尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

そもそも「二重国籍」は問題なのか-政治家と国籍③

2016年09月25日 22時43分42秒 | 政治
 そもそも政治家にとって「二重国籍」だと問題が起きるのだろうか。今まで、その根本的な問題が、きちんと考えられていないと思う。深く考えていくと、「二重国籍」を問題視する考えは、「国家主義的な国家観」によるものではないかと思われるのである。

 ちょっと考えると、国会議員は国政の進路を決定するわけだから、「二重国籍」だと「どっちの国の利益を優先するのか」という問題が起きそうに思う。この「利益相反」というのが、一番最初に言われるんだろうと思う。確かに、弁護士が民事裁判で原告側、被告側双方の代理人になったりしてはおかしい。(もちろん禁止されている。)だけど、その場合は弁護士は仕事でやっているわけだから、「争っている双方から弁護料を得る」ことになり、おかしいのは誰でも判る。

 しかし、蓮舫氏は日本国の国会議員しか務めていない。今まで「二重国籍者」が、同時に二つの国の要職を務めたり、国会議員になったことはないんじゃないかと思う。同時に二つ以上の国の政治家になるのは、その場合は確かに「利益相反」の恐れがあるから問題だろう。でも、アルベルト・フジモリの場合だって、ペルー大統領は辞任していた。世界を見てみると、元ジョージア(グルジア)大統領のサアカシビリは、2012年の大統領選挙に敗れた後、事実上ウクライナに亡命状態にある。同地でポロシェンコ大統領の支持でウクライナ国籍を取り、オデッサ州知事に任命された。そういう人もいるわけだが、同じ時期に両方の国の要職を務めたわけではない。

 だから、「二重国籍」が問題なのではない。もちろん蓮舫氏が台湾立法院選挙に出るというならば問題だけど、そんなことではないのだから。でも、それを問題視する人がいる。民主政治における「国会議員」(地方議員も)の意味を判っていないのかもしれない。蓮舫氏が「誰を代表するか」と言えば、それは「日本国民」を代表している。日本の国政選挙に当選するというのは、そういうことである。参議院の東京選挙区から選出されているが、東京都民の代表ではない。国会議員は地方の利益代表ではない。どこで選出されても、日本国民全体の代表となる。仮に「二重国籍者」であったとしても、議員は選ばれた代表なのだから、その議員を選んだ国しか代表できない。だから問題ないのである。

 だけど、なんとなく「二重国籍」だと問題に思ってしまうのは、「古い国家観」というか、昔ながらの感覚があるんじゃないか。「二つの国に忠誠を誓えるのか」といったような。でも、政治家に限らず、国民全員が、何も「国家に忠誠を誓う」必要はないはずである。君主制国家における「二人の君主に仕えるのは不忠である」みたいな感覚ではないかと思う。今の民主政治では、国会議員は主権を持つ国民の代表である。だけど、自民党改憲草案では「天皇元首化」「国防軍設置」などが明記されている。そういう感覚で見れば、「二重国籍者」は「天皇に対する不忠の輩」と批判されるのかもしれない。

 大昔の中国に、「伯夷・叔斉」(はくい・しゅくせい)という兄弟がいた。殷が滅んだあとに、周に仕えることをせず、山奥で隠者となって山菜を食べていて餓死したという。この兄弟が儒教では聖人とされ、「二つの王朝に仕えなかった姿勢」が理想とされた。日本の武士の考えの中には、「主君の家」どころか「主君個人」に恩顧を受けているという意識から、主君の死後に「殉死」することさえ江戸初期まで見られた。武士というのは、本質的に戦争が仕事という存在だから、戦争で「味方を貫くか敵に回るか」は命を懸けた決断となる。そこで、武士にとっては「絶対に主君を裏切らない」というのが、至高の道徳とされたわけだろう。

 でも、現代の民主社会では、国民には自国の戦争を批判する自由もある。それどころか、日本は「国際紛争を解決する手段」としての戦争を憲法で放棄した。大日本帝国憲法にあった「兵役の義務」も今はない。「徴兵制度」は憲法違反とされている。だから、もし戦争になった時に「二重国籍者」はどちらの国で戦うのかという問題も存在しないはずである。それなのに、つい「国家への忠誠」などという発想をしてしまう。そこに「国家主義的思考」の名残りがあるというべきだろう。どうしても「忠誠」という言葉を使いたい人は、政治家は「選出国民への忠誠」が必要というべきだろう。

 ところで、「国民には権利だけでなく義務もある」などとやたらに強調する人がいる。その通りだけど、義務といっても日本国憲法には「兵役」の義務はない。「教育」「労働」の義務もあるけど、実質的に重要な意味があるのは「納税の義務」である。「二重国籍」であっても、納税のもとになる経済行為を行っていなかったら義務を果たしようもない。一方、「多国籍企業」は税額が安い国に資産を移したりして節税している。今世界で問題なのは、「二重国籍」ではなく「多国籍」の方ではないのか。まさに「非国民」として活動している企業のありようを覆い隠すのが、「二重国籍」問題のもう一つの意味ではないか。
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