星のひとかけ

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『吾輩は猫である』第十章 己を知るという事

2017-06-14 | 文学にまつわるあれこれ(漱石と猫の篭)
 ー Twitter 星の破ka片ke からの転記 ー

「己を知る事が出来さへすれば人間も人間として猫より尊敬を受けてよろしい。其時は吾輩もこんないたづらを書くのは気の毒だからすぐさまやめて仕舞ふ積りである」 十章で吾輩はこのように言います。つまり、人間は己が見えていないがゆえに面白い、その面白さを描写すること。十章では『猫』という作品のひとつの到達点が見えてきます。

【十章 古井武右衛門くん】
雪江さん登場からの諸々のエピソードについては追々みていきますが、先に…

艶書事件で退学になりはしないかと相談に来た《武右衛門くん》
苦沙弥には「そうさな」しか言ってもらえず、寒月さんに横入りされて話も出来ず帰っていくのが、可哀相で可哀相で…

【十章 武右衛門くん】
退校を恐れて先生に相談に来た武右衛門くんに、苦沙弥は「そうさな」しか言わず、細君と雪江さんは陰で笑っている。武右衛門くんは可哀相に帰っていく…💧
冷酷な意味がすこしだけわかってきました。。

「笑われる抔とは思も寄らなかつたらう。武右衛門君は監督の家へ来て、屹度人間について、一の真理を発明したに相違ない。彼は此真理の為に…人の心配には冷淡になるだらう…かくの如くにして天下は未来の武右衛門君を以て充たされるであらう。金田君及び金田令夫人を以て充たされるであろう」

(承前)
「みんな逆(さか)なのね」という十章のキーワードは、この武右衛門君のエピソードにも機能していたのですね。これまでは「金田君及び金田令夫人」が代表する《世間》が苦沙弥家に意地悪をし弱らせようとしてきたわけですが、武右衛門君の前でそれが逆転する。苦沙弥らが金田になる。

(承前)
「武右衛門君一人の運命がどう変化しやうと、主人の朝夕には殆んど関係がない。関係の薄い所には同情も自から薄い訳である」これが吾輩の主人評。
「武右衛門君が困るのが難有いのである。諸君女に向つて聞いて御覧、『あなたは人が困るのを面白がつて笑ひますか』と」こちらが女性達評 

(承前)
実際に苦沙弥が武右衛門君に冷酷な処置を考えていたわけではないでしょうし、女性たちも武右衛門君の艶書事件が全く問題になっていない事を分かっていて、悩む必要はないのに悄然としている姿をつい笑ってしまっただけかもしれません。でも吾輩はそこに金田と同じ性質を見たのですね。

(承前)
「冷淡は人間の本来の性質であつて、その性質をかくさうと力めないのは正直な人である」と吾輩🐈は言います。
主人の冷淡も、女性らの笑いも、《正直》ではあるが《誠実》ではない。誠実という語も何を以て誠実といえるか曖昧なので、世間的な《人情》とでも言いますか。

(承前)
武右衛門君に対して《人情》のある対処をしないから、《可哀相》と感じたのですよね

(承前)
独仙の演説「いざと云ふ場合にはどうか馬鹿竹の様な正直な了見で物事を処理して頂きたい…人間は魂胆があればある程、その魂胆が祟つて不幸の源をなすので…」
《正直》という観点からだと、冷淡な苦沙弥も、笑う女達も正しいことになる。
吾輩🐈が指摘するのは《誤魔化し》のこと。

(承前)
「人間がそんなに情深い、思ひやりのある動物であるとは甚だ受け取りにくい…時々交際のために涙を流して見たり、気の毒な顔を作って見せたりする許りである。云わゞ胡魔化し性表情で…此胡魔化しをうまくやるものを芸術的良心の強い人と云つて、是は世間から大変珍重される」

(承前)
一個の人間の中の表と裏。
《胡魔化し性表情》で意図的にこしらえた《芸術的良心》に対して、人間の《正直さ》とはごまかすことのできない《本質》であると。拵え物でない正直な心のほうが実のところ本人にはわからない。

(承前)
のちに漱石が考え続けた《人の心》の不可測。
「平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです」『こころ』

心を描写する萌芽が『猫』のなかに見えるようです。

(承前)
己の真の姿が見えていない点が《面白い》
「己を知る事が出来さへすれば人間も人間として猫より尊敬を受けてよろしい。其時は吾輩もこんないたづらを書くのは気の毒だからすぐさまやめて仕舞ふ積りである」

不可測であるから書く。←ここに《描写》する意義を発見したのですね

(承前)
「吾輩が面白いというと、何がそんなに面白いと聞く人があるかも知れない…人間にせよ、動物にせよ、己を知るのは生涯の大事である…然し自分で自分の鼻の高さが分らないと同じ様に、自己の何物かは中々見当がつき悪くい…」
主人も細君も雪江さんも、自分の事が分かっていないと。

十章で、雪江さんと武右衛門君の登場によって《己の本性を自覚する》という問題に視点が移ります。己を自覚する、というより、いかに己の心が《自覚できない》もので、いかに《心》が外界につられて容易く変化する、とらえどころのないものであるか。

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2017年6月14日
十章で、雪江さんと武右衛門君の登場によって《己の本性を自覚する》という問題に視点が移ります。己を自覚する、というより、いかに己の心が《自覚できない》もので、いかに《心》が外界につられて容易く変化する、とらえどころのないものであるか。🐈 #漱石

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2017年6月13日
(承前)
己の真の姿が見えていない点が《面白い》
「己を知る事が出来さへすれば人間も人間として猫より尊敬を受けてよろしい。其時は吾輩もこんないたづらを書くのは気の毒だからすぐさまやめて仕舞ふ積りである」

不可測であるから書く。←ここに《描写》する意義を発見したのですね #漱石

(承前)
十章の苦沙弥、細君、雪江さんは、それぞれ己の心に《正直》な言動をとっているのだと思います。子供たちが正直なのは無論です。
「不可思議、不可測の心」と吾輩🐈は書いています。一瞬で変化し、他者からは測り難い三種三様の心、その変化する言動を、敢てありのまま描写する。

(承前)
「不可思議、不可測」に動く心に正直な言動の人間を《ありのまま》描写すると、かくもバラバラなディスコミュニケーションの場となるという滑稽が十章の総体かと。

細君が皿眼で盗品を確かめる横で苦沙弥と雪江が言い合い、武右衛門君は笑われ、寒月の登場で無視されて帰っていく。

(承前)
九章までの吾輩🐈は、苦沙弥の家という小宇宙の中から金田や落雲館や洗湯などの世間という大宇宙の人間模様を観察していたのですが、十章で宇宙の表と裏がひっくり返る。そして苦沙弥(や雪江さん)という個の人格の中にまた大宇宙と同じものを見い出す。個の中の表と裏が見える。

八章のおわりの独仙の言葉
「心さへ自由にする修養をしたら、落雲館の生徒がいくら騒いでも平気なものではないか」

己の《心》を自分自身で把握(自由に)すること。すでに八章で問題にしていました。(個の心の問題であれば、独仙の言うように消極的修養で安寧を得ることもできるだろう
「落日を回らす事も、加茂川を逆に流す事も出来ない。只出来るものは自分の心丈だからね。心さへ自由にする修養をしたら、落雲館の生徒がいくら騒いでも平気なものではないか」
でも問題は個ではないようだ )

九章の始めで苦沙弥は鏡であばたを気にしていました。そのとき吾輩🐈はこう述べています。
「凡て人間の研究と云ふものは自己を研究するのである。天地と云ひ山川と云ひ日月と云ひ星辰と云ふも皆自己の異名に過ぎぬ」

(承前)
その前の文でこうも言っていました🐈
「主人は見性自覚の方便としてかように鏡を相手にいろいろな仕草を演じているのかも知れない」
*見性自覚=自らの本性を覚ること。自分の中に本来より備わっている心を自覚すること。

(承前)
けれども「あばた」という外形に囚われている苦沙弥に、己の本性を自覚することは出来ません。九章は
《人がいかに「形」に囚われ、本質を見ないか、という構成の章なのでは?》と書きました。(前に、九章の構成がわからないと書きました
苦沙弥が鏡を覗き、西洋では教育のある者にあばたはいないと聞いて、西洋化に取り残された気持ちになるところから始まる章…人がいかに「形」に囚われ、本質を見ないか、という構成の章なのでは?)

【鏡】
まず鏡=虚像に思い悩む姿が象徴的だと思いますが、洋行帰りの友人が西洋ではあばたは「あつても乞食か立ん坊」と言うように、「外貌」が人格や階層の判断材料とされる時代です。衣装ひいては肉体が人間の「我」の象徴であり、社会構造そのものである、という事は七章のカーライルの論でした。

「馬鹿あ云つてら、あれは刑事だね」
「刑事があんな《なり》をするものか」
「刑事だからあんな《なり》をするんぢやないか」(なり…傍点)
《なり》をわざわざ強調するのも、形体(見た目)に惑わされている証拠。

「とかく物象にのみ使役せらるる俗人は、五感の刺激以外に何等の活動もないので、他を評価するのでも形骸以外に渉らんのは厄介である」
《形》に囚われる者は《本質》を見ない、と、すでに五章で語られていたことも挙げました。

「吾輩は猫である。猫の癖にどうして主人の心中をかく精密に記述し得るかと疑ふものがあるかも知れんが、此位な事は猫にとつて何でもない。吾輩は是で読唇術を心得て居る」
主人の「心=本質」を精密に記述し得ると書いているが、外形や外聞に惑わされた思考だから、その心を代弁しても本質は見えない 誤記訂正: ×読唇術 〇読心術

これもまた、虚像に始まった章のおわりに、虚像を写すという漱石の皮肉なのかもしれない。

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