が恋におちる、という架空の物語

そうして 第三部「深さの喪失」でようやく、 ジュリアン・バーンズさんの奥さまの話が語られ始める。。 でも、 でも、、 読んでいくと、 この方法でしか書き得なかった本、 この手法でしか伝えられない感情、 だというのがわかる。。 それはこういうこと、とは説明できない… でも、 何度も泣き笑いしつつ 胸いっぱいになりました。。
、、 とても愛していたんだなとも思うし、、 奥さまを亡くした後のどうしようもなさに、 困ったちゃんだなぁ、、と苦笑してしまう。。 でもその怒り、 その悲しみ、、 ぶつけるのも仕方ないよ、と思える…

さきほど引用しましたが、、 《三十年間一緒にいて、六十二歳で亡くした…》 、、それは短すぎるもの。。 
愛する時間や人生の時間は《長さ》では決められない、と言う。。 でも、 積み重ねてゆく時間というのは、 誰にもそしる権利は無いし その積み重ねの中に他者が入る余地は無い。。 誰にもわからないし 二人にしか築けなかった世界がその時間のなかにある。。 だから結婚というものが 《組み合わせたことのないものを二つ、組み合わせてみる。それで世界が変わる》という究極で最高の事例になる…

見知らぬ人と人とが出会い、 ともに生きることが 無限大の世界へ舞い上がる可能性につながる…


よい本でした。 素敵な読書でした。



だからこそ、、



この本、  ほんとうにたいせつな人には勧められない。。 今は…



わたしが死んだら読んでみて


としか、、  今は言えません…


 ***


昨日、 インフルエンザの予防接種をしてきました。 心疾患の優先枠で受けられると先生に言われて…。


オフィス街にあるクリニックまでの道、、 ようやく背筋を伸ばしてしゃんと歩けるようになったみたい。。 今年の春、 三月~四月と安静の生活で筋力がすっかり衰えてしまって、 腹部の術後もへっぴり腰でしか歩けなくて、、 ほんの少しずつ お家の中でできるトレーニングをちょっとずつちょこっとずつ続けて、、
やっと5カ月近くかかって まともに歩けるようになってきたみたい。。

何度も 何度も、 年を重ねるごとに身体が元に戻るのは大変になっていくけれど


まだなんとか頑張ってる

 

 ***

、、 わたしたちの 70~80年代を彩ってくれた二人の訃報がありました。。  KENZOさん、 お花をありがとう。。 エディ、 笑顔をありがとう。。 みんなが君を真似したよ…

椿實全作品: ランボーの語るうたかたの日々か…

2017-11-09 | 文学にまつわるあれこれ(詩人の海)
ようやく 『椿實全作品』のことを書くことができます。



『椿實全作品』 立風書房 1982年
『メーゾン・ベルビウの猫』 幻戯書房 2017年


前回も書きましたが、 今年は春先から漱石の『吾輩は猫である』の読書にとりかかり、 いろいろと調べつつ7カ月ほどかかって読み終えたのが8月。
その頃、 古い知り合いの澁澤龍彦贔屓の友人や、 三島由紀夫や安部公房論をかつて書かれた先輩と、 この秋に久しぶりにお会いできる予定が立ち、、 そこで思い出したように家の本棚の奥に何冊も重ねてある 河出文庫の澁澤シリーズを引っ張り出してあれこれ見ていたのです。

三島や安部の短編も収録されている 澁澤龍彦編のアンソロジー 『暗黒のメルヘン』1998年



手に取るのはもう十五年以上ぶりかと… でも表紙もちゃんと見覚えあったし、 いくつか読んだ記憶も、、 なのに 椿實 『人魚紀聞』という作品には全く記憶が無かったのです。。 誰なんだろう…? と読み始めて、、

(え? …なぜ私はこの作家を知らなかったの??)

小説を読んでこんな風に居ても立っても居られなくなったのは久々の事です。。 その日のうちに『椿實全作品』を探して…、、 さきほどの友人らに「椿實って作家を知ってる?」とメールして…

 ***

三島由紀夫とは同い年、 吉行淳之介らと終戦後の昭21年、同人誌『葦』創刊、 昭22年『新思潮』に発表した 「メーゾン・ベルビウ地帯」が三島や、中井英夫、柴田錬三郎らに絶賛され、 以降、次々に作品を発表。 しかし、作家としての活動は昭和22年から27年頃だけで、 わずか17作品が上記の 『椿實全作品』にまとめられた。(それも雑誌初出から 30年以上経って)

… でも、そんな作者の経歴や作品数など問題ではないのです。

当時、 三島が「天才です」というハガキをよこしたとか、 同人誌の会合で原稿を読んだ中井英夫が 「完全に負けた」と日記に記したとか、 『全作品』の解説などに書かれていましたが、、 「メーゾン・ベルビウ地帯」を読んだ私も、

「(この作品においては) 三島以上に天才です」と、 少なくとも4人くらいに速攻メールを打ちました(笑)

椿の作品群は、 終戦直後の焦土と化した東京、 上野・浅草周辺が主な舞台なのだけれど、 私たちが想像する(報道写真などの記憶としての) モノクロの焼け野原などとは全く異なり、 無になった青空から太陽が照り、 植物は瓦礫や泥沼の中から生長し、 空気を橙色に染めて日は暮れ、 夜はお客を呼ぶバラックの店にアセチレン灯が揺れる。。 その色彩の描写には生命の熱が溢れ、 廃墟から街へ変わりつつある都市の記述は生々しく鮮やか。。

そんな街に息づく踊り子や男娼や行き場のない若者たちは夜光虫のように妖しくせつなく描き出されているし、、 また、敗戦の後の空虚をかかえて、半ば焼け落ちた本郷の学び舎と浅草の劇場街をさまよう学生の「私」の霊魂(プシュケー)は、 ときにギラギラと熱をおび、 ときに優しく詩を語り、 ときに哲理を思索する。。

「メーゾン・ベルビウ地帯」の冒頭の二行だけを…


  「桜の木には桜の臭(にほひ)、椎の木には椎の匂(にほひ)、そして私も女も植物なのであつた。人間が植物に近くなるやうな、上にのみ開かれて身動きならぬ世界にゐて、ひろみは私の腕の中でだんだんにやせた。」


… たったこの二行だけでも、 三島が「天才です」と書き、 中井が「完全に負けた」と言った気持ちがわかる。

… すごく手前勝手に表現させてもらうとしたら、、 その色彩的な描写は ロートレックが彩る墨東奇譚、、 詩的文体は ランボーが語る『うたかたの日々』(ボリス・ヴィアン)、、みたいかなと。。

、、ボリス・ヴィアンの『うたかたの日々』は、 肺の中に睡蓮の花が咲く奇病にかかったクロエとの 「優しさと諧謔に満ちた笑いで描く、現代で最も悲痛な恋愛小説」と言われているけれど (早川書房>>) この紹介文はそのまま 椿實の作品群にも当て嵌まる気がする。 終戦直後の街で生きる少女らは痩せ、 命を削っていく、、 デューク・エリントンのJAZZの代りに、 並木さんの「リンゴの唄」が流れているけれど…


  「細君はそれで、白鳥買へないかなしみで、涙ぐんでしまふ。この女の頬は絹のやうにつめたい。

  ・・・庭の凹みに、ロオマ風にまるいセメント池に、オレ、羽を切った白鳥を抱へていつて浮ばせてやらうかな」 (「三日月砂丘」)


リアリズムの独白にはほど遠い、、 現実があまりに狂気と紙一重であるとき、 青年はこんな風に夢想できるのだろうか… 悲劇と喜劇、、 醜悪と崇高が入り乱れる饒舌な文章の中に、 こんな儚いロマンチシズムがふっと語られる。。

… そして読んでいる私はその文体に眩暈しながら、 ときにもらい泣きしてしまう。。


 ***

三島由紀夫と椿實とは、 先に書いたように同い年で22歳頃から交遊が始まり、 椿の結婚式にも三島が参列した写真が 今年出版された拾遺集 『メーゾン・ベルビウの猫』に載っている。

「三島由紀夫の未発表原稿」という椿のエッセイも、『全作品』の附録の中に載っていて、 三島作品の 『永すぎた春』や『潮騒』執筆と、椿との関連の興味深いエピソードも書かれている。

… 私事で言えば、 三島の短編作品は十四・五歳の頃にとくに好きで読んでいて、 『葡萄パン』という作品に出てくる ロートレアモンの詩集「マルドロールの歌」をすぐに探したこととか、 以前このブログにも書いた(>>

三島が 日本のビート族を描いた『月』や『葡萄パン』の短編は、 昭和37、8年の発表作だそうだから、 37,8歳になった(もう中年の)三島が実際にビート族の若者と一緒に渋谷だの、 鎌倉の海岸だのへ出かけたのか考えると妙な気もする。 こじつけのようだけれども、 椿作品をこうして読んだ後だと、 三島が椿實風の短編を書いてみたかっただけなのでは? と思ったりもする、、

 ***

27歳くらいで小説の発表をやめてしまった椿は、 東大大学院から教師の生活に入り、 専門の古代宗教の研究をつづけ、 日本宗教学会の発行している『宗教研究』という学会誌には、 40篇余りの論文が掲載されているようだ (日本宗教学会HP>>
古いものはすでにアーガイヴとして読むことが可能だし、 論文のデータベース化が現在すすんでいるので、 三島や芥川作品について宗教研究者の立場から椿実が書いた論文も、近いうちに読むことができるかもしれない。

他には、 椿の関係者のかたが 「椿實の書架」というホームページ上に掲載している遺稿の中に 「三島由紀夫と「天人五衰」」という論考があって、 これは三島の最期の作品 『豊穣の海』で語られる仏教思想や、 第四部「天人五衰」の意味、 転生のこと、 空のこと、 少年のこと、、など、 あらためて重要な意味を示唆している論考だと思いました。 検索すれば読めますので、関心のあるかたは是非。。





ちょっと話はとびますが、 前田愛先生の 『都市空間のなかの文学』という名著があります(amazon>>)。 その中に 川端康成の 『浅草紅団』を扱った 「劇場としての浅草」という章と、 終戦直後のその界隈について書かれた「焦土の聖性」という文があります。 

前田先生の本には 椿實のことは出てきませんが、 文学テクストの中の都市空間を考える素材としても、 終戦直後に書かれた椿作品の 上野、浅草、本郷界隈の細密な描写はものすごく貴重なものだと思うのです。

もちろん短編小説としての描写の見事さ… 中井英夫の解説にある 「焼跡も闇市もたちまち虹彩を帯びて輝き出すような作風」の価値から言っても、 『椿實全作品』が絶版のまま入手困難なのは残念なことだし、 都市小説という資料的価値からみても、 ぜひ再版あるいは 文庫化されることを期待したいものです。

漱石読者としては、 三四郎の学び舎や、 弥生町とか 周辺の坂とか、 上野の森や不忍池などが、 昭和の大戦直後にどのようであったか、、 椿作品のリアルな描写に胸を突かれる思いがいたしました。。

まだまだこれから先も読んでいくでしょうし、 椿と三島、 中井英夫作品や稲垣足穂作品など、、 新しい視点でまた読み直したい欲求が強まってきました。 『全作品』の出版が82年ですから、 かなり遅きに失すという出会いでしたけど、 めぐりあえて良かったです、 椿實という人に…

、、 蛇足ながら、、

『椿實全作品』がとても入手困難だからといって、 今年出版の 『メーゾン・ベルビウの猫』のほうを先に読むということは止した方がいいと思います、絶対に。。 なんとしてでも『全作品』の方から先に読んでください。

  ほんとに「天才です」から…


ロートレアモンとシュペルヴィエル

2013-01-22 | 文学にまつわるあれこれ(詩人の海)
さっき、、 米ラジオKCRWを聴いていたら、 坂本龍一(Ryuichi Sakamoto)さんの「Merry Christmas Mr.Lawrence」がかかりました。 おそらく、、 大島渚監督を追悼してかけてくれたのでしょう。 なんだかうれしかった。

Track Listの現地時間を見ると 2:10AM でした。。 日本で言うところの 草木も眠る丑三つ時。 龍一さんのピアノ曲が流れているあいだ、 この部屋もしんと鎮まった空気につつまれました。

 ***

その時、 ちょうど読んでいたのが シュペルヴィエルの小説で、、 小説の話はまたにしますが・・・

シュペルヴィエルが 故人ロートレアモンに捧げてつくった詩を。。

不勉強なのでロートレアモンもフランスの詩人としか思っていませんでしたが、 生まれは南米ウルグアイの首都モンテビデオという所なのですね。 そしてこのモンテビデオからは3人のフランス文学史に名を残す詩人が生まれていて、

ジュール・ラフォルグと、 ロートレアモンことイジドール・デュカスと、 そしてジュール・シュペルヴィエル。 そうだったんだ・・・


「ロートレアモンに」 という詩は次の一文から始まります。

君が出て来るかと思って、僕は到るところの土を掘ってみた。

 ・・・・・

第三節を引用します↓


或る日僕は、フェルナンド・ノロニャ島附近の大西洋上で君と行き会った / 君はその時、波の形をしていた、ただし只の波ではなく、より真実な、よりきまじめな波だった / 君はウルグヮイへ向って昨日も今日も急いでいた。 / 他の波たちは君の不幸に悠々敬意を表して、わざと君から遠ざかった、 / たった十二秒の生命で、あとは死んでしまう彼らだが / 君のためにはその短い生命を捧げて惜まない彼らだった、 / だが君は、同じく自分も消えると見せかけた / 他の波たちが君も一しょに死んでくれたものと思って安心するように。 / 他の者が橋の下に宿るように君は住居として海を択ぶ男だった / それなのに僕は女と調理場の匂いのする船の上にいて / サン・グラスの後に目を隠していた。 / タンゴにくすぐられて激怒しているマストへ音楽は昇って行った / 君は一八七〇年以来死んでしまっていて精液も出なくなり / それでも平気だと人に思わせるため波にまで身をやつしているのだと思うと / 僕は恥しかった、生きた人間の血の流れている自分の心臓が。

   (堀口大學訳『シュペルヴィエル抄』より)

 ***

前に何度か書いた シュペルヴィエルの短編「ノアの方舟」に出てくる 「泳ぐ男」のイメージも、、 こんな風に 大西洋の波に変容したロートレアモンの魂を、 自分も大西洋を渡ってフランスと南米を行き来しつつ考えていた、、 それと少しは関係があるのかもしれないな、、と思いました。

両者に共通する 「変身」「変容」する登場人物、、 ということも、 南米出身という共通点で考えるとなんかわかりそうな気もする。


シュペルヴィエルは心臓が悪かったんですって。。。 その話もまたいずれ・・・


ジュール・シュペルヴィエルに関する過去ログ>>
マルドロールの歌(ロートレアモン)に関する過去ログ>>

鯉の歌。。

2011-10-30 | …まつわる日もいろいろ
たまに 自分でもよくわからない夢を見る。 おととい見た夢、、


ミシシッピ河くらいの大きな河で、 私は観光ボートみたいなのに乗っていて、、

ほかの人が 水面をばしゃばしゃ手で叩いたら、 ちいさな 30センチくらいの鰐が水面をちかづいてきて、、 おとなしく頭を撫でてもらったりしている。。。 

(あ、、いいな やってみたい) と思って、、 私も水面をぱしゃぱしゃ叩いたら、、

1メートルくらいありそうな おっきな紫紺の鯉が すーっとちかづいてきて、、 私の手元にくると、、 くるっと横向きになって、、 それで 胸のヒレとお腹のヒレとで 私の腕をはさんで しっか、と 掴んで離さない。。。 鯉がヒレでそんなことできるのかわからないけど、、 私は鯉にぎゅぅっと抱きつかれたまま

(ど、、どうしよ、、) って。。


、、すると、、 水の中から、、 鯉が鳴いているような、、 歌っているような、、 ふしぎな声が聴こえてきた。。。 私は 紺色の巨大な鯉さんに抱きつかれたまま、、 どうしていいかわからなくて、、 なんだか とってもせつなくなってしまったところで 目が覚めました。。。


マルドロールの歌じゃあるまいし・・・


鯉にハグされたのは はじめてだ・・・



the beat generation と三島

2006-01-19 | 文学にまつわるあれこれ(ほんの話)

   当時東京ではツウィストが流行しはじめ、ビート・バアがいくつか店を開いた。
   ・・・(中略)・・多分、かれらの生活は、短篇小説の題材にしか適しないので
   あろう。流行は去り、かれらも年をとり、さらに滅茶苦茶な新しい世代へ代が替
   って、かれらも、かれらの青春も、一時期の新宿界隈も、そして作者の私自身も、
   過去に向って埋もれることになった。


 ***

三島由紀夫自選短篇集『真夏の死』(新潮文庫)の解説、『葡萄パン』という作品に対するものである。これを読んだのが15才。『葡萄パン』の〈透明な存在〉ジャックは、以来私個人の中ではずっと(勝手に)トム・ヴァーレインなのだった。〈ビート・バア〉という言葉は解らなかったけれど、70年代のNYアンダーグラウンドもまあこんなもんだろうと、、。小説の中でジャックが読む『マルドロールの歌』の本をすぐに探した。田舎の書店ではなかなかみつからずに(注文しようという気など当然無かった)、読むまでに1,2年かかった気がする。

トム選曲のRadioの最後に「the beat generation」という曲がかかった。
「ああ、、」と思って、『マルドロールの歌』をまた引っ張り出した。
ジャック=トムと想像していた子供には強烈すぎたマルドロールが、今読むと何とも〈ピュア〉なのであった。。
〈ビート・バア〉も、、「the beat generation」で歌われた情景、あの古めかしい音と共に「ああ、、」なのであった。。ついでに、主人公の名前、、そうだ、〈ジャック〉だ。
それで、、(Radioのお喋りを聴いて)、、やっぱり今もジャックはトムなのだと思う。

15才の読書もムダにはならないものらしい、、。