星のひとかけ

文学、音楽、アート、、etc.
好きなもののこと すこしずつ…

憂愁と忘却…

2023-09-07 | …まつわる日もいろいろ
9月も早7日です。 

今朝はすこ~し涼しさが感じられましたが 暑さはなかなか遠のきませんね。。 それで左サイドバーの音楽は涼しげなものをえらびました。 それぞれのコメントはしませんけれど、 三番目の cosmo jazz というのは シャモニーで行なわれるフェスなのだそう。。 アルプスの山々が美しいです。 こんな場所で音楽が聴けるなんて気持ちが良いことでしょう。。

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前回の オランダの文豪が創造した日本の物語『慈悲の糸』を読んでから、 海外の人が著した日本というのが面白く感じられ、 他国のかたが書いた本をいくつか読んでいます。 寺院や、 庭園や、 和の住まいや、 和食や、、 外国の方はこんな風に感じるのね、、と 興味深く思う部分も多いものの、 西欧とは異なるというだけですべてのものに禅の思想とか宇宙観を見いだそうとするような点には (それは考え過ぎでは…)と首をひねったりも、、

、、ちょっと悲しかったのは、 日本の文化は不幸を受け入れることで成り立ってきた、、というような記述を見たこと。。 ずっとずっと古い時代から自然災害にみまわれつづけ、 それをあきらめとして受け入れることが日本庭園などの自然観に繋がっている…? う~む・・・

たしかに、、 いつの時代にも大きな災害はありました。。 そのことで私たちは不幸、と感じてきたのかな…? 不幸だと諦めてきたのかな…? 日本人の幸福度が低い、という調査もたしかにありましたけど、 それは災害が多いから幸福ではない、との回答ではないと思うし、、 自然の脅威を不幸、ととらえる意識はなんだか違う気がする。。

無常観と 不幸と勘違いしているんではないだろうか、、と思ってしまいました。。 無常観がわからなければ 日本のお庭もお茶も家々のしつらえも、、 たぶんわからないのではないかと… 

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そんな読書もありつつ、、 一方で 恥ずかしくなるくらい自分が勘違いしていることを気づかされたりも。。 前回の《かぐや姫》の物語もそう…

月からの使者がかぐや姫に「羽衣」を纏わせるのは、 空へ舞い上がるため、と思っていましたが、 あらためて竹取物語を参照して、 あの「羽衣」は記憶を消すためのものだったと知りました。 羽衣をまとうとこの地上での「憂い」や「物思い」を忘れてしまうのだと…

だから、 月の姫に嵐の神は 「お前の名は憂愁だ。またの名は物思いだ」 と言うのですね(前回) 嵐の神は竹取物語には出てこないと思いますけど…(たぶん)

空へ舞い上がる為の「羽衣」というのも けっして間違っているわけではなくて、 風土記の羽衣伝説などでは 羽衣がないと天女は天へ帰れないとあります。。 (羽衣伝説>>wiki)

、、そんなあれこれを考えていたら、 バレエ・リュスでニジンスキーが踊った「牧神の午後」、、 あのなかで 泉に水浴していたニンフの一人が 逃げ去る時にヴェールを落としていきます。 あれは「羽衣」の意味とは違うのかしら…? 

ニンフは「精霊」。 天に棲んでいるわけではないから ヴェールを落としても帰れなくなるわけではないのか…。 でもきっと ヴェールを落としてしまった精霊はなにがしかの力を失ってしまうのではないかしら… だからきっと困るはず…

だから だから、、 きっと もう一度牧神の前に 返してください… って現れるか、、 それかもし 牧神の処へは怖くて行かれずに かと言ってニンフ達のもとへも帰れず、、 ヴェールを失くした精霊がひとりぼっちで森をさまよいつづけているのかも…


前々回の ミラン・クンデラさんの『不滅』の、 勿忘草(forget-me-not)のことから 思いがけず「憂愁」と「忘却」についての繋がりが生まれてしまいました。。 忘却の羽衣を着て月に帰った姫さまはもう憂いを忘れてしまったでしょうか… ヴェールをかき抱く牧神はかなしいでしょう… でも ずっとニンフのことを忘れないでしょう… 

ヴェールを失くして彷徨い続ける精霊は やがてもののけになるのでしょうか…

ANÚNAの歌う 「もののけ姫」の歌をききながらそんなことを想ったり…



月の光にざわめく心…



憂うこと それは不幸なのでしょうか…


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明日は 嵐の神が近づきそうです…



お気をつけて…