星のひとかけ

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ジュール・シュペルヴィエルの小説 1 『火山を運ぶ男』

2013-02-06 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)


シュペルヴィエルの中~長編小説を3作まとめて読みました。 うまく書けそうもないけど少し感想書いておこうと思う。

前に読んだ短編…『海に住む少女』の繊細さ、はかなさ、 『ノアの方舟』のそこはかとないユーモアと慈愛、、 それらのイメージとはかなり違う。 もっと荒唐無稽で、 シュール、、 滑稽、 意地悪? あるいは 哲学的・・・

ロートレアモンのところでも書いたけれど(>>)、 南米の大草原や大農場のもとで育ったラテン気質と、 フランスと南米をなんども船で行き来していた「移動」や「変転」のイメージが どの作品にも強く出ていて、、 たしかに『海に住む少女』などの短編でも さまざまな「変身」は書かれていたけれど、 短編作品のファンタジックな、 天使のはからいのような「変身」とはちがって、 長編作品の中の「変身」は もっと実存主義的な意味合いがある感じ。。

『日曜日の青年』の解説のところに 「ラテン系のホフマン」とあったけれど、、 「ラテン系のボリス・ヴィアン」、、 みたいな感じもした。 

 ***

『火山を運ぶ男』(妖精文庫〈24〉) 月刊ペン社 1980年 嶋岡晨訳
1923年 39歳のとき刊行。 原題は(パンパ=大草原 の男、という意味)

<訳者あとがき より>
南米の大草原(パンパ)をわがものとしている五十男、大地主(エスタンシエロ)のグアミナルは、人生への倦怠をまぎらわせるため、人工的に火山を構築するが、新聞でたたかれる。生まれた国への愛想づかし、グアミナルは、火山を解体し、パリに運ぶことを思いつく。


どうして「火山」なんだろう、、 「火山」ってなんだろう。。。

確かにフランスに火山無いからね、、 「山」すらほとんど無いからね、、。 フランスはどこを見てもミレーの絵画みたいにずっと平坦で 彼方に高い山が見えるでもなく茫洋としているんだって 仏文の先生が言ってたっけ。。 

だからきっと「火山」なんだろうな。。 南米的な何か。 南米的父性とか、 男性性とか 野生とか、、 ラテン的熱情みたいなもの。。

、、だけど 海を渡ってパリにやってきたものの、、 なんだか「火山」の出番がないぞ、、(笑)

、、しまいに 「爆発」してしまうのは主人公グアミナルのほうだったりして。。。 なんだか ヴィアンの『北京の秋』にでてくる マンジュマンシュ先生を思い出した・・・


好きな部分は、、 大西洋を航海中 人魚(セイレン)が捕らえられて、 船長とグアミナルと人魚の3人で酒をのむところ。 人魚は船にへばりついて、 髪から薬液を発して船を麻痺させて沈めるんだって、、 すてき(笑)

この人魚は「825号」って名前なんだけど、、 シュペルヴィエルの短編に「人魚八二五」という作品があるらしい。 翻訳は… されてないのかも(検索しても出てこないから)。。。 こういう風に、 小説の中のモチーフが別の短編とか、 詩になっていたり(逆かも、、 詩→小説?) そういうのも面白い。

 ***

もうひとつ、、 トリヴィア的な覚え書きとして、、

『シュペルヴィエル抄』(小沢書店)の年譜によると、 シュペルヴィエルは第一次大戦中の1914年、 軍の情報部で 郵便物の検閲をしていたところ、 「ここに接吻します」とだけ書かれた不審な空白のある手紙から 「あぶりだし」メッセージを発見し、 それがかの有名なマタ・ハリの逮捕につながったそう。。 すごい話ですね、これ。

で、、 たぶんその体験を使った部分が 『火山を運ぶ男』にも出てくる。。 電燈に透かすと文字が読める手紙、、 それによって女と出会うことが出来る。 

 ***

ストーリーとして面白いとか読み応えがあるとか そういう観点よりも、 パリの中の南米男という「相容れなさ」「ぎこちなさ」、、 異邦人として外界を見つめるその違和感の描写力は さすが詩人だわ。 

外界との相克によって 自己はますます肥大していく、、 「私」とは何? 何者? そのテーマは 『日曜日の青年』にも共通していくのですね、、、 そちらの作品についてはまた。


『ひとさらい』大和書房 1979年 澁澤龍彦訳 (薔薇十字社刊 1970年もあり)
1926年 42歳のとき刊行。


『日曜日の青年』思潮社 1980年 嶋岡晨訳
1952年 68歳のとき刊行。


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