尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

永井愛の新作「ザ・空気」-心に鋭く突き刺さる刃

2017年02月02日 21時15分34秒 | 演劇
 永井愛の新作「ザ・空気」(二兎社公演)が東京芸術劇場シアターウェストで上演中。(2.12まで。)あるテレビ局のニュース番組をめぐり、「政権の圧力」を気に掛ける人々と番組スタッフの攻防を描いている。今や新作を必ず見ようという劇作家は、僕にとって永井愛ぐらいか。2014年秋の「鴎外の怪談」以来の新作である。歴史や家族に材を取ることも多い永井作品だけど、今回はまた日本の現実を鋭く問う作品である。見るものの心に突き刺さる刃の鋭さは、永井作品の中でも随一と言えるかもしれない。他人事で見ていられる劇ではない。

 劇は7時に開演し、休憩はなく8時45分頃に終わった。非常に凝縮された悲喜劇で、特に舞台装置をうまく使った人物の出し入れが絶妙。巧妙な劇作と演技のアンサンブルを堪能できる傑作である。だけど、そういった劇作の技術をノンビリと楽しんでいられる内容ではない。東京の高校の国旗国歌問題を描いた「歌わせたい男たち」(2005)を超えるような、現実の日本を厳しく見つめる作品である。

 あるテレビ局の夜の報道番組「ニュース・ライブ」。「総務大臣のおばさん」によるテレビ局の電波取り消し発言があった年、つまり、2016年の話である。それに対し、各社のニュースキャスターらが抗議の記者会見を行った。それは記憶に新しいことだろう。この番組では、ドイツの放送のあり方を取材し、日本の現状も取り上げる「報道の自由を問う」という特集企画を取り上げることにした。

 そして、放送当日を迎える。劇は(最後の短いシーンを除き)一日だけ、それも放送局内部で進行する。主に会議室(と思われる一室)が主舞台で、そこが折に触れ他の階などに変わる。その場所が「訳あり」なんだけど、それは後で触れる。編集長の今森田中哲司)は、よくその部屋に行くという。そして、その日アンカーの大雲木場勝巳)やキャスターの来宮若村麻由美)もいつもより早く局に来ている。一度は決まったはずの特集が訂正した方がいいと大雲が言い出しているというのである。

 実はアンカー(視聴者に対して番組を取りまとめる役)は変わったばかりらしい。前任の「桜木」なる人物は、福島へ通って独自取材を続けるなど、ジャーナリストとして筋を通していた。ところが追い詰められて、社内の一室で自殺してしまった。代わりに新聞社出身で保守的な大雲がアンカーになり、「政治的公平性」を主張するようになった。大雲は今回のコメントを3か所訂正した方がいいという。今森がよく行く部屋は、実は前任アンカーの桜木が自殺した部屋だった。以前は桜木からいつも責められていた今森だけど、彼の死後は逆に局内で「桜木ってる」と言われているらしい。大雲とは正反対の立場である。ドイツに取材に行った来宮も大反対。その右往左往のすったもんだがどう決着するか。

 ここで、あと二人の登場人物に触れないといけない。一人は、ディレクターの丹下江口のり子)である。彼女も報道の自由を守りたいと思っているが、自分の立場は弱いことを自覚している。だから、来宮のように強くなれない。立場上「受け」の演技が多くなるが、それが絶妙の味を出していて、とても印象的な演技だった、もう一人、若い編集マン花田大窪人衛)という人物がいて、訂正するも何も、実際の映像を処理するのは彼の仕事である。彼は言われた通りに編集する立場で、右往左往するしかない。丹下は他の主要な3人より下の立場だが、花田よりは上だから彼にはムチャを言う。このあたりの「現場」の複合的な構造がうまく描かれている。

 ところで、この「訂正」をめぐる問題は、単に「世の中の空気」の問題ではない。なぜなら、放送局に直接要求をぶつけてくる人々(保守派やネット右翼など)がいるのである。この特集に対しては、予告を見た「放送の政治的中立を求める国民の会」(だったかな)から、大雲のところに手紙が届く。また、少女と称して「アニメ声」の電話がかかってくる。(この場面はすごくおかしくて、場内で大笑いである。)これは現実にある会がモデルである。安保法制や総務大臣発言をめぐって、意見広告を新聞に出すなどの活動を繰り広げた「放送法遵守を求める視聴者の会」のことだろう。産経新聞や読売新聞に公告を出すから、見たことがないという人もいるのかもしれないが。

 そんな現実の中で、われわれはどう生きるべきか。劇の中で登場人物たちは、どんどん「後退戦」を余儀なくされていく。いったん、「現場の知恵」で少し譲ると、今度はより上層の意向でもっと削れと言われる。それに対して、少し譲るのもやむなしと対応すると、もっと踏み込んで譲れと言ってくる。「ニュースを全部録画して、政権寄り、政権反対、どちらでもないの時間を計算しているような官邸だぞ」ということである。僕らの社会はもうそこまで来ているのである。

 この劇の中の人物の生き方は、まったく意外でも何でもない。それは「歌わせたい男たち」から10年以上たった学校を見てみれば判るだろう。昔は組合幹部で「日の丸君が代の強制反対」と言っていた人が、校長になると職務命令を出すしかなくなる。それどころか、儀式のときには舞台上の旗に、頭を下げて偶像崇拝に余念がない。そういうことは日本中のどこの現場でも起こってきたことではないか。

 今森は「中立というけど、世の中がどっちかによると、真ん中にいるつもりでも、どっちかにずれている」というようなことを言う。この劇の中見は単に劇というフィクションの世界の話ではない。日本国民は、日本に「言論の自由」があるつもりでいるかもしれない。テレビは能天気にヴァラエティやクイズを放送し続けるけれど、テレビでは多分ニュースに報じられないこともある。(例えば、辺野古への基地移転反対運動のリーダー、山城博治氏が微罪で逮捕勾留され、すでに3か月にもなり、アムネスティ日本支部が釈放を求めているといったニュースである。)

 永井愛さんの「シングルマザー」はNHKでドラマ化されたが、今度の「ザ・空気」はちょっとテレビではできない。それどころか、ニュースでも紹介していないのではないか。そういう劇を今はまだ上演できるということが、大事である、ラストでは、2年がたっている。「もう憲法が改正されたのよ」と登場人物が言う。言論の自由を問題にできるような社会ではなくなっているというのである。現実では、まだ憲法は改正されていない。「今が正念場なのだ」というメッセージなんだと思う。メッセージ性で語るだけでは惜しいウェルメイドな喜劇でもあるんだけど、やっぱり今は劇のメッセージをまず紹介したいと思う。
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